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一生成仏抄と三世諸仏総勘文教相廃立

”深く信心を発して日夜朝暮に又懈らず磨くべし何様にしてか磨くべき只
南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを是をみがくとは云うなり”
”五行
とは地水火風空なり五大種とも五薀とも五戒とも五常とも五方とも五智とも五時とも云う、只一物・経経の異説なり内典・外典・名目の異名なり、今経に之を開して一切衆生の心中の五仏性五智の如来の種子と説けり是則ち妙法蓮華経の五字なり、此の五字を以て人身の体を造るなり本有常住なり本覚の如来なり是を十如是と云う此を唯仏与仏・乃能究尽と云う、不退の菩薩と極果の二乗と少分も知らざる法門なり然るを円頓の凡夫初心より之を知る故に即身成仏するなり〜
天地水火風は是れ五智の如来なり一切衆生の身心の中に住在して片時も離るること無きが故に世間と出世と和合して心中に有つて心外には全く別の法無きなり故に之を聞く時立所に速かに仏果を成ずること滞り無き道理至極なり〜”

”一生成仏抄 建長七年 三十四歳御作
 与富木常忍

一生成仏抄
 夫れ無始の生死を留めて此の度決定して無上菩提を証せんと思はばすべからく衆生本有の妙理を観ずべし、衆生本有の妙理とは・妙法蓮華経是なり故に妙法蓮華経と唱へたてまつれば衆生本有の妙理を観ずるにてあるなり、文理真正の経王なれば文字即実相なり実相即妙法なり唯所詮一心法界の旨を説き顕すを妙法と名く故に此の経を諸仏の智慧とは云うなり、一心法界の旨とは十界三千の依正色心・非情草木・虚空刹土いづれも除かず・ちりも残らず一念の心に収めて此の一念の心・法界に徧満するを指して万法とは云うなり、此の理を覚知するを一心法界とも云うなるべし、但し妙法蓮華経と唱へ持つと云うとも若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず麤法なり、麤法は今経にあらず今経にあらざれば方便なり権門なり、方便権門の教ならば成仏の直道にあらず成仏の直道にあらざれば多生曠劫の修行を経て成仏すべきにあらざる故に一生成仏叶いがたし、故に妙法と唱へ蓮華と読まん時は我が一念を指して妙法蓮華経と名くるぞと深く信心を発すべきなり。
 都て一代八万の聖教・三世十方の諸仏菩薩も我が心の外に有りとは・ゆめゆめ思ふべからず、然れば仏教を習ふといへども心性を観ぜざれば全く生死を離るる事なきなり、若し心外に道を求めて万行万善を修せんは譬えば貧窮の人日夜に隣の財を計へたれども半銭の得分もなきが如し、然れば天台の釈の中には若し心を観ぜざれば重罪滅せずとて若し心を観ぜざれば無量の苦行となると判ぜり、故にかくの如きの人をば仏法を学して外道となると恥しめられたり、爰を以て止観には雖学仏教・還同外見と釈せり、然る間・仏の名を唱へ経巻をよみ華をちらし香をひねるまでも皆我が一念に納めたる功徳善根なりと信心を取るべきなり、之に依つて浄名経の中には諸仏の解脱を衆生の心行に求めば衆生即菩提なり生死即涅槃なりと明せり、又衆生の心けがるれば土もけがれ心清ければ土も清しとて浄土と云ひ穢土と云うも土に二の隔なし只我等が心の善悪によると見えたり、衆生と云うも仏と云うも亦此くの如し迷う時は衆生と名け悟る時をば仏と名けたり、譬えば闇鏡も磨きぬれば玉と見ゆるが如し、只今も一念無明の迷心は磨かざる鏡なり是を磨かば必ず法性真如の明鏡と成るべし、深く信心を発して日夜朝暮に又懈らず磨くべし何様にしてか磨くべき只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを是をみがくとは云うなり。
 抑妙とは何と云う心ぞや只我が一念の心・不思議なる処を妙とは云うなり不思議とは心も及ばず語も及ばずと云う事なり、然れば・すなはち起るところの一念の心を尋ね見れば有りと云はんとすれば色も質もなし又無しと云はんとすれば様様に心起る有と思ふべきに非ず無と思ふべきにも非ず、有無の二の語も及ばず有無の二の心も及ばず有無に非ずして而も有無に徧して中道一実の妙体にして不思議なるを妙とは名くるなり、此の妙なる心を名けて法とも云うなり、此の法門の不思議をあらはすに譬を事法にかたどりて蓮華と名く、一心を妙と知りぬれば亦転じて余心をも妙法と知る処を妙経とは云うなり、然ればすなはち善悪に付いて起り起る処の念心の当体を指して是れ妙法の体と説き宣べたる経王なれば成仏の直道とは云うなり、此の旨を深く信じて妙法蓮華経と唱へば一生成仏更に疑あるべからず、故に経文には「我が滅度の後に於て・応に斯の経を受持すべし・是の人仏道に於て・決定して疑有る事無けん」とのべたり、努努不審をなすべからず穴賢穴賢、一生成仏の信心南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経。
 日 蓮 花押”

https://doushi100th.konjiki.jp/gosho/0383.html

”一生成仏抄いっしょうじょうぶつしょう
そもそも無始の生死[際限なく繰り返す生死流転の苦しみ]を留めて、今度こそ必ず無上菩提[最高の悟り]を証得しようと思うならば、すべからく衆生本有の妙理[生命に本然的に具わる本性・法性]を観じなければならない。
衆生本有の妙理とは、妙法蓮華経のことである。
故に妙法蓮華経と唱えたてまつれば衆生本有の妙理を観じることとなる。
(法華経は)文理真正の経王[文も理も真実である諸経の王]であるから、文字は即実相であり、実相は即妙法である。
ただ所詮は一心法界の旨を説き顕しているところを妙法と名づけるのである。故にこの経を諸仏の智慧というのである。一心法界の旨とは十界の衆生も、森羅三千の依報・正報も、色法・心法も、非情の草木も、虚空や国土のいずれも除かず、ちりも残さずに、一念の心に収めて、この一念の心が法界に遍く行き渡ることを指して万法というのである。この真理を覚知することを一心法界ともいうのである。
ただし、妙法蓮華経と唱えて持つといえども、もし自分自身の心の外に法があると思うならば、全く妙法ではなくソ法[権門の教え]である。ソ法は今経[法華経]ではない。今経でなければ方便であり権門である。方便・権門の教えならば成仏の直道ではない。成仏の直道でないなら、多生曠劫[幾多の劫を経ること]の修行を経ても成仏することができないので、一生成仏は叶いがたい。
故に妙法と唱え、蓮華と読む時は、我が一念を指して妙法蓮華経と名づけるのであると深く信心を発さなければならない。
すべての釈尊一代の八万の聖教・三世十方の諸仏や菩薩も、我が心の外にあるとはゆめゆめ思ってはならない。
したがって、仏教を習うといえども、心性を観じなければ全く生死[の苦しみ]を離れる事はない。
もし心の外に道を求めて万行万善[多くの修行・多くの善根]を修めようとするのは、たとえば貧しく困窮している人が、日夜に隣の財産を数えても、半分の銭も得られないようなものである。
したがって、天台宗の釈の中に、「もし心を観じなければ重罪を滅することはできない」と述べられ、もし心を観じなければ無量の苦行となると解説されている。
故にこのような人を「仏法を学びながらも外道となる」と非難されている。このことを、魔訶止観には「雖学仏教・還同外見(仏教を学びながらもかえって外道の見と同じになっている)」と釈されている。
それゆえ、仏の名を唱え、経巻を読誦し、華を散らし、香をひねることも、すべてが自分の一念に納まっている功徳善根であると信心を取るべきなのである。
このことを浄名経の中で「諸仏の解脱を衆生の心行に求めるならば、衆生即菩提であり、生死即涅槃である」と明かされている。また、「衆生の心が汚れるならば国土も汚れ、心が清ければ国土も清い」と説かれて、浄土というも穢土というも国土に二つの隔たりはない。ただ私たちの心の善悪によるのである、とある。衆生や仏というのも、また同様である。迷う時は衆生と名づけ、悟る時を仏と名づけるのである。たとえば曇った鏡も磨けば宝石のように見えるようなものである。
ただいまも一念無明の迷いの心は磨いていない鏡である。これを磨けば必ず法性真如の明鏡[法性の悟りの生命]と成るだろう。
深く信心を発こして日夜朝暮にまたおこたらずに磨きなさい。どのようにして磨くかというと、ただ南無妙法蓮華経と唱えられることがこれを磨くというのである。
そもそも妙とは何という意味か。ただ我が一念の心の不思議なるところを妙というのである。
不思議とは心も及ばず、言葉も及ばずという事である。
したがって、すなわち起こるところの一念の心を尋ねてみれば、有るといおうとすれば色も質もない。また無いといおうとすれば、さまざまな心が起こってくる。有ると思うべきではないし、無いと思うべきでもない。有無の二つの言葉も及ばず、有無の二つの心も及ばない。
有無ではなく、しかも有無に遍く(行き渡り)、中道一実の妙体であり、不思議であるのを妙と名づけるのである。
この妙という心を名づけて法ともいう。この法門の不思議をあらわすのに、譬喩を具体的事法になぞらえて蓮華と名づける。一心を妙と知るなれば、また転じてほかの心も妙法と知るところを妙経という。したがってすなわち善悪について起こるところの念心の当体を指して、これが妙法の体であると説き宣べた経王であるあから、成仏の直道というのである。
この旨を深く信じて妙法蓮華経と唱えるならば、一生成仏は更に疑いのないところである。故に経文にこうある。
「私の入滅の後において、まさにこの経を受持しなさい。この人が仏道において、必ず成仏することは疑いのない事である」と。
ゆめゆめ不審をもってはならない。穴賢穴賢。
一生成仏の信心とは南無妙法蓮華経である。南無妙法蓮華経。”

御本仏日蓮大聖人の俗弟子創価学会インターナショナル会長池田大作先生
随筆 新・人間革命「民衆の中へ 民衆と共に」2002年9月13日
「才能とは自分を信じることだ、自分の力を信じることだ」
正しき信仰は、わが生命に秘められた才能を自分らしく開花させ切っていく究極の源泉である。
御義口伝:始めて我心本来の仏なりと知るを即ち大歓喜と名く
南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり
御本仏日蓮大聖人の俗弟子創価学会会長戸田城聖先生
「われ自らが南無妙法蓮華経の当体なりと決めて、広宣流布に生き抜くのだ。この心で戦えば、何も恐れるものはない。これが真の折伏だ」
”三世諸仏総勘文教相廃立
〜仏の心法妙・衆生の心法妙と此の二妙を取つて己心に摂むるが故に心の外に法無きなり己心と心性と心体との三は己身の本覚の三身如来なり是を経に説いて云く「如是相応身如来如是性報身如来如是体法身如来」此れを三如是と云う、此の三如是の本覚の如来は十方法界を身体と為し十方法界を心性と為し十方法界を相好と為す是の故に我が身は本覚三身如来の身体なり、法界に周徧して一仏の徳用なれば一切の法は皆是仏法なりと説き給いし時其の座席に列りし諸の四衆・八部・畜生・外道等一人も漏れず皆悉く妄想の僻目・僻思・立所に散止して本覚の寤に還つて皆仏道を成ず,
仏は寤の人の如く衆生は夢見る人の如し故に生死の虚夢を醒して本覚の寤に還るを即身成仏とも平等大慧とも無分別法とも皆成仏道とも云う只一つの法門なり、十方の仏土は区に分れたりと雖も通じて法は一乗なり方便無きが故に無分別法なり、十界の衆生は品品に異りと雖も実相の理は一なるが故に無分別なり百界千如・三千世間の法門殊なりと雖も十界互具するが故に無分別なり、夢と寤と虚と実と各別異なりと雖も一心の中の法なるが故に無分別なり、過去と未来と現在とは三なりと雖も一念の心中の理なれば無分別なり〜法華経に云く「如是相一切衆生の相好本覚の応身如来如是性一切衆生の心性本覚の報身如来如是体一切衆生の身体本覚の法身如来」此の三如是より後の七如是・出生して合して十如是と成れるなり、此の十如是は十法界なり、此の十法界は一人の心より出で八万四千の法門と成るなり、一人を手本として一切衆生平等なること是くの如し、三世の諸仏の総勘文にして御判慥かに印たる正本の文書なり仏の御判とは実相の一印なり印とは判の異名なり、余の一切の経には実相の印無ければ正本の文書に非ず全く実の仏無し実の仏無きが故に夢中の文書なり浄土に無きが故なり、十法界は十なれども十如是は一なり譬えば水中の月は無量なりと雖も虚空の月は一なるが如し、九法界の十如是は夢中の十如是なるが故に水中の月の如し仏法界の十如是は本覚の寤の十如是なれば虚空の月の如し、是の故に仏界の一つの十如是顕れぬれば九法界の十如是の水中の月の如きも一も闕減無く同時に皆顕れて体と用と一具にして一体の仏と成る、十法界を互に具足し平等なる十界の衆生なれば虚空の本月も水中の末月も一人の身中に具足して闕くること無し故に十如是は本末究竟して等しく差別無し、本とは衆生の十如是なり末とは諸仏の十如是なり諸仏は衆生の一念の心より顕れ給えば衆生は是れ本なり諸仏は是れ末なり〜

五行とは地水火風空なり五大種とも五薀とも五戒とも五常とも五方とも五智とも五時とも云う、只一物・経経の異説なり内典・外典・名目の異名なり、今経に之を開して一切衆生の心中の五仏性五智の如来の種子と説けり是則ち妙法蓮華経の五字なり、此の五字を以て人身の体を造るなり本有常住なり本覚の如来なり是を十如是と云う此を唯仏与仏・乃能究尽と云う、不退の菩薩と極果の二乗と少分も知らざる法門なり然るを円頓の凡夫初心より之を知る故に即身成仏するなり〜

其の後方便の諸の経教を捨てて正直の妙法蓮華経の五智の如来の種子の理を説き顕して〜

〜今の縁は自行の二智を禀けて仏の境界を極め法界の信を起し円妙の道を増し根本の惑を断じ変易の生を損ず、但だ生身及び生身得忍の両種の菩薩倶に益するのみに非ず法身と法身の後心との両種の菩薩も亦以て倶に益す化の功広大に利潤弘深なる蓋し玆の経の力用なり已上自行」自行と化他との力用勝劣分明なること勿論なり能く能く之を見よ一代聖教を鏡に懸たる教相なり、極仏境界とは十如是の法門なり十界に互に具足して十界・十如の因果・権実の二智・二境は我が身の中に有つて一人も漏るること無しと通達し解了し仏語を悟り極むるなり起法界信とは十法界を体と為し十法界を心と為し十法界を形と為したまえりと本覚の如来は我が身の中に有りけりと信ず増円妙道とは自行と化他との二は相即円融の法なれば珠と光と宝との三徳は只一の珠の徳なるが如し片時も相離れず仏法に不足無し一生の中に仏に成るべしと慶喜の念を増すなり〜

天地水火風は是れ五智の如来なり一切衆生の身心の中に住在して片時も離るること無きが故に世間と出世と和合して心中に有つて心外には全く別の法無きなり故に之を聞く時立所に速かに仏果を成ずること滞り無き道理至極なり〜


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