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医学教育医療行政の改善が必要な現状と人体実験の歴史

国際機関・報道機関・学術機関・医療機関・発病兵器接種教唆国際的偽善団体・行政機関に悪魔教奴隷派情報部員が財力と社会的地位を餌にリクルートした・指導者奴隷を使用して、遅効性発病薬害兵器接種・有害電磁波・食品核汚染化学兵器微粒子・多臓器炎症劇薬処方等による病気製造と多臓器炎症劇薬細胞毒処方・放射線被爆火傷処方・内臓機能奪取・神経毒処方等による免疫細胞殺戮波及感染症罹患・多臓器炎症劇薬処方波及多臓器不全等の数十億人に対する大量殺人犯罪シナリオの実行等。陰謀画策の構図。日本中世界中の医療機関に”波動治療方法及び装置”等善良安全な治療法・予防法・検査法を導入し、医学教育医療行政を、薬害医療過誤等発生の多臓器炎症劇薬処方信仰等の枠を打ち破り、御本仏の本眷属俗弟子の人々・社会の善良な人々と協力して、社会改善の本来機能を発揮する事が必要。

*人間の命に対する敵(かたき)との言論による闘(たたか)いを始めなければならない。民衆(人間の知恵と健康と命)に対する陰謀画策の構図を見破らなければならない。騙されてはならない。創価学会インターナショナル会長
*医者が病気を製造している。殺さなくてもよいものを殺している。:一閻浮提(えんぶだい)第一の法華経の方人・日本国俗の中肩を並ぶる者無き法華経の信者・大師講の大師戸田城聖先生の第三回築地支部総会講演
*一生虚しく過ごして万歳悔ゆることなかれ(止暇断眠御書)。かたきを知らなければかたきにたぼらかされたてまつりてそうろうぞ。(光日房御書)(三世常恒の御利益・仏力法力の主師親三徳・大慈大悲・御本仏)

75〜80億人中、70億〜75億人の生存権否定思想=悪魔教、多数の民衆の生存権否定し、災難犯罪シナリオプラン実行の過程で経済的利益と国際的権力を国家を越えて奪い取ろうとしていた・金権腐敗堕落災難犯罪犠牲者生贄搾取教唆思想の奴隷・国際的組織犯罪シンジケート
ジョージア・ガイドストーン日本語訳(英語・中国語によるガイドラインより翻訳)
大自然と永遠に共存し、人類は5億人以下を維持する
健康と多様性の改善、再生を賢明に導く
新しい生きた言葉で人類を団結させる
熱情・信仰・伝統・そして万物を、沈着なる理性で統制する
公正な法律と正義の法廷で、人々と国家を保護する
外部との紛争は世界法廷が解決するよう、総ての国家を内部から規定する
狭量な法律や無駄な役人を廃す
社会的義務と個人的権利の平衡をとる
無限の調和を求める真・美・愛を賛える
地球の癌にならない - 自然の為の余地を残すこと - 自然の為の余地を残すこと

国際的組織犯罪シンジケートの戦争等への関与についての詳細・世界最古の秘密結社が様々な名称を名乗っていることについては以下の書籍・原子爆弾と秘密結社に詳細が掲載されています。

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毒薬療法信仰現代医療の歴史については書籍医療殺戮に詳細が掲載されています。

アマゾンより引用はじめ”

◎ これが現代医学の成り立ちと製薬トラストの独占体制だ
◎ ロックフェラー医療独占体制の下、アメリカ国民は覇気を失い、毎日大量に化学薬品を飲む国民に変わってしまった
◎ 医師たちが処方するのはもちろんロックフェラー医薬独占体制が生産する高価な医薬品ばかり
◎ 「人間性なき科学」が「道徳なき商業」と結びついたアメリカ医療体制の汚染された実態を告発する本
◎ 我々の健康を脅かす「ボロ儲けの医療技術・医薬品」は既に日本に上陸している
◎ GHQに占領された日本からロックフェラーの医療独占体制に反対の声が上がることはけっしてないだろう
◎ 米国医師会AMAはAmerican Medical Associationの略ではない、米国殺人協会American Murder Associationの略だ!
◎ エイズウィルスは予定通り米国国防総省によって開発された?!
◎ 米国政府機関・疾病管理センターは、エイズが一般市民に蔓延する可能性を国民に知らせないよう、全力で活動した?!
◎ 「私は決してガンの治療法を見つけません」誓約書にサインすれば研究助成金が出る?!
◎ 米国ガン協会は自分たちの組織を存続させるためにガンの問題がなくならないように望んでいる
◎ 症状が重いため放ったらかしにされたガン患者の方が、症状が軽くて治療を受けた患者より長生きしている現実
◎ 日本もアメリカも国家ぐるみでこの犯罪に加担している
◎ アメリカに学んではいけない、歪んだ事実に違和感を抱け!
◎ アメリカからナチュロパシー(自然療法)・ホメオパシー(同種療法)が消えた――アロパシー(対症療法)はロスチャイルド家が発達させたドイツの医療制度
◎ 脅迫された自然治療家は、廃業または国外逃亡するしかなかった
◎ 現代医学は「死の教会」ーーその4つの「聖水」とは?
◎ 養豚家に売れなかった「豚インフルエンザワクチン」の対象を人間に切り替えて利益を得る製薬会社
◎ ワクチンの安全性は、子供に実際に摂取するまでは証明できない
◎ 米国公衆衛生局が推進した飲料水へのフッ化物添加で腎臓病・心臓病による老人の死亡率アップ
◎ フッ化物添加の真の目的は、一般大衆から政府に反抗する力を失わせ、自由を奪って彼らを完全に支配し、思うがままに操ることにある。
◎ フッ化物はナチスが発見した「言いなりになる大衆」製造兵器
◎ 化学トラストを支配する寄生体は医療システムを支配して宿主を弱体化する
◎ 本書はこの寄生体と戦うべく、日本を含めたすべての民族に向けられたメッセージである”引用おわり

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人体実験の歴史については書籍”プルトニウム人体実験”に年表が掲載されています。

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ナチスの人体実験については書籍とウィキペディアのナチスドイツの人体実験


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ナチス・ドイツの人体実験とニュルンベルク・コード

ナチス・ドイツの人体実験とニュルンベルク・コードより引用はじめ”

ナチス・ドイツの医師たちによる人体実験と、それを裁いた基準である、いわゆる「ニュルンベルク・コード」をめぐる歴史的事実を振り返ってみます。

I. 法廷と罪状----何をやったのか

 ナチス・ドイツを連合国が裁いたニュルンベルク国際軍事裁判のうち、米国が単独で担当した12のいわゆる「継続裁判」の第一法廷の第一事件は、23人の被告のうち20人が医師であるという特異な裁判でした。「医師裁判 the Doctors' Trial」とか「医学事件 the Medical Case」とも呼ばれるこの裁判は、ナチス・ドイツ時代に医師たちによって、医学の名の下に、行われた犯罪を裁くものだったのです。裁判は米国式に行われ、検事団と裁判官はみな米国人でした。
 ニュルンベルク裁判の根拠となったのは、1945年12月20日に定められた「ドイツ管理委員会法・第10号 Control Council Law No. 10」です。この第2条第1項に「平和に反する罪」「戦争犯罪」「人道に反する罪」「国際軍事法廷によって有罪とされた犯罪集団および組織の成員であること」の4つの罪が規定されています。この法律は1943年10月30日(発表は11月1日)にルーズベルト・チャーチル・スターリンが署名した「ドイツの残虐行為に関する宣言」(モスクワ宣言)と、1945年8月8日に米・仏・英・ソ4国の代表が署名した、枢軸国の戦争犯罪の訴追と処罰に関する合意(ロンドン合意)に基づいていました。
 医師たちの訴追は「共同謀議 The Common Design or Conspiracy」「戦争犯罪」「人道に反する罪」「犯罪組織への所属」の4点にわたって行われました。第1点の「共同謀議」とは、戦争犯罪と人道に反する罪への荷担を共謀したという罪状です。また第4点は、ナチス親衛隊へ所属していたことが問われました。そして、第2点「戦争犯罪」と第3点「人道に反する罪」の罪状として挙げられたのが、以下に述べる、人体実験などの事柄でした。

(A) 超高度実験
 ドイツ空軍が新しく開発した戦闘機は、イギリスの戦闘機よりも高い高度を飛べるように、高度18000mまで上昇できるようになっていましたが、このような高度における低い気圧に操縦士が耐えられるかどうかが問題でした。12000m以上の高度に匹敵する低圧実験は、志願者に著しい苦痛を与えたために中断せざるを得ませんでした。そこで空軍軍医大尉のS. ラッシャー医師(敗戦前に死亡)、ドイツ航空実験研究所のS. ルッフ医師およびH. W. ロンベルグ医師は、ナチス親衛隊次官のR. ブラントの許可を得て、低圧実験室の中にダッハウ強制収容所の囚人を入れて高度20000mに匹敵する低気圧にまでさらす実験を、1942年3月頃から8月頃まで行いました。ユダヤ人やポーランド人やロシア人捕虜約80人がこの実験で亡くなりました。実験の経過は克明に記録され、死体は解剖されました。かろうじて生き残った被験者もひどい後遺症に苦しみました。 

(B) 低体温実験
 空中戦で撃墜されパラシュートで脱出した後、北海に落ちたパイロットは、冷たい海水にさらされて凍死することがありました。そこでドイツ空軍軍医中佐G. A. ヴェルツ医師はラッシャーと協力して、低体温状態に陥った人間を蘇生させる実験を、ダッハウ強制収容所で1942年の8月頃から1943年の5月頃まで行いました。囚人たちは、耐寒飛行服を着せられて氷水のタンクに3時間漬けられるか、凍てつく戸外に裸で9時間から14時間さらされたあと、さまざまな方法で体を温められました。被験者の体温測定や血液の採取が行われ、死亡した被験者の解剖も行われました。温める方法は、熱い湯につけるほか、親衛隊元帥ヒムラーの命令でラヴェンスブリュック強制収容所から4人のロマ(いわゆる「ジプシー」)の女性囚人を呼び寄せ、裸にさせて被験者を2人ずつの間にはさんで体温で温めさせるということまで行われました。この実験で約90人の囚人の生命が奪われています。
 実験結果は1942年10月にニュルンベルクで行われた医学会議で、ラッシャーにより「低体温の防止と治療」と題して、またヴェルツにより「危険な点にまで冷却した後の温め直し」と題して、それぞれ発表されています。

(C) マラリア実験
 やはりダッハウ強制収容所で、1942年2月頃から1945年ころまで行われたこの実験では、1000人以上の囚人たちが、汚染された蚊に刺されたり、蚊の粘液腺からの抽出物を注射されたりして、人為的にマラリアに感染させられ、さまざまな予防薬や治療薬のテストに使われました。カトリックの司祭も被験者の中に含まれていました。30人がマラリアによって死亡し、300人から400人が薬の副作用や合併症で亡くなったといわれています。

(D) 毒ガス実験
「ロスト」と呼ばれた毒ガス(マスタード・ガス)による火傷の効果的な治療法を開発するための実験で、1939年9月から1945年4月まで、ザクセンハウゼンやナツヴァイラーをはじめとする各地の強制収容所で何度も行われました。被験者は毒ガスを肌に塗られ、全身に火傷を負ってひどい苦しみを味わい、盲目になったり死亡した者もいました。被験者の傷や回復の様子は毎日写真に撮られ、死亡者は解剖されました。被験者や解剖で取り出された臓器の写真は写真集として公刊されました。

(E) サルファ剤治療実験
 1942年7月頃から1943年9月頃までラヴェンスブリュック強制収容所で行われたこの実験は、戦場での負傷にサルファニルアミド(サルファ剤)がどのくらい有効かを確かめるものでした。被験者は足に切り傷を作られ、傷口に木くずやガラスの破片を擦り込まれ、数日後にサルファ剤で治療が試みられました。銃創に似せる場合は、傷の上下の血管を結紮して血行が妨げられ、ガス壊疽に感染させられました。被験者は死亡したり、ひどい後遺症に苦しんだりしています。

(F) 骨・筋肉・神経の再生実験および骨移植実験
 やはりラヴェンスブリュック収容所で、1942年9月頃から1943年12月頃に行われた実験で、女性の囚人から骨や筋肉や神経の一部を摘出してそれらが再生するかどうかを調べ、また他者への肩胛骨の移植が試みられました。実質的には科学的目的すらなく、ただ被験者にひどい苦痛を与えただけの、無意味な実験でした。

(G) 海水飲用実験
 ドイツ空軍と海軍の要請で1944年7月にダッハウ強制収容所で行われた、非常時に海水を飲めるようにするための実験です。被験者となった囚人は、難破した時と同じように乏しい食糧しか与えられずに、4つのグループに分けられます。第1グループにはいっさい水分を与えられません。第2グループには通常の海水だけが与えられます。第3グループには塩味を隠しただけで塩分はそのままの海水が与えられます。そして第4グループには塩分を取り除いた海水が与えられました。ロマの人々、ユダヤ人、および政治犯が被験者として用いられ、ひどい苦痛にさいなまれ、亡くなる人もいました。

(H) 流行性黄疸(肝炎)実験
 1943年7月頃から1945年1月まで、ザクセンハウゼンとナツヴァイラー強制収容所で、流行性黄疸(肝炎)の原因と予防接種を研究するための実験が行われました。11人のユダヤ人の子供を含む被験者は肝炎に感染させられ、肝臓穿刺を受け、死亡したり、著しい苦痛にさいなまれたりしました。

(I) 断種実験
 アウシュヴィッツ、ラヴェンスブリュックほかの強制収容所で1941年3月頃から1945年1月頃まで行われたこの実験は、ロシア人・ポーランド人・ユダヤ人その他の人々を、少ない費用でそうと気づかれないうちに大勢断種できる簡便な方法を開発するためのものでした。数千人の人々がX線照射や手術や薬剤で不妊にさせられ、副作用に苦しみました。

(J) 発疹チフスなどの実験
 1941年12月頃から1945年2月頃にかけてブヘンヴァルトとナツヴァイラーの収容所で、発疹チフスの実験が行われました。ワクチンや薬剤の有効性を確かめる実験では、被験者の75%にワクチンや薬剤を投与され、3週間から4週間後、発疹チフスに感染させられました。残りの25%の被験者は「対照群」として、何の予防措置もなくチフスに感染させられました。それだけではなく、単に発疹チフスウイルスの培地とするためだけに数多くの健康な囚人がチフスに感染させられ、その90%以上が死亡しました。数百人の人々がこの実験の犠牲になっています。黄熱病、天然痘、パラチフス、コレラ、ジフテリアの実験も行われました。

(K) 毒物実験
 1943年12月頃と1944年10月頃に、ブヘンヴァルト強制収容所で、さまざまな毒物の影響を調べる実験が行われています。ロシア人囚人の食事にひそかに毒が混ぜられ、死亡したり、生き残った場合でも解剖のために殺されました。1944年9月頃には5人の囚人が毒を詰めた銃弾で撃たれ、弾が貫通した2人を除く3人が毒によって死亡したという実験報告があります。

(L) 焼夷弾治療実験
 1943年11月頃から1944年1月にかけてブヘンヴァルト収容所で、焼夷弾による火傷の治療実験が行われました。1943年11月には5人の被験者が英国軍の焼夷弾から取り出された燐で火傷を作られ、著しい苦痛を味わわされました。

(M) ユダヤ人骨標本コレクション
 親衛隊大佐W. ジーフェルスは1942年2月、R. ブラントを通じてヒムラー元帥に、ユダヤ人種の頭蓋骨標本を作る学術的必要性を訴え、そのためにユダヤ人共産党員の捕虜を用いるよう要請しました。ヒムラーは東部戦線の捕虜ではなくアウシュヴィッツ強制収容所の囚人を用いるよう伝えました。その結果、112人のユダヤ人が選ばれ、写真を撮られ、人体各部分を計測された後に殺害されました。死体はストラスブルク大学に送られて解剖され、さまざまな検査や臓器の計測が行われたあと全身骨格の標本にされ、ストラスブルク大学解剖学研究所の骨標本コレクションに加えられました。

(N) ポーランド人結核患者の大量殺害
 1942年3月から1944年1月にかけて、占領したポーランド地域に住むドイツ人の健康を護るために、結核に感染されているとみなされたポーランド人は殺害されたり、治療施設の乏しい収容所に押し込められたりしました。そのため、数万人のポーランド市民と兵士が結核で死亡しました。

(0) 障害者の「安楽死」
 1939年9月から1945年4月まで、ドイツおよび占領地各地で、障害者・高齢者・末期患者・奇形児など「穀潰し」とされた人々の大量殺害が行われました。「安楽死」と呼ばれたこの殺害計画は、ナーシング・ホームや病院や施設で、ガスや注射その他の方法を用いて行われ、遺族には自然死や病死と伝えられました。「安楽死」に従事した医師たちはやがて東部の占領地域に送られて、ユダヤ人の抹殺に従事しました。

”ナチス・ドイツの人体実験とニュルンベルク・コードより引用おわり

日本の満州国での731部隊の人体実験について

731部隊(関東軍防疫給水部本部)Unit 731

「731部隊の真実」 今までの記録 731部隊の組織と関係者

東京保険医協会より引用はじめ”薬害エイズ裁判と731部隊

731部隊の生き残りと戦後日本の医学

ミドリ十字ばかりではない。戦後の1947年に設立された厚生省の国立予防衛生研究所(現国立感染症研究所)の歴代所長には、731部隊で人体実験に関与した医師が就任していたし、今回の被告人・安部英自身も、薬害エイズ事件以前に、すでに731部隊の関係者の1人として名を挙げられていた人物である。それは、ミドリ十字創業者の内藤良一との密接な関係に基づく報道であったが、今回の薬害事件があまりにも悲惨なものであったため、事件報道の背後で隠蔽されてしまった感がある。すでにエイズ・ウイルスが発見され、非加熱製剤の安全性に国際的にも疑問が出ていた1983年以降ですら、目の前の血友病患者に対して、まるで人体実験のようにミドリ十字社製の非加熱製剤を打ちつづけた安部英は、まさに731部隊の実験体質をそのまま引きずってきた亡霊であるかのように見える。”東京保険医協会より引用おわり

731部隊の元少年兵が激白…「残虐な人体実験が我々の日常だった」

日本軍による人体実験

日本軍による人体実験より引用はじめ”

6. ナチスの人体実験との共通点と相違点

 最後に、前回の講義で扱ったナチス・ドイツによる人体実験と、日本軍による人体実験(および生体解剖による殺害)の共通点と相違点を、簡単にまとめておきます。

 まず第一の共通点は、双方とも、被験者に治療的効果などのメリットがありえない「非治療的実験」であったということです。この点は、次回に述べる米国の放射能実験も同様です。治療的実験をめぐる倫理的考察を行う際には、医師・患者関係や治療可能性に伴うさらに複雑な事情を考慮に入れる必要があります。もっとも、ナチスや日本軍による人体実験への反省から、人体実験に関する最低限の倫理が抽出されてくることは確かですが。

 第二の共通点は、どちらも「どうせ殺される者」を用いた実験であるということです。ナチスの場合、それは絶滅収容所で抹殺される運命にあるユダヤ人やスラブ人やロマの人々などでした。日本軍の場合は、スパイやレジスタンスおよびその協力者と疑われた中国人やロシア人、朝鮮人、モンゴル人などでした。そして、いずれの場合も「どうせ殺される者」と決めるにあたって、人種差別や民族差別や思想差別が大きな役割を果たしていました。

 第三の共通点は、ドイツの場合も日本の場合も、軍事上の目的のために実験が行われた、ということです。もっとも、ドイツの場合は「断種実験」や「安楽死」や「ユダヤ人骨標本コレクション」のように、優生学や人種衛生学[民族衛生学]の研究のために行われたものや、「骨・筋肉・神経の再生実験および骨移植実験」のように目的のはっきりしない実験もありましたが、その他の実験は、曲がりなりにもいちおう軍事上の目的が設定されていました。日本軍の場合は国家的プロジェクトとして、細菌兵器の開発という明確な軍事目的をもっていました。次回に取り扱う米国の放射能実験も、米国の安全保障上の目的を持っていたために、長く隠蔽されてきました。このように、国を守るという口実があれば非常に残虐な人体実験も行われうる、という点は押さえておく必要があります。
(もっとも、そもそもこの口実は、戦争という最も甚だしい残虐行為すら正当化してしまう口実なのですが、「国を守るため」であってもしてはいけないことがあるのか、あるとすればその根拠は何か、という問題は、さらに考える必要があります)

 一方、相違点の第一は、ナチスの人体実験の舞台は絶滅収容所であり、その機構と施設の本来の目的は「抹殺」することであって人体実験をすることではなかったのに対し、日本軍とりわけ石井機関の機構と施設ははじめから人体実験を行うことを目的に作られていた、という点です。その典型が平房の七三一部隊で、これは人間を使って実験を行い殺すことを徹頭徹尾念頭に置いて設計された施設と人員配置をもっていました。それに比べると、ナチスの人体実験はずっと思いつき的に行われています。
 これほど科学的で、大規模で、冷酷な人体実験機関は、歴史上ほかに存在しません。しかも石井機関は莫大な経費によって支えられた国家的プロジェクトであり、人体実験にここまで国家予算をつぎ込んだ国は日本以外にはなかったでしょう。そして、人体実験や生体解剖による殺害にこれほどの規模で組織的に協力した医療専門職集団も、日本の医学界以外にはないのです。その意味で、日本軍の人体実験は、その規模と組織性と計画性において、ナチスの人体実験をはるかに上回ると断言できます。

 第二の相違点は、医学界の組織的関与の度合にあります。石井機関には、石井四郎の強力なリーダーシップの下に、医学界の有力者がネットワーキングされていました。これに対してナチスの人体実験の場合は、ナチスに入党した医師の割合は高かったものの、その関与は個人単位のものだったようです。悪名高きアウシュヴィッツの医師メンゲレも、師であるフォン=フェルシュアー教授に命じられてアウシュヴィッツへ行ったわけではありません。この点で、正路倫之助に七三一部隊行きを厳命された吉村寿人の場合とは異なっています。また、ナチスの場合には、ユダヤ人医師や社会主義者の医師など抵抗運動を続ける医師たちがいたのに対し、日本の医師の間に軍や石井機関に抵抗する動きはとくにありませんでした。このように、医学界の組織的関与の度合はナチスよりも日本の方が高かったといえます。にもかかわらず、いや、それだからこそ、ドイツの医師会が「『人間の価値』展」を開催したのに対し、日本の医師会は「七三一部隊展」の際にもいっさい沈黙を守っていたのでしょう。

 第三の相違点は、生き残った被験者がナチスの人体実験では相当数いるのに対し、日本軍の人体実験では1人もいない、という点です。生体解剖されればもちろん生き残ることはできませんでしたし、生体解剖されなかったとしても実験後に毒物を投与されたりして殺されました。また、七三一部隊では「マルタ」をまず感染実験に使い、もしそれで生き長らえたら次に凍傷実験に使い、それで四肢を失ってもなお生き残った被験者は毒ガス実験などに使って殺したといわれています。しかも、ソ連軍の侵攻により撤退するときには、証拠隠滅のためにすべての「マルタ」が「処分」されたのです。こうした被験者の徹底的な「利用」ぶりもまた、はじめから人体実験に使って殺す目的で組織された石井機関と、思いつき的なナチスの人体実験との違いを際立たせています。

 第四の相違点は、ナチスは絶滅収容所に入れられていた囚人をいわば場当たり的にピックアップして被験者としたのに対し、石井機関では憲兵隊や特務機関との連携のもとに「特移扱」という被験者調達システムが整えられていた、という点です。これもまた日本軍の人体実験の組織性と計画性を物語っています。このような連携は関東軍や陸軍首脳部の承認がなければ成り立ちませんので、「特移扱」は石井機関が国家ぐるみのプロジェクトであることをはっきり示すものであり、その責任はおそらく日本軍の最高責任者であった天皇にまで及ばざるをえないことを示唆しています。

 第五に、日本軍とくに石井機関の、証拠隠滅と箝口令の徹底ぶりが挙げられます。ナチスの場合、人体実験の証拠隠滅はそれほど組織的なものではなかったため、多くの証拠を後に残すことになりました。ニュルンベルク裁判の訴追資料は、ナチスの医学犯罪の全体像を描き出しています。これに対し、石井機関では証拠隠滅が徹底的に行われました。そのため、ソ連の努力にもかかわらず東京裁判で表沙汰にすることは不可能でしたし、ハバロフスク裁判や中国の戦犯裁判でも、石井機関の全体像は明らかにできませんでした。
 また、石井四郎は帰国する部隊員を「秘密は墓場まで持っていけ、もしバラすようなことがあったら、この石井はどこまでも追いかけるぞ」と恫喝し、

一、郷里に帰ったのちも、七三一に在籍していた事実を秘匿し、軍歴をかくすこと。
二、あらゆる公職には就かぬこと。
三、隊員相互の連絡は厳禁する。

と厳命したといいます【越定男『日の丸は紅い泪に』p.173】。この厳命は戦後長く旧部隊員(なかでも下級隊員)を拘束し続けます。彼らがこの秘匿命令に逆らってようやく重い口を開き始めたのは、それから35年あまり経った1980年代に入ってからでした。こうした徹底ぶりもまた、石井機関の組織性の高さを表すものです。

 第六の相違点は、ナチスの人体実験はニュルンベルク裁判で厳しく追及されたのに対し、日本軍の人体実験および生体解剖による大量殺害の場合は、石井四郎を筆頭ととする実行責任者がほとんど戦犯に問われなかった、という決定的な違いです。これは第一義的には正義よりも自国の利益を優先させた米国のせいですが、暴露されればまちがいなく窮地に陥るような行動をあえて米国がとったのは、思いつき的なナチスの人体実験が独占に値する成果をほとんど含んでいなかったのに対し、石井機関の人体実験は(秘密が保たれたことも含め)それだけ独占に値する成果を上げていたからだともいえます。もちろん、最大の被害国である中国が内戦状態に陥ったこと、ソ連が石井機関の主要な幹部の身柄を拘束できなかったこと、米国は石井らの身柄は押さえたものの現地での捜査を行えなかったこと、そして東西の冷戦が米中ソ3国の捜査協力をまったく不可能にしてしまったこと、など、石井たちにとって都合のよい歴史的偶然が重なったことが、戦犯免責を可能にしたのですが。

 そして最後に第七の相違点は、戦後における国内での追及と反省の仕方の違いです。旧西ドイツでも、ナチスに荷担した医学者の多くはそのまま要職に留まったため、医学界自身の反省の動きは1980年代まではほとんどありませんでした。しかしドイツでは何といってもニュルンベルク裁判が行われて人体実験の事実が国際社会に公表されていましたし、ユダヤ人団体などによるナチス犯罪人の告発も続けられていましたし、ナチス時代に国を追われた社会主義者の医師たちは国外から告発活動をしていましたので、こうしたことがいっさいなかった日本と事情は大きく異なります。しかも1980年代に入ると「『人間の価値』展」に象徴されるように、医学界自身の手による反省も行われています。
 日本でも1980年代以降、石井機関の下級隊員や、湯浅謙ら陸軍病院に務めていた元軍医たちが、ようやく重い口を開いて公の場で証言を始めたこと、中国や米国・ロシアの資料が以前よりも手に入りやすくなったこと、国内でも新しい資料がいくつか発掘されたこと、などによって、研究は大きく進展してきました。しかし日本政府は、七三一部隊の存在だけは認めているものの、人体実験が行われていたことは未だに認めていませんし、まして謝罪などまったく行っていません。日本の医学界も、この問題に関しては固く口を閉ざしたままです。これは、単にドイツと日本の「相違点」といってすますには、あまりにも大きな相違です。

”日本軍による人体実験より引用おわり

米国における人体実験と政策

米国における人体実験と政策より引用はじめ”

米国はニュルンベルク裁判でナチスの人体実験を裁く一方で、日本軍の人体実験は隠蔽しました。しかしその米国の国内でも、医学の名の下にさまざまな人体実験が行われ、スキャンダルを巻き起こしました。今回は、こうした米国内の人体実験事件と、その当時の倫理的基準、および事件に対応して生みだされてきた政策に関してまとめてみます。

1. 放射線被曝実験

【Advisory Committee on Human Radiation Experiments, Final Report, Executive Summary およびアルバカーキー・トリビューン編『プルトニウム人体実験』を参照】

 1993年11月15日、米国ニューメキシコ州アルバカーキーの新聞『アルバカーキー・トリビューン』は、米国の科学者たちが1945年から1947年にかけて、18人の市民にプルトニウムを注射したことを報ずる一連の記事の掲載を始めました。プルトニウムが人体に与える影響を調べるための人体実験が、米連邦政府の指示により、カリフォルニア大学、シカゴ大学、ロチェスター大学の研究者の手によって、秘密裡に行われていたというのです。こうした国家的な放射線被曝実験が行われていたことは、1986年と1993年に米連邦議会の小委員会がすでに報告していましたが、アイリーン・ウェルサム記者が書いた『アルバカーキー・トリビューン』のこの長大な記事は、被験者となった人々の名前まで具体的に突き止めた最初の報道であり、全米に大きな反響を巻き起こしました。各地の報道機関も、同様の実験があちこちで行われていたことを次々に報じ、エネルギー省のオリアリー長官は記者会見で、大きな衝撃を受けたことを表明しました。その直後からエネルギー省には、被験者にされた人々やその家族・友人からの電話が何千本も殺到します。そして1994年1月15日、クリントン米大統領は「放射線被曝実験諮問委員会 Advisory Committee on Human Radiation Experiments (ACHRE)」の設置を決定し、同年4月から活動を開始しました。
 この委員会は放射線被曝実験 human radiation experiments を、第一に「人間を電離放射線 ionizing radiation に意図的にさらす実験」(診断や治療など通常の日常的な医療行為による被曝は含まない)、第二に「(A) 人間の健康に対する電離放射線の影響を調べるため、あるいは (B) 電離放射線への人間の被爆の程度を調べるために計画された、環境へ人為的に放射性物質を放出する intentional environmental releases of radiation 実験」と定義しています(Federal Register 59 (13) [1/20/1994] p.2935)。この中には、実験的状況下にはない活動の結果として生じた被爆の影響を調べる研究も含まれます。そこで、ウラン鉱山の鉱夫や、核実験が行われたマーシャル諸島の住民の研究も、この委員会の調査対象になることになります(Final Report p.11)。また、この委員会が調査したのは、実験が開始された1944年から、全米研究規制法 National Research Act(後述)に従い連邦資金による人体実験の規制が制定された1974年までの放射線被曝実験と、現在行われている放射線被曝実験です。委員会は1年半にわたる精力的な活動を経て、1995年10月に、925ページにも及ぶ包括的な報告書を提出しました。
 報告書によると、1944年から1974年にかけて、米国連邦政府は約4千件にもおよぶ放射線被曝実験のスポンサーになっていました。このうちのかなりの実験については記録が不完全で詳しく調べることができませんでしたが、委員会は以下の8つのカテゴリーの実験に関して事例研究を行いました。

 (1) プルトニウムなど原爆関連物質を用いた実験
 (2) 原子力委員会による放射性同位元素の配布プログラム
 (3) 子どもを用いた非治療的研究
 (4) 放射線全身照射
 (5) 囚人を用いた実験
 (6) 核実験と関連した人体実験
 (7) 放射性物質の人為的環境放出
 (8) ウラン鉱山の鉱夫とマーシャル諸島住民の観察的研究

 放射性同位元素投与の大部分は、今日の研究で行われているものとそれほど変わらず、成人の被験者にはほとんど何も身体的被害は生じなかったようです。しかし、子どもに対して行われた投与実験では、甲状腺がんの危険性が増した可能性があります。放射線照射や放射性物質投与の直後に患者が亡くなったいくつかの研究では、急性放射線障害が認められました。
 健康な被験者を除き、これらの実験の被験者たちから、同意を得ていた形跡はほとんどありません。次節で詳しく検討するように、1940年代や1950年代では、実験を行う際に被験者に知らせたり、同意を得たりすることは、ほとんどなかったのです。放射性同位元素の投与では被験者に対する被害は最小限に止められましたが、被験者を選ぶ際の公平さは考慮されませんでした。
 また、1944年から1974年までの間、連邦政府は数百件の放射性物質環境放出実験を行っていました。これは主に、核兵器の使用における兵士の安全装備や放射性物質の分散のしかたを調べるためのものでした。この環境放出によって市民が直接に被害を被ったことはないようです。しかし、それは秘密裡に行われ、市民からの十数年にわたる請求にもかかわらず、ほとんど情報は開示されませんでした。
 さらに、ウラン鉱の坑道で、危険なレベル以上のラドンやその同位元素にさらされた結果、少なくとも数百人の鉱夫が肺がんで亡くなり、生存者も発がんの可能性が増大しています。彼らは核兵器製造のためのウラン採掘を行いながら、米連邦政府の研究対象とされていたのです。政府は、ウラン鉱の換気をよくすることで危険性を減少させたり、鉱夫に警告したりする等の対策を怠っていました。
 しかしながら委員会は、こうした人体実験と環境放出の最大の害は、政府に対する市民の不信を生んだことだと述べています。人体実験の被験者やその家族は、政府が真実を隠したことにより、賠償を求める機会を奪われてきました。国の安全保障のため秘密にする必要があった場合でも、適切な記録が作成されなかったり廃棄されたりしたので、市民が事実を知ることができなくなってしまっています。
 最終的に委員会は、主に以下のような勧告を行っています。

・米国政府は以下の場合に、一人ひとりに対して人格的謝罪を行い、経済的補償を被験者ないしその最近親者に行うべきである。すなわち、
(1) 困難や法的責任を回避するために、被験者やその家族、および市民に対して秘密保持がなされ、その結果として賠償申し立てを行う機会が奪われた場合。
(2) 被験者に直接の医学的利益がないか、あるいは、当時の基準で問題のある措置が標準的な医療行為と称して行われ、実験に伴う身体的障害を引き起こした場合。

・1990年の被曝補償法を改正して、一定の期間(たとえば1年以上)ウラン採掘作業に携わって肺がんになったすべての鉱夫に、被爆量にかかわらず、補償を行うことを、真剣に検討するべきである。

・過去も現在も、放射線被爆実験と他の人体実験の間に違いはない。今日の連邦政府の人体実験に関する規制は1940-50年代よりはかなり進歩しているが、なお欠陥も残っている。人間を被験者とする研究に携わる科学者は倫理を最も考慮しなければならないということを全国的に保障する努力が行われなければならない。

・重篤な患者が《被験者になることで直接の医学的利益が得られる》という過大な期待を抱くことに、政府と医学界は留意すべきである。委員会が調査した同意文書の様式の中には、過度に楽観的に利益を謳うもの、実験が生の質と家計に与える影響の説明が不十分なもの、素人には理解困難なもの、などがあった。

・人体実験の規則と原理を、開かれた公共の場で、継続して解釈しその適用を示す機関を設立すべきである。たとえば委員会では以下の三つが政策課題として意識された。
(1) 健康な子どもを用いた実験における「最小の危険性」の意味の明確化
(2) 施設にいる子どもを用いた研究をカバーする規制
(3) 決定能力を欠く成人を用いる研究のガイドライン、とりわけ直接の医学的利益がなく最小限以上の危険性がある研究の場合

・人体実験や環境放出を政府が秘密裡に行わなければならない特別な場合があるかもしれない。しかし、その場合は被験者や市民の人権と利益を護る特別な擁護措置が必要である。

・委員会は、人体実験に関して、以下の要件を課す連邦政策を勧告する。
(1) 秘密裡に行う研究においては、すべての被験者がインフォームド・コンセントを与えること。例外や免除は認められない。
(2) 秘密裡に行う人体実験は、機密情報に触れることを許可された非政府の専門家と市民代表からなる独立の委員会による審査と承認を得て、はじめて許可されること。

・環境放出に関しては、独立の審査により、その必要性と、危険性が最小限に抑えられていることと、国の正当な安全保障の要求を満たすできるだけ早い時期に開示するよう記録が保存されることが、確かめられなければならない。具体的には、委員会は以下の事項を勧告する。
(1) 有害物質を秘密裡に環境放出するのは、独立の委員会による審査と承認を得て、はじめて許可されるべきである。この委員会は、機密情報に触れることを許可された適切な非政府の専門家と市民代表からなる。
(2) 機密情報に触れることを許可された人員からなる、(環境保護局のような)適切な政府機関が、機密計画を監督すべきである。

 しかしながら、この放射線被曝実験は、先に述べたように1993年まで一般にはほとんど知られていなかったため、米国内の人体実験の規制が整備されるにあたっては、まったく影響を及ぼしませんでした。むしろ、1993年にはすでに人体実験の包括的な規制が出来上がっていたので、人々が放射線被曝実験の反倫理性と違法性をただちに理解できたといえます。しかし、この実験が始められた1940年代に、米国では人体実験に関して何も基準はなかったのでしょうか。米国内における人体実験の規制は、どのような経緯をたどって成立してきたのでしょうか。

2. 第二次世界大戦中の米国における人体実験

【David J. Rothman, "Research at War," in his Strangers at the Bedside, Basic Books, 1991, Chap. 2, pp.30-50(『医療倫理の夜明け』第2章)を主に参照。引用後の数字は原書の頁を示す】

 歴史学者のD. ロスマンは、米国の医学研究は第二次世界大戦中に大きく変わったと述べています。第一に、それまで研究者たちが一人ひとりばらばらに行っていた「家内工業的」な研究が、政府の資金と指導による大規模な国家的プロジェクトになりました。第二に、被験者となる患者のために行われる医学実験よりも、前線の兵士など被験者以外の人々のための実験が、ひんぱんに行われるようになりました。第三に、研究者である医師と被験者が、もはや共通の目的をもたない、よそよそしい他人のようになりました。そして第四に、表面的なものではあったにせよ一応存在していた、被験者の同意を得なければならないという常識が、研究が緊急を要するという理由で、しばしば踏みにじられることになりました。しかし米国内で、このように変質した人体実験に対する批判はほとんどなく、むしろ必要で賞賛すべき銃後の努力であるとみなされました。そのため米国の研究者たちは、1960年代に至るまで、ナチスの人体実験やニュルンベルク・コードは自分たちとは関係ないものと思いこむことができたのだとロスマンはいいます。
 第二次世界大戦さなかの1941年、フランクリン・ルーズベルト大統領は、直属機関として科学研究開発局 Office of Scientific Research and Development(OSRD)と、その下部機関である医学研究委員会 Committee on Medical Research(CMR)を設立し、マンハッタン計画以外の軍事に関わる、さまざまな医学研究を統轄させるようにしました。CMRは戦時中に約600件に上る医学研究計画をOSRDの資金援助が受けられるよう審査推薦し、OSRDは約135か所の大学・病院・研究所および企業と契約して研究を行わせていました。とくに兵士の戦闘力を低下させるさまざまな問題、すなわち、赤痢・インフルエンザ・マラリアといった感染症、戦傷、淋病などの性病、不眠症や極寒における体温低下のような身体的不調などに対する医学的対策が重要な研究課題になりました。そして、それらの研究の中で、説明や承諾を欠いた人体実験がたくさん行われたのです。
 赤痢に対するワクチンの研究では、動物実験を経た後、孤児院の孤児たちや施設に入っている知的障害児たちが実験台になりました。1943年3月に行われた実験では、シンシナティ小児病院の二人の医師によって、オハイオ兵士水夫孤児院 Ohio Soldiers and Sailors Orphanage の13歳から17歳までの少年少女のうち、10人の少年たちに赤痢菌一千万個が静脈注射され、たちまち激しい高熱・頭痛や腰痛・下痢などを引き起こし、症状は約二日間続きました。他の10人の少年たちには同じ菌の皮下注射が、また少女たちにはワクチン試薬の皮下注射が試され、同様にそれぞれ激しい吐き気、腹痛、頭痛、下痢を引き起こしました。被験者となった少年少女たちには免疫ができたようでしたが、注射が引き起こした症状があまりにも激しかったので、ワクチン開発は失敗に終わりました。また、イリノイ州ディクソンの施設とニュージャージー州立コロニーでは、知的障害児を被験者にした実験が行われています。さらに、サルファ剤(スルフォンアミド)で赤痢の治療を試みる実験が、説明なく承諾も得ないまま、公共病院の入院患者238名に行われました。投与しなかった場合より死亡率は低かったものの、1歳8か月の幼児を含む6人が、スルフォンアミドの副作用による腎障害で亡くなり、赤痢の有効な治療薬開発には結びつきませんでした。
 マラリアの治療薬開発実験は、精神病院の入院患者や刑務所の囚人を使って行われました。日本兵よりも恐れられたというマラリアに対する治療薬は、特効薬キニーネの供給が日本によって止められていたこともあって、緊急の課題となっていました。抗マラリア作用が発見されたペンタキンの副作用の少ない用量を決めるためには人体実験が必要でしたが、赤痢と違ってマラリアの場合、米国内には患者がほとんどいません。そこでシカゴ大学のA. アルヴィング博士は、イリノイ州のマンテノ州立病院に入院している精神障害者や知的障害者を輸血によってマラリアに感染させ、治療する実験を行いました。またアルヴィング博士は、刑務所病院の囚人たちを蚊に刺させてマラリアに感染させ、同様の実験を行っています。そこでは一人の囚人が高熱による心臓発作により亡くなっています。どちらの実験も被験者の有効な同意を得ていたのかきわめて疑わしいものでしたが、マスメディアは研究の成果をたたえ、被験者は説明を受けた上で米国の勝利のために身を献げたのだと賞賛しました。
 インフルエンザに対するワクチン開発研究では、まずペンシルバニア大学医学部のW. ヘンリ Henle 博士が、知的障害児施設と青年矯正院の入所者たち数百人を被験者にして行いました。被験者たちは開発中のワクチンを注射したグループと注射しないグループに分けられ、3か月ないし6か月後、それぞれに4分間、飛行機用酸素マスクからウィルスを吸わせられました。ワクチンの効果は確かめられましたが、インフルエンザを発病した被験者は高熱と痛みに苦しんだほか、副作用のため注射箇所に膿瘍ができて手術しなければならない人もいました。また、のちにポリオワクチンを開発することになるJ. ソーク博士も、ミシガン州立イプシランティ病院などの入院患者約8千人を用いて、ヘンリと同様のインフルエンザワクチンの実験を行っています。これらの実験が成功をおさめた後、陸軍はさらに訓練中の学生兵士を被験者にして、実験群と対照群がそれぞれ6千人あまりにも及ぶ規模の実験を行い、ワクチンを実用化したのでした。
 ナチス・ドイツで行われたのと同じ目的をもつ海水飲用実験や、高温や低温の身体的影響を調べる実験は、信仰上の理由により徴兵を拒否した良心的兵役拒否者を被験者として行われています。それらの実験は軍事目的をもっていましたが、人を殺すためではなく救うために必要だという説得がなされ、自発的な参加者を募っています。ちなみに、ニュルンベルク裁判に検察側顧問として米国医師会から派遣されたアンドリュー・アイヴィーは、第二次大戦の初期に米海軍医学研究所で海水飲用実験と超高度実験に携わっていました。アイヴィーが指名された理由の一つは、ナチスが行ったのと同一目的の実験をしていたことにあるといわれます(ACHRE, Final Report, p.132)。
 淋病の治療実験は連邦の刑務所に入っている囚人を用いて行われました。というのは、囚人の場合は異性との接触を管理することができ、連邦の刑務所なら州法に抵触する恐れもないからです。ロチェスター大学医学部のC. カーペンター博士は経口摂取による予防薬や局所的な予防法を開発するために、被験者を (1) スルフォンアミド化合物を経口摂取したのち淋病にさらさせる群、(2) 淋病にさらさせてから性器周辺に処置をする群、(3) 感染させられるが何の治療もしない群、の三つに分けた実験を提案しました。しかし世論の非難を恐れたCMRは、実験にあたって、被験者に対する説明と、被験者の書面による同意を求め、被験者からの被害申し立てがあっても責任を回避できるようにし、説明文書のサンプルも用意しました。実験はインディアナ州にあるテレ・ハウテ刑務所で開始されましたが、感染させる方法が不確実なものだったため、やがて中止されました。そのうちにペニシリンによる治療の有効性が明らかになったので、カーペンターの実験を行う必要はなくなりました。
 このように、世論が問題にしそうな、健康な人を用いた実験に関しては、慎重な手続きが採られています。これに対し、施設に入所している知的障害者や病院の入院患者などを用いた場合、CMRや研究者たちは、被験者に説明をせずその同意を得なくても世論による非難は受けまいと踏んでいたようです。というのも、徴兵された兵士たちが前線で命を賭して戦っているのだから、徴兵を免れて人の世話を受けている障害者や患者は、兵士のための研究に身を献げるのは当然であるし、判断能力があったなら自分から進んで被験者に応募したはずだ、という雰囲気が世間にあったからです。つまり、被験者にするのは彼らの権利を侵害しているのではなく、むしろ国の勝利に貢献するという本人の意志を代行しているのだ、というわけなのです。

3. 第二次大戦後1950年代にかけての米国における人体実験の実施基準と実際

【Advisory Committee on Human Radiation Experiments, Final Report, U.S. Government Printing Office, 1995, Part I, Chap. 1-2, pp.83-170を主に参照。引用後の数字は同書の頁を示す】

 米国の医学は、第二次世界大戦中に国家によって整えられた研究体制を基盤にして、戦後に大きく拡張発展しました。新卒の医師たちにとっては、技術的研鑽を積むことより、研究を行って学術的業績を上げることのほうが、出世への早道になるようになります。しかし、彼らが在学中に受けたのは依然として、患者本人に代わって医師が患者の最善の利益を判断すべきであるというパターナリスティックな医師教育でした。その結果、健康な人を被験者とする場合はまだしも、患者を被験者にする場合は、インフォームド・コンセントを得る手続きを省略する通常の治療の慣習に無自覚に従いがちでした。
 ところで、放射線被曝実験には、大きく分けて三つの系統の米連邦機関が関係していました。その第一の系統は、原爆を開発したマンハッタン計画と、それを戦後に継承した原子力委員会 Atomic Energy Commission(AEC)です。マンハッタン計画は1942年に開始され、核兵器開発は1947年に原子力委員会に引き継がれています。1977年に発足した米エネルギー省 Department of Energy(DOE)は、原子力委員会の後身をさらに引き継いだものです。このように、第一の系統は核兵器・原子力開発機関の系統といえます。これに対し第二の系統は、国防省関係の諸機関、すなわち、軍・安全保障関係機関の系統です。そして第三の系統は、米厚生省 Department of Health, Education, and Welfare(DHEW)関係の諸機関、具体的には国立保健研究所 National Institutes of Health(NIH)や退役軍人局 Veterans Administration(VA)です。NIHは戦後にCMRの役割を継承して米国の医学研究の総元締となり、また退役軍人局は放射性同位元素の投与を行う大規模な医学研究を進めていました。このように第三の系統は医学研究関係の系統といえます。
 そこで以下ではまず、この三つの系統のそれぞれに即して、第二次大戦後1950年代にかけての人体実験の実施基準をまとめます。次いで、国際的指針としてのニュルンベルク・コードは米国内ではどのように受け取られたのかについて考察します。

(1) 原子力委員会
 上述のように、放射性同位元素を患者に投与する実験は、原子力委員会が発足する以前から、マンハッタン計画の一環として、全米の研究機関で行われていました。1947年1月1日に発足した原子力委員会は、それらの実験を自らの委託研究へと移行させる際に、一定の規則を定める必要性について「暫定医学諮問委員会 Interim Medical Advisory Committee」を組織して議論しました。顧問弁護士たちは被験者自身の書面による承諾を得るよう提案しましたが、暫定委員会委員長スタッフォード・ウォレンらの意見を入れて、最終的には「治療に先立ち、各々の患者は、説明を理解できる状態にあり、治療の本質と副作用について明確に説明され、当該治療を受けることに同意を表明した、ということを公の記録によって証明できる」「[この公的記録とは]少なくとも2人の医師が、患者の理解状況と、説明の内容と、治療を進んで受け入れたこと、書面で証明する」(87) といった条件を含む報告になりました。こうした条件は、原子力委員会の初代事務局長 General Manager キャロル・ウィルソンが1947年4月にウォレンに送った書簡で、原子力委員会の規則とすることが宣言されました。ウィルソンはまた「(臨床検査[人体実験のこと]を含む)措置を行ってよいのは、治療的効果があると見込める場合に限る」(88) と規定しています。
 同じ1947年秋、テネシー州オークリッジの原子力委員会オークリッジ研究所は、人体実験の規則に関してウィルソンに助言を求めました。原子力委員会の「生物学および医学諮問委員会 Advisory Committee for Biology and Medicine(ACBM)」(上述の暫定医学諮問委員会と、医学審査委員会 Medical Board of Review [MBR] を引き継いだ組織)はこの問題を、プルトニウム注射実験の公表条件をどう定めるかという問題に引きつけて議論し、報告書の未刊草稿の中では「(a) 患者の状態を改善するという理に適った希望があり、しかも (b) 患者が自ら、完全な、情報を与えられた上での同意 complete and informed consent を書面で与えていて、(c) 責任をもつ最近親者が同様の、完全な、情報を与えられた上での同意を書面で与えている場合で、しかもこの同意は治療の最中いつでも撤回できる」(90) という条件をすべて満たしていなければ、放射性物質の投与を行うべきでない、としました。この文言はウィルソンの1947年11月の書簡に引用されています(ちなみに、これは「informed consent」という言葉が最初に公文書で用いられた例と考えられますが、その具体的な意味内容は明らかではありません)。
 しかしながら、ウィルソンの1947年の二つの書簡に述べられた規則はほとんど実効性をもたなかったようです。もっとも、ウィルソン書簡は内部的にはそれなりに知られていた形跡もあります。たとえば1951年、原子力委員会の生物学医学部門 Division of Biology and Medicine (DBM) の局長は、人体実験の指針について調べた原子力委員会ロスアラモス研究所の情報将校の問い合わせに対し、ウィルソンの最初の書簡を指針として紹介しています。しかし、外部の研究者の問い合わせに対して、ウィルソンの指針が引き合いに出されることはほとんどありませんでした。
 1947年以降、原子力委員会が作った放射性同位元素を、委員会外部の機関で実験に用いるために配布することは広く行われており、同位元素配布委員会 Committee on Isotope Distribution の対人応用小委員会 Subcommittee on Human Applications のような審査機関も置かれていました。この小委員会は1948年3月に、人体実験を行う際には被験者に説明し同意を得ることなどを定めた文書を作成し、翌年、放射性同位元素の分配を受ける研究者全員に配布しました。この文書はウィルソンの書簡とは異なり非治療的実験を許容していますが、規則として実際に遵守されたかどうかは不明です。
 もっとも、原子力委員会の各機関の中には、委員会中央の文書とは独立に、日常的に情報開示と同意が行われていたところもあったようです。たとえば、1950年に開設された研究病院であるオークリッジ核研究所 Oak Ridge Institute for Nuclear Studies (ORINS) では、実験的措置が行われることなどを入院患者に書面で説明していました。しかし、1956年にDBMは、ロスアラモス研究所からの問い合わせに対し、被験者は完全に情報を与えられた志願者でなければならないと答えていますが、これは健康な志願者に限定した話らしく、ウィルソン書簡への言及もなされていません。時を同じくしてオークリッジの同位元素部門 Isotope Division も、健康な被験者に関する「勧告と必要条件」をガイドブックにして配布しましたが、被験者の同意は強調されていません。
 全般的にみて原子力委員会関係では、1940年代から1950年代にかけての時期には、ORINSを除き、被験者から同意を得るというキャロル・ウィルソン書簡の条件が、拘束力のある方針にはなっていませんでした。また、安全性と危険性には注意が払われたものの、被験者の選択における公平性は考慮されていませんでした。

(2) 国防省
 米軍においては19世紀から、兵士の感染症を予防ないし治療するための研究が進められており、そのための人体実験も行われていました。よく知られているのは、黄熱病が蚊によって媒介されることを確かめたウォルター・リードらによる研究(1899)で、そこでは研究者自らがまず被験者となりました。しかしながらリードらは、研究班員のうち2人が犠牲になった後、兵士やスペイン人労働者から被験者を募ることに変えました。その際に実験内容の説明と同意が行われ、これが米軍の伝統を形づくったようです(もっとも、リードらの説明は一方的で、100ドル[発病したらさらに100ドル]の謝礼も支払われていました)。また、1925年の陸軍の感染症研究に関する規制では「実験的」研究には「志願者 volunteer」を用いるよう定めています。海軍では1932年、潜水実験を許可するにあたり「情報を与えられた志願者 informed volunteer」を用いるという条件をつけていますし、1943年には、兵士を実験に用いる場合は海軍長官の許可を得るよう求めています。
 前節で述べたように、第二次世界大戦中は、大統領直属の医学研究委員会(CMR)が人体実験を統轄していました。CMRが淋病実験をめぐり、志願者に危険性について説明し署名を得て、実験による被害の法的責任を回避するよう声明を出したのは1942年ですが、その裏で知的障害者や孤児や入院患者を被験者とし、説明せず同意も得ない実験を後援していたのは先述したとおりです。また、海軍は囚人や良心的兵役拒否者を被験者とするとき同意文書を取っていましたが、その書式では「同意 consent」という言葉でなく「放棄 waiver」や「棄権 release」という言葉が使われ、被験者保護よりも研究者の責任免除に力点が置かれています。実際、ワシントンDCの海軍研究所で行われたマスタード・ガス実験は、被験者に適切な情報を与えずに誘導や強制が行われていました。
 戦後の1949年から1950年にかけては、原子力エンジンを搭載した飛行機の開発にあたって、乗務員に対する被曝の影響を人体実験で調べるかどうかが、原子力委員会と国防省の専門家の間で議論されました。結局、囚人など健康な被験者を用いた実験は行われませんでしたが、同様の研究は癌の放射線治療を受けた患者で行われました。
 一方、肝炎、デング熱などの感染症に関する人体実験は、陸軍疫学委員会 Army Epidemiological Board (AEB) や1949年にそれを引き継いだ米軍疫学委員会 Armed Forces Epidemiological Board (AFEB) が統轄して、囚人など健康な被験者を用いて戦後にも行われていました。ところが1940年代末に、軍の委託を受けていた大学の研究者から、被験者に傷害が生じた場合に本当に責任が免除されるのか疑問が提起されました。AEBは議会に立法措置を求め、1952年に、国防省の研究開発全体に関して賠償を可能にする法律が成立しました。しかしこの賠償は第一に研究者に対する政府の責任を明示したもので、被験者に対する政府や研究者の責務を明らかにしたものではありませんでした。
 冷戦の緊張が高まった1950年代には、核兵器だけでなく、化学兵器や生物兵器に関係する人体実験の必要性も強調されるようになりました。朝鮮戦争のさなかの1950年から1953年にかけて国防省では、原子力委員会、中央情報局 (CIA)、国立保健研究所 (NIH)、退役軍人局 (VA)、公衆衛生局 (PHS) などの代表からなる高官会議において、人体実験とその政策について議論されました。そこではニュルンベルク・コードを丸ごと取り入れた指針が提案され、1953年2月に国防省長官のチャールズ・ウィルソンの覚書として、陸・海・空軍の各長官宛に出されています。この覚書はニュルンベルク・コードの全文言をそのまま取り入れたほか、被験者の同意を証人の署名と共に文書に残すこと、可能な限り最少の被験者にすること、捕虜を被験者にすることの禁止、などを追加し、しかもこれらの条件は核兵器・生物兵器・化学兵器に対する防御の研究開発実験に適用されること、実験に当たっては国防省長官の許可を得ること、などを明記しています。
 しかし、この覚書は最高機密 TOP SECRET とされ、機密扱いは陸軍とCIAによる諜報秘密研究(後述)の調査の際に公になる1975年まで続きました。その理由は、国防省が生物兵器と化学兵器の研究開発を公にしたくなかったからだといわれています。
 また、研究者たちにも、この覚書の規定はなかなか伝わらなかったようです。そこで陸軍はまず、1953年6月に参謀長の覚書を出して周知を図ります。また1954年3月には、陸軍軍医将官局 Army Office of the Surgeon General (OSG) が『医学研究に人間の志願者を用いること:原理、方針、規則』を公布します。この軍医将官局の文書は、核兵器・生物兵器・化学兵器の研究開発のみならず、志願者を用いた医学研究一般を扱っているほか、軍の委託を受けた研究も適用範囲に含めています。しかし、これらの努力にも関わらず、ウィルソン覚書の規定は、大学など軍外部の委託研究者には依然としてあまり顧みられなかったようです。その理由は第一に、ウィルソン覚書は健康な被験者に関して規定したものであり、患者の被験者については言及されなかったこと、第二に政府の方針が医師・患者間の個人的な関係までは浸透しにくいこと、第三に軍医将官局の後援を得ずに行われる研究もあること、などが考えられます。
 そのほか、海軍は『医学部門の手引』を1951年に出し、実験には志願者を用いること、海軍長官の許可を得ること、患者を被験者に用いる場合は事前に審査を受けること、などを定めています。空軍も1952年に臨床研究の規制を定めましたが、同意や志願者を用いることについては言及していません。
 以上をまとめると、1940年代から1950年代にかけては、核兵器・生物兵器・化学兵器の研究と、陸軍では「志願者」を用いるすべての研究について、ニュルンベルク・コードおよび1953年のチャールズ・ウィルソン覚書で追加された条件が正式の規則でしたが、それは必ずしも研究者たちに知られず遵守もされなかった、といえます。また、そもそもこれらの規則は、健康な志願者でなく患者の被験者にも適用されたかどうか明らかではありません。

(3) 国立保健研究所と退役軍人局
 もともと政府の一小機関にすぎなかった国立保健研究所 (NIH) は、1948年以降、国立医学研究機関の一大複合体へと成長し、CMRに代わって医学研究の国家的総元締の役割を果たすようになっていきます。上述した1950年代初めの国防省の高官会議において、NIHは「人間を用いた研究の倫理的原理」の草案を含む書簡を提出しました。1952年4月の草案では、同意能力のある人は欺かれずに自由にそれを行使できなくてはならないことなどが明記されています。そして1953年に開設されたNIHの実験病院である臨床センター Clinical Center では、すべての被験者から「情報を与えられ理解した上での自発的合意を得ること」、とくに危険性の高い研究においては被験者である患者から書面による同意を得ることを、研究者に要求する方針を採りました。すべての健康な被験者から書面による同意を得ることは翌1954年から行われています。また、今日の施設内審査委員会(IRB、日本の「倫理委員会」に相当)のモデルとなった研究計画審査も始められました。
 こうしてNIHは、健康人であろうと患者であろうとすべての被験者から同意を得なければならないと明言した最初の機関になりましたが、この条件が適用されるのは臨床センターにおける研究に限られ、NIHが資金を提供する外部への委託研究には及びませんでした。また、臨床センターの医学諮問委員会 Medical Advisory Board は書面による同意という要件には賛成しなかったと伝えられています。
 一方、退役軍人局(VA)の病院のうち、大学の医学部と提携関係にある施設では、1948年から放射性同位元素の投与実験が行われていました。こうした研究は、提携医学部の教員でVA病院に関与していない者からなる委員会によって審査されていたほか、原子力委員会関係者の助言も受けていました。しかしながら、1958年に至るまで、被験者の同意を得ることが条件とされた形跡はありません。

 以上のように、1940年代から1950年代にかけて、米国の連邦機関には、人体実験において被験者の自発的同意を得ることと危険性を最小限に抑えることに関する大まかな理念はあり、さまざまな指針も出されていました。しかし、それらは個々バラバラで、統一された包括的規制にはならず、実効性も乏しいものでした。
 また、健康な志願者を被験者にする非治療的実験については同意が強調されても、患者を被験者にする実験については同意は強調されませんでした。顧問弁護士が書面による同意を得ることを主張しても、医師たちは患者との信頼関係を強調して反対しました。治療的実験のみならず非治療的実験の場合も、被験者となった患者には説明することも書面による同意を求めることもなく、治療行為の一環として実験が行われることが多かったのです。

 一方、米国が宣言した人体実験の最初の国際的指針であるニュルンベルク・コードは、米国内では医学研究者の関心をそれほど呼びませんでした。1946年12月に米国医師会は、ニュルンベルク・コードの起草に大きな影響を及ぼしたアイヴィーの報告に基づき、被験者の自発的同意、動物実験を予め行うこと、適切な医学的管理を行うこと、という三条件を「医療倫理の原理」の中に取り入れています。しかし、その知らせは目立った形では伝えられなかったため、米国の医師 physician の約7割を占めていた会員の大部分は気がつきませんでした。ニュルンベルク医師裁判の報道もめったにトップ記事にはならず、ナチスから逃れた亡命医師が多かったユダヤ系の病院などを除いて、一般にはほとんど知られませんでした。そのため、ナチスの弁護人が米国内で行われたナチスと同種の実験として引き合いに出した、刑務所の囚人を用いたマラリア実験の研究者でさえ、そのことをまったく知らなかったほどでした。それは、ドイツの医師たちによる非人道的な人体実験は野蛮なナチスが行ったことであって、常識ある米国の医師たちには関係ない、という見方が一般的だったからでもあります。もちろん人体実験の倫理的問題について深い関心をもち、真剣に考えている研究者もいたのですが、彼らは少数派にすぎませんでした。マスコミが米国内における人体実験について報道しても、二・三の例外を除き、被験者は自発的に実験に参加したと頭から信じて、実験の成果と被験者の勇気を称賛するものばかりでした。
 また、ニュルンベルク・コードを知る研究者の間にも、コードに対する不満は少なくありませんでした。たとえば、アイヴィーらの努力によって1946年に設立された全米医学研究学会 National Society for Medical Research (NSMR) は、1959年にシカゴ大学で「医学の法的環境に関する全米会議 National Conference on the Legal Environment of Medicine」を行い、人体実験も主たる議題の一つになりましたが、そこでは、ニュルンベルク・コードの条文の一部に違和感を表明したり、コードは理想的すぎて患者を被験者とする研究の現実からかけ離れていると指摘したり、複雑な人体実験の問題に単一の具体的基準を適用することに反対したりする意見が出されています。また、のちに医学界内部から人体実験の実態を告発し大きな影響を与えたH. ビーチャーですら、1959年に米医師会雑誌に掲載された論文「人を用いた実験 Experimentation in Man」に、実際には説明できない場合もあるからニュルンベルク・コード第1条のインフォームド・コンセント要件は厳しすぎる、麻酔やX線やラジウムやペニシリンのように試行錯誤による医学的成果もあるから第2条にいう「本質的に不必要」ということは事前に判断できない、そもそも倫理綱領は研究者の効果的な道徳指針にはなりえない、などと書いています。ビーチャーは、研究者の道徳性を高めることこそ重要であり、規則を厳格に適用することは事態をむしろ悪化させると考えていました。

このように、ニュルンベルク・コードも、米国の医学者たちに対してあまり実効性を持ちませんでした。それは医学界に広く知られることはなく、同コードを知る一部の研究者も、患者を被験者とする場合まで含む人体実験一般の指針としては、不満を抱いていることが少なくありませんでした。これに対し、治療的実験と非治療的実験を区別し、治療的実験の場合にはインフォームド・コンセント要件を緩めた1964年のヘルシンキ宣言は、米国の研究者たちに歓迎されました。このことは、1960年代初めまでの米国の人体実験の実態を物語っているといえます。

4. 1960年代の事件と米国の政策

【"Government Standards for Human Experimentation: The 1960s and 1970s," in Advisory Committee on Human Radiation Experiments, Final Report, U.S. Government Printing Office, 1995, Part I, Chap. 3, pp.171-195 および Faden & Beauchamp, A History and Theory of Informed Consent, Chapters 5-6, pp.151-232(『インフォームド・コンセント』pp.120-179)を主に参照】

 1950年代までは実効性をもたなかった人体実験に対する米連邦政府の政策は、1960年代から1970年代にかけて、薬害や倫理的に問題のある人体実験が次々と公表されたのに対応して、次第に強化されていきます。そして1970年代半ばには、政府による人体実験の包括的な規制の枠組が確立しました。以下では、その道程をたどってみます。

(1) サリドマイド薬害とキーフォーヴァー・ハリス修正法
 E. キーフォーヴァー上院議員を委員長とする米国連邦議会上院小委員会は1959年、製薬企業の活動に関する公聴会を行い、そこで製薬企業が、まだ安全性も効果も確認されていない試験薬を医師に渡して患者に処方してもらい、データを集めることが広く行われていることが明らかになりました。その際、それが試験薬であることや実験の一環であることは患者に説明されず、同意も得ていませんでした。ちょうど時期を同じくして、睡眠薬およびつわり止めとして広く用いられていた鎮静薬サリドマイドを服用した妊婦から、四肢(ないしその一部)の欠けた赤ちゃんが数千人も産まれていることが明らかになり、世界各国でパニックを引き起こしました。米国ではサリドマイドは販売の認可が下りていませんでしたが、試験薬として2万人弱にものぼる患者に処方され、出産可能年齢にあった女性も3760人含まれていたことがわかりました。当時の食品医薬品化粧品法(1938年制定)では、試験薬のこうした配布は禁止されておらず、またインフォームド・コンセントを得ることも条件づけられていませんでした。
 そこで連邦議会は1962年、食品医薬品化粧品法を改正する法案(キーフォーヴァー・ハリス修正法)を成立させ、試験薬のテストにあたっては被験者のインフォームド・コンセントを得なければならないと定めました。医薬品の監督を行う食品医薬品局 Food and Drug Administration (FDA) もこの法改正に伴い規則を改訂します。しかしこの条件は、医師が実行できないと考えたり、被験者(患者)の最善の利益に反すると判断する場合には適用を免除されたので、実際には骨抜きにされてしまいました。のちにFDAは、後に述べるPHS長官の政策声明が出された1966年には、ニュルンベルク・コードとヘルシンキ宣言を参考にした「研究用新薬を人間に用いるための同意:政策声明」を出し、臨床試験において被験者から得なければならないインフォームド・コンセントの具体的要件を示しています。
 ちなみにキーフォーヴァー・ハリス修正法は、新薬を認可するためには、その有効性と安全性を「実質的証拠」によって示さなければならないとしたため、薬の無作為化臨床試験を普及させる成果をもたらしました。これにより、それまでに認可され用いられていた薬の治療効果を調べたところ、有効性の実質的証拠が示せる使われ方がされているのは40%にすぎなかったといいます【砂原茂一『臨床医学研究序説』医学書院、1988年、pp.87-88 による】。

(2) 1963年の人体実験事件と国立保健研究所・公衆衛生局の政策
【ユダヤ人慢性疾患病院事件については "The Jewish Chronic Disease Hospital Case," in Katz, Experimentation with Human Beings, Chap.1 を参照。引用後の数字は同書の頁を示す】
 一方、医学研究の総元締である国立保健研究所(NIH)は、1955年から1968年まで総長の座にあったJ. シャノンの指揮により、公衆衛生局(PHS、NIHの上部機関)とともにインフォームド・コンセントを規則化していきます。そのきっかけになったのが1963年に報じられた二つの人体実験事件でした。その一つは、トゥレイン大学で行われた、チンパンジーの腎臓を人に移植した手術です。この手術は失敗に終わった上に、治療的利益も科学的成果も見込めたものではなく、被験者の同意は得ていたと言い立てられたものの、同僚には一切相談せず助言も受けていなかったことがわかりました。そして、もう一つの事件が、ニューヨーク・ブルックリン地区の「ユダヤ人慢性疾患病院」で起こった、末期患者に対する癌細胞注射実験です。

 癌細胞注射実験を行ったのは、有名な癌研究機関であるスローン・ケタリング研究所のC. サザム医師でした。サザムは免疫反応の研究者で、オハイオ州立刑務所の囚人と、スローン・ケタリング記念病院などの癌の末期患者それぞれ300人以上を被験者として、生きた癌細胞を腕と前腿部に皮下注射して塊を作らせ、いずれの場合も癌細胞はやがて拒絶され塊は消えるものの、癌患者の場合は拒絶反応が弱く消失するのが遅れることを発見していました(ちなみにサザムは、囚人からは「医学的理由のためでなく、彼らの法的志向のために」(11) 書面による許可を得たが、癌の入院患者からは「日常的な研究」(ibid.) なので許可は得なかったと述べています)。しかし癌患者の拒絶反応が弱いのは、はたして癌のためなのか、それとも単に身体が弱っているためなのかはわかりませんでした。サザムは癌以外の病気の末期患者に同様の実験を行うことを計画しましたが、スローン・ケタリング研究所関係の病院にはそのような患者はいません。そこで目をつけたのがブルックリンのユダヤ人慢性疾患病院でした。サザムは1963年7月に同病院の医療部長のE. マンデルに手紙を書き、実験の趣旨を説明して協力を求めました。マンデルは承知し、病棟の担当医に実験を行わせようとしましたが、担当医が反対したため、レジデント(研修医)にさせることにしました。サザムは同僚の医師と共にユダヤ人慢性疾患病院を訪れ、マンデルとレジデントの前で3人の癌患者に注射をやって見せた後、レジデントに19人の非癌患者への注射を行わせました。その際、サザムが2人の患者から、またレジデントが残る20人から、それぞれ口頭の同意を得たとされていますが、後に患者のカルテを調べた医師は、カルテには同意についての記録はなく、また多発性硬化症やパーキンソン病の患者は説明を理解したり同意を与えたりできる状態にはなかったはずだと証言しています。また、被験者にされた患者の一人は、食欲減退を改善する試験薬を渡すからといわれて書類に署名し、注射の際には皮膚検査だといわれて同意は求められなかった、と証言しています。これに対してサザムは、説明し同意を得るのはサザムら外部の研究者の職務ではないし、そもそもこの実験は必ず癌細胞は拒絶されるのできわめて安全であり、癌細胞を使ったのも免疫反応が外部から容易に観察できるからで、注射の中身が癌細胞であると説明しなかったのは「癌」という言葉で患者の無用な不安を引き起こすことを避けたためだ、と反論しました。しかしこれに対しては、実験を始める前は癌が必ず拒絶されるとはわからなかったはずだから絶対安全とは言い切るのはおかしい、という証言もあります(癌患者を用いた実験に関する論文ではサザム自身、14人の被験者のうち4人の患者は注射した部位に癌が再発し何度も切除を繰り返さなければならなかったことや、2人の患者ではそれぞれ注射42日後と57日後に亡くなるまで癌細胞の塊は成長し続けたことを報告しています)。
 実験に反対した担当医は2人の同僚と共に辞職し、ユダヤ人病院の勤務医苦情処理委員会 Grievance Committee of the Medical Staff にマンデルを告発しましたが、委員会はこの訴えを、彼らの辞職は無責任で告発も私怨に基づくものとみなし却下しました。病院の理事会もこの問題を不問に付そうとしましたが、こうした病院の姿勢に強く反対する一人の理事が、病院の記録の強制的開示を求める訴えを裁判所に起こし、事件は公になります。一審判決は原告の訴えを認めましたが、二審では逆転判決が下され、最終的には三審で再び原告の訴えが認められて確定しました。また、サザムとマンデルは州の医療苦情処理委員会 Medical Grievance Committee にかけられ、全員一致で有罪とされました。医師免許を管轄するニューヨーク州立大学評議員会は、医療苦情処理委員会の決定を受けて、サザムとマンデルを1年間の執行猶予付きで1年間の免許停止処分にしました。ニューヨーク州の検事総長は、サザムとマンデルの最大の罪は、注射されるのが生きた癌細胞だということを被験者に故意に知らせなかったことにあると書いています。にもかかわらずサザムは、1967年から68年にかけて米癌研究学会の副会長を務め、翌年には会長に推薦されています。このことは、当時の米国の癌研究者たちがサザムの人体実験にとくに問題を感じていなかったことを示しています。

 チンパンジー腎の人への移植を行った医師と、ユダヤ人慢性疾患病院事件のサザム医師のどちらも、国立保健研究所(NIH)と公衆衛生局(PHS)から研究資金を得ていたことが問題にされました。また、1962年にボストン大学の法律・医学研究所が行った調査は、臨床研究に関する手続きを定めたガイドラインをもつ研究機関はほとんどないことを明らかにしていました。さらに1964年には世界医師会がヘルシンキ宣言を出しました。このような情勢の中で、1963年にNIH総長のシャノンはPHS長官(Surgeon General)と協議し、NIHの研究資金部門に、同意手続きや研究審査のための基準に関する調査研究と、被験者を保護する適切な規制方法の勧告を求めます。こうして組織された、R. リヴィングストン博士を座長とする研究班は、翌1964年11月に報告書を提出し、NIHが法的な責任を問われかねない立場に置かれていることについて警告を発し、被験者に対する危険性を減少させるよう求めましたが、その一方でNIHが医療倫理教育を主導する立場にはないとし、政策の変革はまったく提案しませんでした。シャノンはこの報告書に満足せず、1965年9月、PHS長官G. テリーと共に、全米保健諮問協議会 National Advisory Health Council (NAHC) に、NIHが個々の人体実験を正式に管理するようにすべきだと提案します。具体的には、被験者がどのくらいの危険にさらされ、被験者の権利保護が適切かどうかを、同僚の研究者が公平な立場から事前に審査することをシャノンは提唱しました。これを受けてNAHCは3か月後、(1) 被験者の権利と福祉 welfare の保護、(2) インフォームド・コンセントを得る手続きの適切性、(3) 実験による危険性と医学的利益、の3点に関して、施設内の同僚の研究者による独自の審査を行い、これに合格した研究のみにPHSは資金援助を行うべきだとする勧告を行いました。PHS新長官W. スチュアートはこの勧告に従って1966年2月に同内容の政策声明 policy statement を出しました。医学研究に対する米国連邦政府の資金援助はPHSおよびNIHを通して行われますので、この政策声明により、米連邦政府の資金援助を受けるための遵守条件が定められたことになります。7月には、声明の要件を遵守する旨確約する書面の提出を、資金援助を受ける施設に義務づけるようにしました。こうした政策により、研究者による相互審査は米国連邦政策の基本的方針として採用され、そのために審査委員会が全米各地の研究機関に広く設置されるようになります(これは後の「施設内審査委員会 Institutional Review Board (IRB)」[日本の「倫理委員会」に相当]の原型になりました)。こうした相互審査体制は、米連邦政府による規制と、施設および研究者による自主管理とを、うまく妥協させたものでした。また、1966年のPHSの政策は、連邦資金による人体実験において、健康な人を被験者とする場合のみならず患者を被験者とする際にもインフォームド・コンセントが必要であることを明確にした点でも重要です。
 しかし、NAHCの勧告およびスチュアート長官の政策声明は、インフォームド・コンセントの手続き面について定めただけで、その意味や基準について具体的には規定していませんでした。これは同1966年7月に改訂されたNIH臨床センターの人体実験実施指針「臨床研究の集団審査とインフォームド・コンセント」によって定められました。そこには、被験者にわかりやすい口頭の説明、実験内容と危険性の詳細な開示、開示すべき手順の一覧などが含まれています。このNIH臨床センターの指針は、医学研究におけるインフォームド・コンセントに関して米国連邦政府が具体的に規定した初めての文書になりました。しかしながら、それが適用されるのは相変わらずNIH臨床センターで行われる研究に対してだけで、PHSおよびNIHの資金援助を受けて外部の施設で行われる研究に対しては適用されませんでした。
 PHSは、無作為に選んだ施設へ職員が訪問し、政策声明を各施設が遵守しているかどうか調査を行いました。その結果、遵守の程度は各施設によってまちまちであり、危険性と利益の評価に関する混乱、一部の研究者の遵守拒否、地方の機関の責任者の無関心などが明らかになりました。また、IRBが多くの審査に忙殺されていることに対する不平や、明確な手引の要望などが、全国の施設から寄せられました。そこで米厚生省は1971年に「人間の被験者保護に関する米厚生省政策についての各施設への手引」(通称「イエローブック」)を公表しています。この中でインフォームド・コンセントを得る際の説明事項として、(1) 処置についての公正な説明、(2) 危険性と不快さの説明、(3) 利益の説明、(4) 代替的方法の説明、(5) 処置に関する質問に答える旨の申し出、(6) いつでも同意を撤回し実験から降りてよいことの説明、の6項目が規定されました。

(3) ビーチャーとパップワースの告発
【Beecher, "Ethics and Clinical Research"、および Rothman, Strangers at the Bedside, Chap.4(『医療倫理の夜明け』第4章)も参照。引用後の数字はビーチャーの原著論文の頁付けを示す】
 さらに、1966年から1967年にかけては、米国の社会に大きな反響を与えた著作が相次いで公刊されました。その一つはハーバード大学の麻酔科医H. ビーチャーが『ニューイングランド医学雑誌』に投稿した論文「倫理と臨床研究 Ethics and Clinical Research」であり、もう一つは英国のM. H. パップワースによる『人間モルモット Human Guinea Pigs』という本です。とりわけビーチャーの論文は医学界内部から反倫理的な人体実験の実態を告発した形になり、マスメディアにも大きく取り上げられたため、米国連邦政府の政策にも大きな影響を与えました。
 1965年に製薬会社アップジョンが後援した新薬研究に関する科学ジャーナリストの会議で、ビーチャーは人体実験の問題を取り上げました。その報告は、この種の問題は医学界内部のみで論じるべきものだという研究者たちの不文律を打ち破ってマスメディアへ問題提起したばかりでなく、医学界と医学雑誌を総括的に批判する内容を含んでいました。報告論文をビーチャーはまず『米医師会雑誌』に投稿しましたが掲載を断られたため、書き直して『ニューイングランド医学雑誌』へ投稿し、1966年7月に掲載されました。
 ビーチャーはこの論文で、研究者自ら被験者になった実験や、自発的に患者や健康な人が被験者になった実験、および「治療における」(1354) 実験を除いた、「その患者本人のためではなく、少なくとも理論的には、患者一般のために行われた」(Ibid.) 22の実験例について記述しています。この中には、先述したユダヤ人慢性疾患病院での癌細胞注射実験や、後述するウィローブルックでの肝炎感染実験も含まれています。さらに、有効な治療薬があったのにそれを与えずに実験した例や、再生不良性貧血を引き起こすおそれがあるにもかかわらず患者に説明せずに造血細胞に対するクロラムフェニコールの毒性を調べた実験、脳血流の必要最少量を調べるために脳虚血を引き起こした実験、娘の黒色腫 melanoma の治療法研究のためにそれを母親に移植し結局娘も母親も死亡した例、尿管腎逆流が正常な膀胱でも起こるかどうかを調べるために生後48時間以内の26人の健康な新生児に膀胱尿道造影を行って被曝させた例などが挙げられています。
 もっともビーチャーは、インフォームド・コンセントの道徳的・社会的・法的意義は強調するものの、インフォームド・コンセントにあまり依存することは現実的でないとし、「賢明で、情報を得ていて、良心的で、同情的で、責任ある研究者がいることのほうが、ずっと歯止めとして頼りになる」(1360) と述べています。というのは、患者は、何が行われどんな危険があるのかを知らないまま同意している可能性があるからです。患者は医師を信頼して、ただ従っているだけかもしれません。「説明を受けた普通の患者は『科学』のために自分の健康や生命を危険にさらしたりしない。経験ある臨床研究者はみなこのことを知っている。それなのに、かなりの数の患者が危険な実験に加わっているということは、すべての例においてインフォームド・コンセントが得られているわけではないと考えられる」(Ibid.) のです。こうした主張は、先述した1959年の論文「人間を用いた実験」から一貫しています。ビーチャー自身、1952年から1954年にかけて陸軍の委託を受け、健康な被験者を用いて、スパイを自白させるために幻覚剤を利用する可能性を探る秘密の実験を行っており、その際には被験者に何も説明していませんでした(ACHRE, Final Report, pp.138-139 を参照)。インフォームド・コンセント万能主義に対する警戒は、こうした経験に基づいていると推測されます。
 また、ビーチャーは倫理的に問題のある研究の報告論文を出版する編集者の責任にも触れ、不当なやり方で得られたデータはたとえ貴重なものでも公刊されるべきでないと述べています。というのは、公表できる見込みがなければ反倫理的な実験を行う研究者は減るでしょうし、医学にとっては、不当な方法で得られたデータが公表されないことによる科学的不利益よりも、それが公表されてしまうことによる道徳的不利益のほうがはるかに大きいからです。データそのものは貴重だから編集者の厳しいコメント付きで公刊するというのは偽善を免れ難いとビーチャーはいいます。「目的は手段を正当化しない」(1360) のです。

 一方、パップワースの『人間モルモット』は、倫理的に問題のある人体実験を行っている研究論文を500本以上集めています(ビーチャーの論文はパップワースの本が出る前に発表されていますが、ビーチャーはこのことをパップワースから個人的に聞いて、上述の論文に紹介しています)。これらの実験は被験者のためになるものではなく、しかも実験台になったのは新生児・子ども・妊婦・手術を受けた患者・精神障害者・末期患者といった、インフォームド・コンセントが困難であったり不可能な人々でした。もし説明をしたら同意したがらないような非治療的実験なので、研究者は説明を省いてしまう、とパップワースは論じ、患者の権利を研究者に自発的に保護させるシステムは機能しないので、新たな立法が絶対に必要だ、と述べます。彼が提唱したのは、事前に審査し、研究中には強制的に報告させ、どんな些細な害でも生じたらそれを被験者に説明することでした。このようにパップワースはビーチャーよりも倫理的原理や権利を重要視していました。

(4) 国防省関係の政策
 国立保健研究所(NIH)および公衆衛生局(PHS)はいずれも米厚生省関係の機関ですが、国防省すなわち軍関係の政策も、1960年代には少しずつ変化し始めています。
 まず、陸軍では1962年に、先述した1953年のウィルソン覚書を正式の規則として定めます。核兵器・生物兵器・化学兵器の研究開発に適用範囲を限定したウィルソン覚書とは異なり、1962年の陸軍の規則にはこのような限定はついていませんが、しかし陸軍病院の患者を被験者とする臨床研究は除外されていました。翌1963年には陸軍と文民による臨時諮問委員会が、62年の規則は陸軍からの委託研究にも適用されるとしましたが、放射性同位元素の投与実験は危険性が少ないという理由で、再び適用範囲から外されています。ただし同年陸軍は、放射性同位元素が「志願者の」被験者に用いられる場合には、62年の規則を遵守しているかどうか、各施設の審査委員会による審査を受けて陸軍長官の許可を得なければならないとしています。
 一方、海軍では、先述した『医学部門の手引』などにより1951年ころに定められた被験者から口頭の同意を得る条件が、1960年半ばには書面による同意を必要とするようになっていたようです。『医学部門の手引』の1967年版には、書面による同意が明確に条件となっています。67年の段階では、健康な人を被験者にする場合だけでなく患者を被験者にする場合にもこの条件が適用されるのかどうかはあいまいでしたが、1969年には海軍長官が、患者を被験者とする場合も書面によるインフォームド・コンセントを得なければならないということを明らかにしています。
 また、空軍では1965年に『医学教育と医学研究----航空宇宙研究に志願者を用いること』と題する規則を公布し、苦痛や健康被害や障害や死を引き起こす可能性のあるすべての研究および開発に、書面による自発的なインフォームド・コンセントを求めました。これは健康な人ばかりでなく患者を被験者とする場合も含んでいます。研究開発を行う各施設に人体実験を審査する委員会の設置も求めています。
 さらに、1958年に発足した米航空宇宙局(NASA)では、1968年までは放射性同位元素の実験が、エイムズ研究センター Ames Research Center や有人宇宙船センター Manned Spacecraft Center (MSC) などの各施設の自主性にまかされて行われていました。これらの施設は原子力委員会の規則に従って医学実験小委員会 medical use subcommittees を設置しており、エイムズ研究センターでは被験者のインフォームド・コンセントが求められていたようです。1968年にNASAは、医療部門の機能とMSCの医学研究部門の機能を一本化します。というのも、有人宇宙飛行は危険で実験的な要素を多く含んでいるので、臨床医療的措置と医学実験的措置の境界線がきわめてあいまいだからです。その結果、同意を得ることが研究の障碍になったり、テストパイロットや宇宙飛行士が参加する場合などは、必ずしも同意が求められなくなりました。しかしながら、1970年までの間に、エイムズ研究センターでは人体実験審査委員会 Human Research Experiments Review Board が、またMSCでは原子力委員会の規則に従って医学実験委員会 medical use committee が、それぞれ設置されて、危険性と被験者の同意を事前に審査するようになりました。

(5) モンデール上院議員の法案
【Rothman, Strangers at the Bedside, Chap.9(『医療倫理の夜明け』第9章)を参照】
 1967年12月3日、南アフリカ共和国で、外科医C. バーナードにより世界最初の心臓移植が行われました。ミネソタ州選出のW. モンデール上院議員(後にカーター政権の副大統領となり、クリントン政権で日本大使)はこの心臓移植に世論が沸騰している1968年2月に、先端医療の倫理的・法的・社会的・政治的意義を評価し報告する「健康科学と社会に関する委員会 Commission on Health Science and Society」を設立する法案を議会に提出しました。モンデールは心臓移植がまったく新しい問題を提起し、従来の医療倫理では対応できないことを見て取って、医学者だけでなく市民の代表が一緒に医療の問題を議論する場を設ける必要があると考えたのです。彼の目には、医師はもはや患者を手当する臨床家ではなく、機械を操作する技術屋か実験室に閉じこもる研究者になってしまったと映りました。そこで医療に関する新たなルール作りを、新たな担い手によって行わなければならないと考えました。こうしてモンデールの法案は、それまでもっぱら医師に任されていた医療倫理の問題を、医師以外の専門家や一般市民まで加わって議論するという、いわゆる「バイオエシックス bioethics(生命倫理、生命倫理学)」の枠組を政策レベルで実現しようとした初めての提案になったのです。
 しかしモンデールの法案は医学界の猛反発を買いました。モンデールは上院で公聴会を行ったのですが、最初に証人として招かれたJ. ナジャリアン、A. カントロヴィッツ、N. シャムウェイの3人の移植医は、いずれも医学研究に連邦資金をもっと投入するよう熱心に説く一方で、提案された連邦委員会はせいぜい質の低い医師や病院を監督する程度にして、最先端の研究に介入すべきでないと述べました。次に証言台に立った神学者・歴史学者やビーチャーは委員会の必要性を説いたものの、南アフリカから招かれたバーナードはあからさまに反対し「もしかりに私が米国の医師たちと競争しているとするなら、私はこの委員会を歓迎するだろう。なぜなら委員会は彼らを私よりはるか後に追いやり、彼らは私に決して追いつけなくなるだろうから」と言い放ちました。バーナードほど露骨でないにせよ、他の移植医たちも最初の3人と同様委員会に消極的でした。また、遺伝子工学と行動コントロールの研究者も、移植医と同様に、政府の第一の役割は研究に対する資金援助であり、研究の内容に干渉すべきでないと考えていました。
 結局、モンデールの1968年の提案は実を結びませんでした。失敗した理由の中には、ニクソン政権がモンデールら民主党リベラル議員の活躍を嫌がったことや、厚生省とは別の監督機関を作るのに反対したこと、モンデール自身の提案が大まかすぎたことなどもありますが、最大の原因は、医学者や科学者たちの反対でした。彼の提案が実現するためには、研究者の反対を上回る幅広い世論の後押しが必要だったのです。

5. 1970年代の人体実験事件と研究規制体制の確立

 以上のように、1960年代には薬害と人体実験スキャンダルをきっかけにして米連邦政府による医学研究規制が始まり、世論の関心もビーチャーらの問題提起によって高まっていました。1970年代に入ると、さらに大規模な人体実験スキャンダルがスクープされ、議論と政策立案の場は官庁から議会へと移ります。そして、立法によって、医学研究に対する連邦政府の規制が制度化されると共に、人体実験の基準をめぐる倫理学的議論の場が設定されます。まさにこうした歴史的・社会的な動向が、全米に及ぶ人体実験規制の成立を可能にしました。それはまた、人体実験論を主要な柱の一つとして、米国のバイオエシックス(bioethics、生命倫理学)を成立させることにもなったのです。

(1) ウィローブルック肝炎研究
【"Fighting the Plague," in Rothman & Rothman, Chapter 11; "Case 26," in Beauchamp & Childress, pp.431-433(『生命医学倫理』pp.518-521)および Faden & Beauchamp, pp.163-164(『インフォームド・コンセント』pp.130-132)を参照】
 ニューヨーク大学のソール・クルーグマン博士とその研究チームは、1956年から1972年にかけて、ニューヨーク州・スタッテン島にある知的障害児の施設「ウィローブルック州立学校」において、肝炎ウイルスを入所者に人為的に感染させる実験を行いました。ウィローブルック州立学校は、1949年には入所者が200人程度でしたが、収容者数は年々増加の一途をたどり、1963年には6000人以上にものぼっていました。IQ20以下の重度知的障害児の割合が高く、入所者の約73%を占めていた時期もあります。施設の衛生状態は非常に悪く、麻疹・呼吸器感染・赤痢・さまざまな寄生虫病などのほか、入所者の約半数がトイレの用を自分で足せなかったため、便から経口感染する肝炎が広く蔓延していました。1953年から1957年までに入所者の間で350例、職員の間で76例の肝炎発症が報告され、感染率は入所者で25/1000、職員で40/1000にもなりました(ニューヨーク州の平均感染率は25/10万。しかもウィローブルックの症例数は黄疸を伴う急性肝炎だけに限っています)。当時はまだ肝炎の病原体であるウイルスを実験室で培養することは不可能で、生きた人間を使うしか実験方法はありませんでした。そのほか肝炎についてわかっていたことといえば、汚染された食物を食べて感染する、潜伏期間が30日程度と短い型(今日でいうA型肝炎)と、血液感染する、潜伏期間が90日程度と長い型(今日でいうB型肝炎)があるらしい、ということくらいでした。
 クルーグマンが感染症に関心を持ったのは、軍医として赴いた南太平洋戦線でマラリアや寄生虫病の治療に当たったことがきっかけだったようです。除隊後はニューヨークの感染症専門の公立病院に勤務し、そこで彼はワクチン開発による感染症予防を自らのテーマに定めます(クルーグマンにとって「予防」とは、けっして上下水道の整備などによる衛生状態の改善を意味するものではありませんでした)。その後、ベルビュー病院を経て1954年にウィローブルックの顧問医になり、最初に着手したのは、血清中の蛋白質ガンマ・グロブリンの注射による肝炎予防法の研究でした。彼は新しく入所する知的障害児を二つのグループに分け、一方にはガンマ・グロブリンを注射し、もう一方には注射しないでおいて、8〜10か月後に肝炎発症者の数を数えました。その結果、注射した群では1812人中わずか2例しか肝炎を発症しなかった(感染率1.7/1000)のに対し、注射しなかった群では1771人中41例の発症がありました(感染率22.5/1000)。こうして、ガンマ・グロブリン注射が肝炎予防に効果があることが確かめられました。
 しかし、ガンマ・グロブリン注射がどのように免疫をつくるのか、また、得られた免疫は永続的なものなのかどうかは、わかりませんでした。そこで次にクルーグマンは、ガンマ・グロブリンを注射すると同時に、生きた肝炎ウイルスを投与する実験を始めます。そのために彼はウィローブルック州立学校内に隔離された特別病棟を作り、新たに入所する3歳から11歳の知的障害児を、家から直接特別病棟に迎え入れました。そのうちの一部にだけガンマ・グロブリンが注射され、残りの子どもはグロブリン注射を受けないまま、次いで全員に肝炎発症者の便から取ったウイルスが投与されました。それから6か月後・9か月後・1年後にそれぞれ再び生きた肝炎ウイルスが投与され、最初にガンマ・グロブリン注射を受けた被験者がそうでない被験者と比べて発症しにくいかどうかを確かめました。
 またクルーグマンは、肝炎発症者の4〜8%が1年以内に2度目の肝炎発症を起こすことに注目しました。2度目の発症は、1度目の発症によって得られた免疫をしのぐ感染が起きたとも考えられますが、クルーグマンは2回の発症はそれぞれ型の異なるウイルスによるものではないかと考えました。この仮説を検証するため、彼は1964年に新たな実験を始め、3年間でA型肝炎とB型肝炎のウイルス株を分離することに成功しました。その実験とは以下の手順で行われました。

(i) まず、施設内の肝炎発症者から得たさまざまなウイルスの混合物を特別病棟の被験者に与えて肝炎を発症させて血液を採取し「MS-1」とラベルを貼ります。
(ii) やがて回復した被験者に再び同じウイルス混合物を投与して、2度目の発症を起こさせます。その際、MS-1を採取した同じ一人の被験者から、再び血液を採取し「MS-2」とラベルを貼ります。
(iii) 新たな14人の被験者(MS-1群)にMS-1を注射し、肝炎を発症させます。被験者は一人を除いて31〜38日目に肝炎を発症しました。
(iv) また別の新たな14人の被験者(MS-2群)にMS-2を注射し、肝炎を発症させます。MS-2群は二人を除いて41〜69日目に、肝炎を発症しました。
(v) 最後に、MS-1群とMS-2群の両方の肝炎発症者全員に、MS-1血液を注射します。すると、MS-1群では一人を除いて2度目の発症は起こりませんでしたが、MS-2群では8人中6人の被験者が2度目の発症を起こしました。

このような結果が生じたのは、MS-1を与えられて発症し回復したMS-1群では、MS-1に含まれるウイルスに対して免疫ができていたため、MS-1を再び与えられてもほとんど発症しなかったのに対し、MS-2を与えられて発症し回復したMS-2群では、MS-1のウイルスに対する免疫ができていないため、MS-1を与えられたら大部分が発症した、と考えられます。こうして、MS-1とMS-2に含まれるウイルスは別の型であると証明されたことになります。MS-1のウイルス(A型肝炎ウイルス)は潜伏期間が短く、(実験iiiにおいてMS-1が与えられなかった「MS-1対照群」の全員も施設で生活するうち同じ肝炎を発症したので)感染力が非常に強いということがわかりました。一方、MS-2のウイルス(B型肝炎ウイルス)は潜伏期間が長く、(実験ivにおいてMS-2が与えられなかった「MS-2対照群」は5人のうち2人しか同じ肝炎を発症しなかったので)感染力は弱いということがわかりました。この研究は医学界に喝采をもって迎えられ、クルーグマンの名声を確立しました。

 しかしながら、以上のような一連の研究によって、最終的には750人から800人の知的障害児が人為的に肝炎を感染させられました。といっても、これらの実験はけっして秘密裡に行われたわけではなく、著名な医学雑誌に発表されており、実験を始める前にクルーグマンは多くの同僚たちに相談し、米軍疫学委員会の審査も通って資金援助を受けていました。ニューヨーク大学医学部教授会 executive faculty は彼の研究を承認し、後に設置された大学の人体実験審査委員会も許可を与えていたのです。H. ビーチャーは先述した1966年の論文にクルーグマンの研究を倫理的に疑わしい例の一つとして挙げていましたが、マスメディアがクルーグマンの実験を取り上げて世論の広い反響を呼んだのは、ビーチャーが1970年の本『研究と個人 Research and the Individual』で再び追及したこと、神学者P. ラムゼイが『人間としての患者 The Patient as Person』の中で非難したこと、および英国の医学雑誌『ランセット』誌上にS. ゴールドバイ Goldby が批判の投書をしたことがきっかけでした。世論の非難に対しクルーグマンは抗弁し、クルーグマンの論文を掲載していた『米医師会雑誌』や『ニューイングランド医学雑誌』の編集者たちもクルーグマンを擁護しました。
 クルーグマンの反論の要点は以下のように整理されます。

(a) ウィローブルックの衛生状態が悪いため、新たに入所する児童はどのみち肝炎に感染することになる。したがって人為的に肝炎に感染させても、自然の結果と変わらないことになる(ちなみに、子どものウイルス性肝炎は大人の場合よりも穏やかで良性である)
(b) 肝炎に感染させられる被験者になれば衛生状態のよい特別病棟に入り、十分な医学的ケアを受けられる。施設内に蔓延している赤痢や寄生虫病や呼吸器疾患にさらされることがなくなるので、生命や健康の危険はむしろ少なくなる
(c) 肝炎ウイルスに対する免疫を得ることができる
(d) 親に説明して同意を得ている

また、当時は、施設の入所者を被験者とした肝炎研究が多く行われていました。たとえば1976年にニューヨーク市衛生局が肝炎対策作業班のメンバーとして召集したの5人の専門家(その中にはクルーグマンも含まれています)は、みな施設入所者を被験者として肝炎研究を行っていた研究者ばかりでした。
 これに対し、批判者たちは次のように論じました。

(A) 放っておいても肝炎に感染するのなら、人為的に感染させられることで被験者がとくに利益を得られるとはいえない
(B) それどころか、感染すると千人に1〜2人の割合で劇症肝炎を引き起こして死亡することがあるし、慢性肝炎になってのちに肝硬変になる危険性もある
(C) 免疫を得られるのは実験の本来の目的ではなく、単なる副産物にすぎない
(D) 親への説明は一方的で、同意も否応なしに取られたものである

実際、入所する知的障害児の親に送られた説明のための手紙には「発症することはないか、発症しても穏やかなものにすぎません」「お子さんに一生免疫ができるかもしれません」「予防可能性のある新しい予防法を施したいと存じます」といった語句が用いられていました。ガンマ・グロブリンが一部の被験者にしか与えられないと言いながら「発症することはない」と述べたり、実験なのに「予防法」と言っているのは、たしかに偽りといえます。また、当初行われていたこうした手紙による説明や個別面接による説明は、のちに7〜8人ずつの集団面接による説明へと切り替えられ、さらに収容人員過剰のため一般の入所者募集が中止された1964年以降は、クルーグマンの特別病棟に入って被験者になるなら入所できると通知されるようになりました。子どもを州立のウィローブルックに預けるしかない親たちには、子どもが被験者になることに同意するしか選択肢がなくなっていたのです。
 肝炎の予防は、ワクチンを開発するよりも、施設内の衛生状態を改善することで、より容易に実現することができたはずです。また、ガンマ・グロブリンの注射によって肝炎の発症が予防できることは、ほかならぬクルーグマン自身の研究成果でした。しかも、B型肝炎ウイルスの発見はB. ブランベルグ博士によって、人体実験によらずに成し遂げられたのです。ブランベルグは輸血免疫反応の研究中に、オーストラリア原住民(アボリジニー)の血液が不思議な帯を作ることに気づいてこれを「オーストラリア抗原」と名付け、このオーストラリア抗原こそB型肝炎の病原体にほかならないことを発見して1967年に発表しました(ブランベルグはこの功績により1976年にノーベル賞を受賞しています)。クルーグマンはブランベルグの発見した病原体が「MS-2」のウイルスと同一であると確認しただけでした。その後クルーグマンは試行錯誤の上、ウイルスを含む血清を1分間煮沸させたものが予防効果をもつことを再びウィローブルックの児童を使って調べ、B型肝炎ワクチンとして発表しましたが、これは実際に軽い肝炎を引き起こしていたことがわかり、ワクチンとはいえないことが判明しました。
 こうした批判と論争の中で、施設の劣悪な環境自体も問題にされ、なお5400人の入所者を抱えていたウィローブルック州立学校は、3年間の裁判の末1975年に閉鎖されます。しかし、地域の施設などに入り直した元入所者たちはB型肝炎の感染者として、今日のHIV感染者に対する以上の偏見と差別にさらされ、ニューヨーク市の教育委員会すらウィローブルック出身児童の登校を一時禁止するほどでした(もっとも、この登校禁止措置はすぐに裁判となって教育委員会が敗訴し撤回されています)。一方、医学界におけるクルーグマンの名声は衰えることなく、全米肝炎研究委員会の委員長や『米医学雑誌』の編集委員などを歴任し、ジョン・ラッセル賞、米内科医協会 American College of Physicians の賞などを受賞し、1983年には米国最高の賞といわれるラスカー賞を授与されています【Rothman, Strangers at the Bedside, p.77による】。

(2) タスキギー梅毒研究
【"Human Subjects: The Tuskegee Syphilis Study" in Pence, Chap. 9(『医療倫理』みすず書房、第9章)を主に参照】
 1972年7月26日、『ニューヨーク・タイムズ』の一面トップに「連邦政府による研究の梅毒犠牲者、40年間も治療されず」と題する記事が掲載されました。執筆したのはAP通信の女性記者ジーン・ヘラーで、APから配信されたその記事は全米各地の新聞の一面トップを飾りました。その内容は、アラバマ州メイコン郡タスキギーでアフリカ系米国人(黒人)が「モルモット」として扱われ、1969年の疾病管理センター(CDC)の調査によると治療されず放置された276人の梅毒患者のうち、少なくとも9人が「梅毒の直接的結果として」死亡した、というものでした。この記事は大反響を呼んで連邦議会の議員も動き始め、米厚生省はタスキギーの研究を調査し報告する特別委員会を設置しました。
 梅毒の病原体スピロヘータは1906年にF. シャウディンによって発見されていました。梅毒は症状によって第1期、第2期、第3期と分けられますが、それぞれの特徴は以下の通りです【Pence, pp.232-233による】。

 第1期:梅毒スピロヘータが下疳 chancre を作る。感染力が強い。
 第2期:スピロヘータが下疳から全身に分散して体内に病変を作る。外見的には下疳が消えて「潜伏」した状態が1年から30年の間続くが、発熱・発疹・腺の腫れが生じることもある。症状は非常に多様。
 第3期:加齢に伴う免疫力の低下などにより、慢性の病変が心臓や神経系に破壊的影響を与える。不全麻痺やゴム腫、失明などが起こることもある。

 梅毒の治療としては16世紀以来水銀が用いられ、19世紀には水銀に代わりビスマスが用いられるようになりましたが、どちらも症状を軽減することはあってもスピロヘータを殺すことはできませんでした。梅毒スピロヘータが発見された後、1909年にP. エールリヒと秦佐八郎は、さまざまな砒素化合物の梅毒に対する効果と毒性を片端から調べていて、606番目の化合物が非常によく効くことを発見し「サルヴァルサン」と名付けます。サルヴァルサンは画期的な梅毒治療薬として「魔法の弾丸」ともてはやされますが、そのうち、サルヴァルサン治療を受けた患者で梅毒が再発することがあること、また、強い副作用のために亡くなる患者も出てきました。そこでエールリヒはさらに研究を続け、今度は914番目の化合物を「ネオサルヴァルサン」を開発します。ネオサルヴァルサンはたしかにサルヴァルサンよりは毒性が低く使いやすい薬でしたが、サルヴァルサン同様筋肉注射によって投与する必要があり、しかも1年間以上にわたって20回から40回の注射を受けなければなりませんでした。また注射1回の費用が10ドルと高価であり、貧しい患者は定期的に継続して注射を受けることができませんでした。結局、サルヴァルサンもネオサルヴァルサンも「魔法の弾丸」にはなり得なかったのです。
 一方、梅毒自体の病態に関する研究も進んでいました。ノルウェイのC. ボーク Boeck は1981年から1910年にかけ、1978人の梅毒患者に関して、治療をしない場合の自然経過を観察しました。水銀やビスマスなど重金属を用いた治療法は対症療法にすぎず、むしろ免疫を抑制するがゆえに、治療した患者よりも治療しない患者のほうがいいのではないか、とボークは考えたのです。さらに1929年、ボークの弟子のブルースゴール Bruusgaard はボークの1978人の患者から473人を選び、そのカルテを調べました。その結果、カルテが残っているのは重症者だけと予想されるにもかかわらず、473人のうちの65%が外面的症状がないか梅毒の古典的症状の記載がないことがわかりました。20年以上梅毒にかかっている患者では、症状のない者が73%にも上りました。ボークとブルースゴールの研究は、梅毒が一般的なイメージとは異なり、必ずしも致死的ではなく、まして急速に死に至るわけではないことを示していました。

 タスキギー梅毒研究はこのような状況の中で、梅毒の自然経過を観察する新たな研究として、1932年に始められました。研究を行ったのは、米厚生省の直属機関である公衆衛生局(PHS)自身でした。
 1929年に慈善団体ローゼンウォルド基金は梅毒感染率が20%を超える郡 county を六つ選び、PHSの協力を得て、そこに住む全ての患者をネオサルヴァルサンで治療する事業を開始しました。翌1930年に同基金は、黒人が人口の82%を占めるアラバマ州メイコン郡タスキギー周辺に3694人の患者がいて、全米で最も高い36%の感染率を示していることを見出し、ここをデモンストレーションの場所に選んで治療を始めます(実際にどのくらいの患者がネオサルヴァルサン治療を受けたのかに関しては、全体の半数以下とする者から95%に上るという者まで、論者によって大きな幅があります)。しかし1929年に始まった大恐慌は慈善団体の資金運営を直撃し、ローゼンウォルド基金はタスキギーの事業から撤退を余儀なくされます。同基金はPHSが治療事業を継続してくれることを望んでいましたが、PHSの予算も著しく縮小されたので、それは不可能になりました(大恐慌以前は100万ドル以上あったPHSの年間予算は、1935年には6万ドル弱になりました)。
 それでもPHSは1931年に4400人の黒人住民を対象として再び梅毒検査を行い、男性の22%が梅毒にかかっており、先天性梅毒は62%に上ることを見出しました。ここで一度も治療を受けていない黒人梅毒患者が399人いることがわかります。彼らは、梅毒の自然経過観察を行うためには、まさにうってつけの患者でした。PHS長官(Surgeon Genaral)は、この399人の患者は治療するのでなく単に観察すべきだと示唆し、こうしてタスキギー梅毒研究が開始されたのです。
 研究対象にされた患者たちは梅毒の第2期に入っていました。PHSは彼らを治療する群と治療しない群に割り付けることもせず、全員を単に観察しただけでした。その他、彼らの(第一の)対照群として梅毒にかかっていない同年齢の男性200人が選ばれ、同じように観察されていました。1946年からはペニシリンが梅毒治療に広く用いられるようになりましたが、399人の梅毒患者や200人の対照群の男性には、1960年代や1970年代になってもペニシリンなどの抗生物質は与えられませんでした。さらに、サルヴァルサン治療をいくらか受ける梅毒患者275人が第二の対照群に選ばれていましたが、これは1936年に資金不足ため追跡が打ち切られました。
 しかし、研究とはいいながら、その計画はきわめてずさんなものでした。継続して研究に携わるスタッフは黒人の看護婦E. リヴァーズただ一人で医師は常駐せず、研究の統轄は行われず、書面の研究計画書もありませんでした。患者の名前が対照群の被験者の名前と混同されることもしばしばでした。患者たちのほとんどは小農民か小作人で、一か所に集められることもなく、リヴァーズが車で迎えに来たときだけタスキギーの町に出てきました。そこで患者たちの中にはメイコン郡の内外でネオサルヴァルサンやペニシリンによる治療を受けてしまっていた人もいましたし、対照群の中にもあとから梅毒にかかった人がいました。また、研究者の医師たちは数年に一回しかタスキギーを来訪せず(たとえば1939年の次は1948年、1963年の次は1970年でした)、記録もきわめて乏しかったので、久しぶりにタスキギーに来ても以前のことがわからなくなっているほどでした。継続的に行われていた唯一の処置は、患者に脊髄穿刺を行って脳脊髄液を採り、梅毒の進行状態を調べることで、399人の患者のうち271人がこれを受けています。
 とくに病気という自覚もないのに自分の住まいと畑を離れて町へ行き、痛い脊髄穿刺を受けさせられるのは患者にとって億劫なことでしたので、往復の交通手段、温かい昼食、梅毒以外のあらゆる病気の治療、そして葬式が、すべて無料で提供されました。とりわけ、葬式代が無料になるというのは、貧しい農夫である患者たちにとっては魅力でした(ちなみにPHSは予算削減によりこの費用すら出せなくなり、ミルバンク記念基金の助けを受けなければなりませんでした)。患者たちは脊髄穿刺のほか、死後に病理解剖を受けることになっていました。また研究者たちは第二次大戦中には地域徴兵委員会 local draft board に働きかけて、患者たちが徴兵されないようにしましたが、それは軍で梅毒治療をされないようにするためでした。
 患者たちは梅毒にかかっているという説明は受けず、ただ「悪い血 bad blood」をもっていると告げられただけで、患者たちはそれを一種の精力低下か何かのことだろうと思っていたようです。しかし「悪い血」は放っておけば大変なことになる、脊髄穿刺はその「治療」であると医師たちは説明しました。患者たちのほとんどは結婚しており、平均5.2人の子どもをもうけていました。

 1940年代半ばまでには、梅毒患者の死亡率は対照群の約2倍になるということがわかっていました。そのころ、ペニシリンが少なくとも第1期梅毒には有効であることが確かめられて治療に用いられるようになりましたが、タスキギー研究は依然として続けられ、患者たちには何の治療も行われませんでした。といっても、研究は決して秘密裡に行われていたわけではなく、1936年から1972年までに少なくとも17本の報告論文が医学雑誌に掲載されていますが、とくに批判は受けませんでした。
 そんな中で1966年、PHSにサンフランシスコの性病調査官として採用されたP. バクスタンはタスキギー研究のことを知り、なお研究が継続されていることに疑問と批判を提出しました。当時はタスキギー研究の研究者とデータは新しくアトランタに創設された疾病管理センター Centers for Disease Control (CDC) に移管されていましたが、CDCはバクスタンの批判に危惧を抱き、1966年暮れに彼をアトランタに呼んで、説得し沈黙させようとしました。しかしバクスタンは屈せず、その後2年間にわたってCDCを批判し続けました。ついにCDCは1969年に6人の委員(CDC性病部長、CDC局長、元アラバマ州衛生局員、元タスキギー研究員、マイアミ大学眼科教授、テネシー大学医学部長)からなる小委員会を作ってタスキギー研究を今後継続すべきかどうか検討しますが、委員会は5対1で継続を決定します。またCDCは同年、メイコン郡医師会にタスキギー研究のことを知らせましたが、当時メンバーのほとんどを黒人医師が占めるようになっていたにもかかわらず、同医師会はタスキギー研究に反対せず、研究の被験者のリストを渡されて抗生物質を投与しないように求められても応じてしまいました。一方、CDCの研究継続決定に失望したバクスタンは、1972年7月に友人のAP通信記者にタスキギー研究のことを話し、東海岸でこの事件を担当することになったへラー記者がスクープ記事を書いたのです。
 へラーのスクープにより沸騰した世論に対し、CDC性病部長のJ. D. ミラーは、タスキギー研究のことはこれまで何度も有力な医学雑誌に報告してきたし、「患者たちは薬を拒絶されたのではない。薬があると説明されなかっただけだ Patients were not denied drugs, rather, they were not offered drugs.」と弁明して、さらなる非難を招きました。アラバマ州選出の上院議員はただちに被験者に2万5千ドルの賠償を行う法案を提出し、米厚生省は先述したようにタスキギー梅毒研究特別委員会を設置します。1972年11月16日、米厚生省のC. ワインバーガー長官は正式にタスキギー研究の停止を表明しました。その際にCDCは、最初の399人の患者のうち28人が梅毒で亡くなったことを明らかにしました。ほかに約100人の患者が失明や精神障害を被ったといわれています。研究が停止されてはじめて患者たちはペニシリン治療を受けることができました。1973年2月と3月に、E. ケネディ上院議員を委員長とする労働福祉委員会衛生小委員会は、公聴会にタスキギー研究の患者2人を招いて証言させます。そして同年4月、米厚生省のタスキギー梅毒研究特別委員会は報告書を提出しました。報告書は、厚生省も連邦政府も人体実験を統轄する適切な政策を欠いていることを指摘し、少なくとも連邦資金による全人体実験を統制する永続的機関を設置するよう議会に勧告しています。
 1973年7月、元アラバマ州議会議員のF. グレイは、タスキギー研究の被験者の一部を代表し、連邦政府を相手取って集団賠償請求訴訟を起こします。司法省は連邦裁判所でなくアラバマ州モンゴメリーの裁判所でこの訴訟を扱うよう指示し、勝ち目がないとみた連邦政府は1974年12月に原告と和解しました。その結果、訴訟提起時に生存していた梅毒患者はそれぞれ3万7500ドル、死亡した患者の相続人に1万5000ドル、対照群の生存被験者に1万6000ドル、対照群の死亡被験者の相続人に5000ドルが、それぞれ支払われることになり、また被験者たちとその妻および子どもたちは、その後生涯にわたって医療を無料で受けられるようになりました。1988年までに連邦政府はタスキギー研究の被験者のために750万ドルを費やしました。1988年の時点で、当初の399人の梅毒患者のうち21人が生存しており、また被験者の妻41人と子ども19人が研究期間中に梅毒に感染したとして無料診療を受けています。
 1997年5月、クリントン米大統領は、87歳から110歳を迎えていた5人のタスキギー研究の梅毒患者をホワイトハウスに招き、政府を代表して初めて公式に謝罪しました。また大統領は、米厚生省が20万ドルを出資して、タスキギー梅毒研究に関する記念館を含む「医学研究に関する国立生命倫理学センター National Center for Bioethics in Research and Health Care」を、タスキギー大学に設立することを発表しました。

(3) 全米研究規制法
【ACHRE, Final Report, pp.103-104; Rothman, Strangers at the Bedside, Chap.9(『医療倫理の夜明け』第9章)および Faden & Beauchamp, Chap.6(『インフォームド・コンセント』第6章)を主に参照】
 ウィローブルック肝炎研究に続いてタスキギー梅毒研究が報道され、医学研究に対する世論の批判が高まった1973年に、連邦議会の医学研究規制の動きが活発化します。モンデール上院議員は全米諮問委員会を設立する案を決議案を、J. ジェイヴィッツとH. ハンフリーの両上院議員は人体実験規制法案を、それぞれ再び提出します。そしてE. ケネディ上院議員の小委員会は公聴会「医療の質----人体実験」を1973年2月から7月にかけて開催し、先述したようにタスキギー研究の被験者を含むさまざまな証人を招きます。
 ケネディは1968年のモンデールよりも巧みに、医学研究に対して外部から規制を加える必要性を訴えました。最初に取り上げられたのは避妊薬として使われていたデポ・プロヴェラとDES(ジエチルスチルベストロール)の問題でした。デポ・プロヴェラは進行性子宮癌と子宮内膜症の治療薬として、DESは流産予防薬として、それぞれ食品医薬品局(FDA)から認可されていましたが、いずれも副作用として発癌性が疑われ、避妊薬としての認可は受けていませんでした。にもかかわらず、医師は認可された薬を認可されたのと異なる使用目的にも自由に処方でき、デポ・プロヴェラとDESは副作用に関するインフォームド・コンセントを得ることなく避妊薬として処方されていたのです。その他、1972年にサンアントニオで、メキシコ系米国人の女性が知らない間に避妊薬の被験者にされてしまっていたことも明るみになりました。避妊薬の問題やタスキギー研究のほか、ウィローブルック研究、ロボトミーのような精神外科手術 psychosergery 、遺伝子工学、刑務所での実験も取り上げられました。招かれた証人の多くは、医学界による自己規制がもはや実効性を失ったという分析に同意し、連邦政府による包括的な研究規制立法に積極的な姿勢を示しました。
 公聴会終了後ケネディは、米厚生省のタスキギー梅毒研究特別委員会が勧告した《人体実験を統制する永続的機関》として「全米人体実験委員会 National Human Experimentation Board」を設立する法案を提出しました。しかしこの法案が通らない見通しとなったとき、ケネディは新たに、米厚生省が人体実験に関する規制を制定することと引き換えに、規制権限をもたない諮問委員会として「生物医学および行動科学研究の被験者保護のための全米委員会 National Commission for the Protection of Human Subjects of Biomedical and Behavioral Research」【以下、被験者保護全米委員会と略記】を設置する法案を提出しました。この法案は「全米研究規制法 National Research Act」として1974年7月に成立しました。
 全米研究規制法成立に先立つ1974年5月、米厚生省は人体実験に関する規制を公布します。この規則は、連邦資金の援助を受ける研究施設はそれぞれ「施設内審査委員会 Institutional Review Board (IRB)」を設置し、全ての実験計画を審査し承認して、初めて厚生省に資金援助を申請できるとしました。このIRB方式は1966年のスチュアートPHS長官の政策声明の線に沿ったものになっています。IRBで審査するのは、実験の安全性や、被験者から得たインフォームド・コンセントの手続きと内容が適切かどうかということでした。
 全米研究規制法は、被験者保護全米委員会の設置、厚生省に対する人体実験規制公布の要求のほかに、「生物医学および行動科学研究の被験者保護のための全米諮問協議会 National Advisory Council for the Protection of Subjects of Biomedical and Behavioral Research」の設置、IRB設置確約の提出義務づけ、胎児実験の一時停止などを定めています。また被験者保護全米委員会の任務としては、人体実験に関する基本的倫理的原理の同定、研究実施指針の策定、指針を適用するための行政措置の勧告、未成年者・囚人・施設収容精神障害者のインフォームド・コンセント要件の同定、胎児を用いた研究および精神外科手術についての調査・検討、生物医学および行動科学研究の進歩に関する倫理的・社会的・法的意味の検討、が挙げられていました。この任務に応えて委員会は1974年から1978年にかけて精力的に活動し、17冊に上る報告書および補遺を刊行しました。そのうち『ベルモント・レポート』と呼ばれる短い報告は「人格の尊重 respect for persons」「恩恵 beneficience」「正義 justice」の三つを、人体実験が従うべき一般的倫理的原理として挙げました。これらの原理は、論者によって多少の変更を加えられながらも、今日、生命倫理学の基本原理として広く用いられるようになっています。

(4) 国防省をめぐる動き:諜報秘密研究と連邦最高裁スタンリ判決
【ACHRE, Final Report, pp.105-107 を参照】
 陸軍は1973年に「医学的サービス:臨床研究プログラム」という規則を出し、健康な被験者のみならず患者の被験者からもインフォームド・コンセントを得るという条件ををようやく定めました。また、人間を被験者とする研究は「人間使用委員会 Human Use Committee」によって審査されることになりました。また、NASAでは1972年に、危険性と被験者の「書面による自発的なインフォームド・コンセント」を事前にチェックすることが正式にNASAの方針として定められました。しかしこの方針は依然として「例外的な場合」は同意要件が免除されており、しかもNASAの委託や資金援助を受けた外部の研究には適用されませんでした。
 1974年、全米研究規制法が施行されるのとほぼ同じ時期に、冷戦下で中央情報局(CIA)と国防省(DOD)が秘密の人体実験を行っていたことが明らかになりました。1974年12月に『ニューヨーク・タイムズ』は、1960年代にCIAが米国市民に実験をしていたと報じました。この報道の反響に対応して、議会はF. チャーチ上院議員を委員長とする委員会を、また大統領はロックフェラー委員会をそれぞれ設置して、CIA、FBI、および軍の諜報機関の米国内の活動に関して調査に当たらせました。1975年夏、議会の公聴会とロックフェラー委員会の報告によって初めて明らかになったのは、CIAと国防省が、LSDやメスカリンなどの精神活性剤 psychoactive drug やその他の化学的・生物学的・心理学的手段を用いて人間の行動をコントロールする研究計画を立て、人体実験を行っていたということでした。何も知らされないまま被験者にされた人もおり、少なくとも一人がLSD投与後に死亡しています。F. オルソンという陸軍の科学者はCIAによる実験として1953年に説明されず同意もしないままLSDを飲まされ、一週間後に自殺しています。その後、ニューヨークのテニス選手H. ブラウアーがメスカリンを使った陸軍の秘密実験の結果死亡していることも判明しました。
 MKULTRAというコード名で呼ばれていたCIAのこの計画は、ソ連・中華人民共和国・朝鮮民主主義人民共和国が朝鮮戦争の米国人捕虜をマインドコントロールしているらしいことへの対抗措置として1950年代に始められ、150以上の委託研究を資金援助していました。その中には放射線被曝実験も含まれていたようですが、1973年にCIA長官R. ヘルムズの指示によりMKULTRA計画の記録の大部分が証拠隠滅されてしまったので、委託研究を含めた計画の全貌を知ることはできなくなってしまいました。しかしながらチャーチ委員会の報告は、被験者から事前の同意は一切とられていなかったと結論づけています。また同委員会は、CIAが1952年にウィルソン覚書を準備した国防省の委員会に参加しているので、ウィルソン覚書の方針に違反していた疑いがあると示唆しました。チャーチ委員会の勧告に従って1976年にフォード大統領は、証人の署名のある書面によるインフォームド・コンセントを被験者から得て、しかも被験者保護全米委員会のガイドラインに従わない限り、薬物を用いた人体実験を禁じる大統領命令を発します。この命令はカーターおよびレーガン大統領によって拡大され、あらゆる人体実験に適用されるようになりました。
 陸軍では1975年、陸軍長官が監察将校 inspector general に調査を命じました。この調査により同年8月、ウィルソン覚書がようやく公開されます。また、少なくとも薬物実験に関してはウィルソン覚書の条件に従って「志願者」のみを被験者としていたけれども、十分な説明は行われていなかったようです。
 実験の事実が明るみになると、連邦政府に対する一連の賠償請求訴訟が被験者たちによって起こされました。CIAはオルソンの遺族に死亡給付金を支払い、陸軍は1955年にひそかにブラウアーの遺族に1万8千ドルの和解金をニューヨーク州と折半して払っていたのです。こうした訴訟の中でも注目を浴びたのは、陸軍軍曹のJ. スタンリの訴訟でした。連邦政府はこれに対し、軍勤務者は軍務に付随して生じた害について政府を訴えることができないとした1950年の連邦最高裁判決に依拠して、スタンリの訴えは無効だと主張します。1987年に下された連邦最高裁の判決は5対4の僅差でスタンリの請求を退けましたが、反対意見を書いたW. ブレナン判事とS. オコーナー判事は、いずれもニュルンベルク・コードを連邦政府の人体実験に対する基準として引き合いに出しました。この訴訟は連邦最高裁がニュルンベルク・コードに言及した唯一の例となり、ブレナンとオコーナーの反対意見は政府に、たとえ国防目的であっても被験者の同意を得ない実験は認められないと注意を促すことになりました。

(5) 大統領委員会からコモン・ルールへ
【Faden & Beauchamp, Chap.6(『インフォームド・コンセント』第6章); Jonsen, The Birth of Bioethics, Chap.4 および丸山「臨床研究に対するアメリカ合衆国の規制」を主に参照】
 全米研究規制法によって設置された「生物医学および行動科学研究の被験者保護のための全米委員会」は、胎児と子どもを用いたある種の研究に関して、米厚生省内に「倫理諮問委員会 Ethics Advisory Board」を設けて検討するよう勧めました。1977年、カリファーノ米厚生省長官は同委員会の設置を決め、1978年から1980年にかけて活動を行いました。諮問委員会は1979年に『体外受精・胚移植における人体実験に対する米厚生省の後援 HEW Support of Research Involving Human in Vitro Fertilization and Embryo Transfer』を発表し、生殖技術研究に対する連邦政府の資金援助(これは先述したように全米研究規制法によって一時停止されていました)を肯定して、その倫理的指針を示そうとしました。しかし、中絶論争に揺れる米国にあって米厚生省長官は身動きがとれず、胎児鏡の使用手順が採用された以外は、報告書は黙殺されてしまいました。
 1978年、被験者保護全米委員会が任期切れを迎える直前に、ケネディ上院議員が提出した「医療および生物医学・行動科学研究における倫理問題を研究するための大統領委員会 President Commission for the Study of Ethical Problems in Medicine and Biomedical and Behavioral Research」【以下、大統領委員会と略記】設置法案が米連邦議会で成立しました。大統領委員会は米厚生省の倫理諮問委員会を実質的に吸収する形で1980年から活動を開始し、1983年までの間に9つのテーマに関する一連の報告書などを公刊します。この委員会は医療全般の問題を扱うもので、モンデール上院議員が1968年に提案した構想を10年後にようやく実現したものであると同時に、人体実験の問題に関しては被験者保護全米委員会が始めた仕事を受け継ぎました。1981年に出された報告書『被験者の保護 Protecting Human Subjects』では、全ての連邦政府の省庁が、被験者保護のための米厚生省規則を採用するよう勧告しています。
 この勧告は最終的には1991年に、科学技術政策局 Office of Science and Technology Policy (OSTP) の提示した規則を「コモン・ルール common rule(共通規則)」として16の省庁が採用したことで達成されました。こうして、連邦政府のどの省庁が実施ないし資金援助する研究に対しても、適切なインフォームド・コンセントと基準を満たすIRBの承認を必ず得るよう求める同じ規則が適用され、違反した場合にはその施設で行われる研究または資金援助の打ち切りがなされることが確実になりました。また、医薬品の臨床試験に関する食品医薬品局(FDA)の規制は、これに先立つ1981年から、すでにコモン・ルールの内容に合致させられています。米国では、人体実験を行う学術的施設で、連邦政府の資金援助を受けた研究を一切行っていないところはまずないので、こうして今日では、米国内の人体実験は全てコモン・ルールに定められた条件を満たすことが要求されるようになったのです。

"米国における人体実験と政策より引用おわり


治験 薬の人体実験  治験は必ず人体実験

治験 薬の人体実験 より引用はじめ”

「治験」とは新薬の製造もしくは輸入承認を求めるために行われる臨床試験のことで、この言葉は薬事法によって定められています。また「臨床試験」とは「人間への介入の効果と価値を対照群と比較する前向きな研究 a prospective study comparing the effect and value of intervention(s) against a control in human beings」(Friedman LM, Furberg CD & DeMets DL, Fundamentals of Clinical Trial, 3rd ed., Springer, 1998, p.2) と定義されており、要するに、何らかの医療的措置が期待された効果をもたらすのか、また、その効果はどれだけの意義があるのかを調べるために、その医療的措置を行った人々の状態を行わなかった人々の状態と新たに比較検討する人体実験のことを指します(ここでいう「医療的措置」とは必ずしも薬の投与とは限らず、手術など他の治療法やそれ以外の医療措置も含みます。また、臨床試験の目的は新薬の製造もしくは輸入承認を得るためとは限りませんので、「臨床試験」のほうが「治験」よりも幅広い概念です)。今回は薬の人体実験である「治験」が実際にどのように行われているのかを解説し、その倫理的問題点について考察します。

1. 治験の段階

 治験は主に「第I相」「第II相」「第III相」の三段階で行われます。第I相試験に入る前に、動物実験や組織を用いた試験管内の試験などの「非臨床試験」が行われ、成分の薬効や安全性に関するデータが集められます。人間を用いた臨床試験に入る前に、そうした非臨床試験をきちんと行い、データを検討しておくことが大前提です。
 第I相試験は、開発中の新薬(医薬品候補物質、治験薬)の人間に対する安全性を確認することを主な目的として行われます。被験者になるのは原則として自由意志により志願した健康な男性です(ただし抗癌剤、抗不整脈薬、抗精神病薬、麻薬など侵襲性の高い薬の場合は第I相から患者に対して行われます)。安全性の確認とはいいかえれば危険性の確認ということでもあり、段階的に量を増やしながら、どのくらいの量を超えれば危険になるか(臨床安全用量の範囲ないし最大安全量)を調べるので、十分な医学的管理が行える数名程度の被験者ごとに慎重に行い、最終的には20名〜80名の被験者のデータを集めます。被験者は一定量の投与が行われる毎に、自覚症状・他覚症状や血圧・脈拍・体温などをチェックされるほか、血液検査のために採血されます。安全量の推定のほかに、薬の成分の吸収・分布・代謝・排泄といった状況(薬物動態)についても検討されます。
 第II相試験は前期と後期に分けられます。その主な目的は適応症(その薬を用いる疾病)と用量および用法を決めることです。第II相全体で100名から200名程度の被験者が必要です。
 前期第II相試験は原則として治験薬が初めて患者に用いられる段階で、安全性と有効性、および薬物動態を検討します。この前期第II相試験において、治験薬が開発に値するかどうか決定されます。まだ実験性の高い段階なので、被験者の数はせいぜい50人程度で十分といわれています。
 後期第II相試験は、前期第II相試験に引き続いて薬効動態や適応症について明らかにするほか、どのくらいの投与量で目標とする状態(評価項目、エンドポイント)が現れるのか(臨床推奨[至適]用量[幅])を、用量設定(用量-反応)試験によって調べ、第III相試験における用量を決めます。
 第III相試験は市販される前の最終段階の試験で、治験薬を実際に患者に用いる際の投与量の幅や用法、有効性や安全性、特徴などを「比較試験」と「一般臨床試験」を通して検証します。比較試験とは、治験薬を用いる患者群と、対照薬を用いる患者群の間で、有効性や安全性や有用性の比較検討を行う試験です。対照薬としては、日本では適応症に対して有用であることがすでに確立している既存の薬(標準薬)を一般に用いますが、米国では有効成分を含まないプラセボ(有効成分を含まないこと以外は治験薬そっくりに作った薬、偽薬)を用いるのが原則となっています。一方、一般臨床試験とは、治験薬が市販された場合に使用される状況に近い条件下での有効性や安全性について、第II相試験よりも年齢・病態・重症度などにおいて幅のある被験者群を用いて検討し、比較試験を補う役割を果たします。第III相試験では100人以上の患者が被験者となります。
 以上の三つの段階において有効性や安全性が確認されると、市販する許可が与えられます。しかし、市販した後で、他の薬と併用したり、長期間使用したり、第III相までの臨床試験では被験者になっていなかった患者(高齢者、子ども、妊婦、肝臓と腎臓に機能障害のある患者など)に投与したりした結果、予期されていなかった重い副作用が明らかになることもあります。そこで、市販後も安全性の監視や調査研究が続けられる必要があります。こうした市販後の観察的研究を総称して「市販後サーベイランス(市販後調査)」と呼びます。また、市販後に大規模な臨床試験が行われることもあり、これを「第IV相試験(市販後臨床試験)」と呼びます。これはとくに欧米では「代替評価項目(サロゲイト・エンドポイント)」に基づいて認可された薬(たとえば「血圧を下げる」ことを評価項目として認可された降圧薬)の「真の評価項目(真のエンドポイント)」(降圧薬の場合は「虚血性心疾患や脳血管疾患の予防、延命」)に対する効果を確認するために行われますが、日本においてはこの種の市販後臨床試験が行われた例はほとんどありません。

2. 群間比較試験の方法

 新薬が市販された場合に使用されるかもしれない患者すべてに対して治験を行うことは不可能であり、どうしても何らかの方法でサンプルとして選ばれた被験者に対してだけ行わざるを得ません。そこでまず、治験の結果が、その薬が市販され実際に用いられた場合の結果と同じであるといえること(一般化可能性、外的妥当性)が重要です。一般化可能性を確保する上で最も理想的なのは、使用される可能性のあるすべての患者から被験者を「無作為抽出」することですが、実際にはこれは不可能ですし、リスクが高い高齢者や肝・腎機能障害のある患者などには治験薬を直ちに用いるべきではないので、なるべくそれに近いモデル的な患者からなるグループを被験者とします。
 また、サンプルとして選ばれた被験者は、さらに治験薬を用いるグループ(治験薬群)と、対照薬を用いるグループ(対照群)に分けられることになりますが、治験薬群と対照群は、治験薬と対照薬の違い以外の条件については均質であること(比較可能性、内的妥当性)が、治験薬の有効性や安全性を確かめる上で不可欠になります。そのために、治験薬群と対照群に分ける際には「無作為割り付け」が行われます。
 こうして設定された治験薬群の患者に治験薬が、また対照群の患者には対照薬(標準薬またはプラセボ)が投与されることになりますが、被験者や治験を行う医師が、投与された薬剤が治験薬なのか対照薬なのかを知っていると、症状の自覚や結果の評価に影響を及ぼすことがあるので、治験薬か対照薬かを知らせない「目隠し blinding(盲験化)」が行われます。被験者にだけ治験薬か対照薬かを知らせず、処方する医師は知っているというやり方を「一重目隠し法 single blind method(単盲法)」と呼び、被験者も処方する医師も治験薬か対照薬かわからないというやり方を「二重目隠し法 double blind method(双盲法、二重盲験法)」と呼びます。
 こうした方法により集められたデータは、点検を経た後で統計解析にかけられます。統計解析の役割は、データに現れた有効性や安全性の差が偶然に現れたものである確率を見積もることです。そして、有効性の差が偶然によって生じたとはいえないことが明らかになれば、治験薬の有効性が証明されたことになります。

3. その他の比較試験の方法

 臨床試験としては、無作為割り付けを行い、二重目隠し法を用いた群間比較試験が最も科学的信頼のおけるやり方ですが、被験者の間で治験薬に対する反応が大きく異なる場合は統計的推論の精度が低下してしまいます。また、十分に統計的に信頼のおけるだけの数の被験者を集められるとは限りません。こうした場合、それぞれの被験者に複数の実験的措置を行って比較検討すれば、被験者は少なくてすみ、被験者間の反応のばらつきも抑えられます。
「被験者内同時試験」はそうしたやり方の一つで、各被験者の二箇所以上の治療部位が、治験薬か対照薬かに無作為に割り付けられます。ただし、この試験が行えるのは、たとえば皮膚の疾患で広い範囲に病変があるとか、両眼に疾患がある場合のように特殊な場合に限られます。また、血液などを通して、治験薬の有効成分が対照となる部位に影響してしまう場合などもあり、取扱いには慎重を要します。
 一方「クロスオーバー試験」は、各被験者に時期を変えて複数の実験的措置を行うもので、治験薬と対照薬を用いる時期がそれぞれ無作為に割り付けられることになります。これは状態のあまり変化しない慢性疾患などで、一時的かつ短期的な症状の緩和や測定値の変化に関する試験の場合に行われます。しかし、一つの治療法で治癒したり状態が大きく変化する場合や、被験者の脱落(試験中止)が多い場合は、そもそも比較ができないのでクロスオーバー試験を行うことができません。また、効果が長持ちする治療法について検討する場合には、いったんその治療法の効果が消滅して元の状態に戻るまで、次の実験的措置を控えなければなりません。
 その他、実際には、無作為割り付けされた対照群でない試験、同時期の対照群がない試験、そもそも対照群がない試験、標準薬の過去の治療成績を対照群(歴史的対照群 historical control)にする試験も行われています。しかし、いずれも無作為割り付け・二重目隠し法による群間比較試験に比べると、信頼性は低くなります。

4. 治験をめぐる日本の政策

 日本で医薬品が安全で有効であることの科学的証拠が要求されるようになったのは、1967年の厚生省による「医薬品の製造承認等に関する基本方針」以降といわれています。いいかえれば、それまでは薬の安全性や有効性の科学的根拠は求められていなかったということになります。この基本方針は、米国が1962年に「キーフォーヴァー・ハリス修正法」により食品医薬品化粧品法を改正し、新薬の認可に当たって有効性と安全性の「実質的証拠」を示すよう義務づけたことにならったものでした。
 1979年には薬事法が改正され、ここで新しい医薬品の臨床試験が「治験」と呼ばれて法的な性格を持つようになります。同時に、治験を依頼する際の基準(文書によって依頼すること、被験者の同意を得ること、治験中の事故に対して賠償すること、など)や、治験計画を届け出る制度などが定められました。
 1983年、厚生省は臨床試験の適正化のために専門家会議を設置し、「医薬品の臨床試験の実施に関する基準」(いわゆる「GCP」)を1989年に正式に通知します。そこでは、治験を実施する医療機関は「治験審査委員会」を設けて、実施計画書や被験者への説明内容などについて審査するよう定められました。また、被験者には文書または口頭で治験について説明し承諾を得ることとされました。1992年には「新医薬品の臨床評価に関する一般指針」「臨床試験の統計解析に関するガイドライン」も発効しています。
 しかしながら、日本の治験はなお国際的な基準に耐えうるものではありませんでした。1989年に、日本・米国・欧州連合の三極間で、新医薬品の製造ないし輸入の承認に際して要求される資料について調整を行う「日米EU医薬品規制調和国際会議(ICH)」が創設され、1996年には国際的な治験の基準として「ICH-GCP」が定められました。これに応じて日本国内の治験制度を再整備する必要が生じ、厚生省は1997年に改めて「医薬品の臨床試験の実施の基準に関する省令(厚生省令第28号)」(いわゆる新GCP)を制定します。新GCPでは、1989年の旧GCPが定めていた「治験総括医師」を廃止し、治験を依頼する製薬企業が直接に実施計画書を作成し、治験の実施状況をモニターすることになりました。また、治験を実際に担当する医師(治験責任医師)は被験者に対する説明文書を作り、文書による同意を被験者から得なければならないことになりました。さらに、治験審査委員会には、その医療機関に所属する者以外の外部委員を必ず含めなければならないことになりました。このようにして、日本の治験実施基準はようやく国際的基準を満たすものになりつつあります。
 ですが、従来きちんとしたインフォームド・コンセントを被験者から得ずに行っていたので、新GCPで文書によるインフォームド・コンセントが義務づけられると、被験者の確保が困難になってきています。日本国内で治験が十分に行えない「治験の空洞化」が懸念され、被験者に治験参加に伴う実費を補填したり、報酬を支給することも検討されています。

治験 薬の人体実験 より引用おわり


人体実験としての先端医療   臓器移植・生殖技術・遺伝子治療

人体実験としての先端医療   臓器移植・生殖技術・遺伝子治療より引用はじめ”

「先端医療」が含んでいる実験性について考えます。具体的には、臓器移植、体外受精などの生殖技術、それに遺伝子治療を取り上げますが、それぞれの技術的な詳細については解説する余裕がありませんので、参考図書のうち★をつけた文献をご覧下さい。

1.「実験性」

 臓器移植などの先端医療は、一般には「実験」というよりは「治療」であると考えられています。体外受精などの生殖技術は「不妊治療」として位置づけられていますし、遺伝子を操作することで発症やその可能性を抑える試みは「遺伝子治療」と呼ばれています。しかし、これらの医療はまだまだ実験的要素が含まれており、実態としては「治療」というよりはむしろ「実験」と呼ぶべき場合が少なくないと思われます。
 また、私は《治療は実験とはまったく別のもので、治療は実験ではありえず、実験であれば治療ではありえない》とは考えていません。たとえ「治療」として確立した医療措置であっても、いくばくかの実験的性質は必ず含まれています。また、たとえ「実験」であっても結果的に治療効果をもつこともあります。
 そこで、第一回の講義の冒頭で説明した「実験性」すなわち《結果が確定していないことを実地に試してみる、その試みであることの程度》という概念が重要になってきます。実験性は以下のような要素によって左右されると考えられます。

(1) 安全性/危険性
 一般に、安全性の高い医療措置は実験性が低く、危険性の高い医療措置はそれだけ実験性も高くなると考えられます。

(2) これまで実施された回数の多さ/少なさ
 すでに多数行われている医療措置は、それだけ成熟度が高くなって安全性も高くなっていると考えられますので、おおむね実験性は低いといえます。これに対して、実施例が非常に少ない措置や、実施している施設が限られている措置は、なお未知の危険があるかもしれないので、それだけ実験性も高くなります。

(3) 成功率の高さ/低さ
 成功率が高い場合、その医療措置の実験性は低いといえます。逆に、成功率が低い場合には失敗する可能性が高く、実験性も高くなります。

2. 臓器移植

 ひとくちに臓器移植といっても、実施数の多いもの(腎臓移植、角膜移植など)からほとんど行われたことのないもの(人工心臓移植、生体肺移植、ドミノ移植、腕や脚の移植など)、心臓死した人の遺体から提供された臓器で行えるもの(腎臓移植、角膜移植、骨移植、皮膚移植など)から生きた人や脳死状態の人の身体から提供された臓器でないと行えないもの(心臓移植、肝臓移植、肺移植、骨髄移植など)、臓器を摘出する際に提供者(ドナー)の身体を大きく侵襲するもの(心臓移植、肝臓移植、肺移植、腎臓移植、角膜移植、骨移植、皮膚移植、四肢の移植など)からあまり侵襲しないもの(人工臓器移植、輸血、骨髄移植など)、移植を受ける人(レシピエント)の身体を大きく侵襲するもの(心臓移植、肝臓移植、肺移植、腎臓移植、人工心臓移植など)からあまり侵襲しないもの(輸血など)、移植後の合併症や副作用が起こりやすくレシピエントが被る危険性が高いもの(異種移植、人工心臓移植、骨髄移植、心臓移植、肝臓移植、肺移植など)からあまり危険性が高くないもの(輸血、角膜移植、自家移植)まで、さまざまなものがあります。
 上述したように、実施数が多くすでに広く日常的に行われている臓器移植に関しては、技術的にかなり成熟しているので、これを行うことは実験性も低く「治療」と呼んでもさしつかえないかもしれません。腎臓移植や角膜移植などがこれに当たるでしょう。これに対し、これまでほとんど実施されたことがない移植を行うことは実験性が高く、「治療」というよりはむしろ「実験」といったほうがふさわしいといえます。とくに、その新奇さのゆえに実施報告そのものが貴重な症例報告になると予想され、初めから学会発表することを意図して行われる場合には、明らかに「実験」と呼んだほうがいいでしょう。現時点では、人工心臓の移植、生体肺移植、ドミノ移植、腕や脚の移植などがこれに該当します。脳死した人からの心臓移植や肝臓移植も、日本においてはまだ実施数や実施施設が少なく、実験的性格がかなり強いです。しかしながら、米国のようにほぼ日常的に行われるようになると、脳死した人からの心臓移植や肝臓移植も「実験」ではなく「治療」の範疇に入るようになるでしょう。現在「治療」と言ってよいような腎臓移植や角膜移植も、行われ始めた当初は「実験」と呼ぶほうがふさわしかったのです。
 また、レシピエントの被る危険性の高い移植も、実験的性格が強く、どちらかというと「治療」というよりは「実験」と呼んだほうがふさわしいでしょう。ヒヒやチンパンジーなどの心臓・肝臓などを移植する異種移植、人工心臓移植などがこの部類に含まれます。

3. 生殖技術----体外受精を中心に----

 今日、体外受精が行われてももはやニュースになることもなくなり、これまでに体外受精によって生まれた子どもは日本国内だけでも5万人以上にのぼるといわれています。しかし、依然としてその成功率は低く、胚移植一回ごとの出産率(受精卵を子宮内に戻して子どもの出産にまで至る率)は15%から20%程度といわれています。15%とすると、7回体外受精・胚移植を繰り返しても、3人に1人の女性は出産にまで至れないことになります((1-0.15)の7乗=0.85の7乗≒0.32≒1/3。本によっては「6回か7回[胚]移植を行えば[赤ちゃんが]生まれるだろう」などと、100%を越えるまで15%を単純に足し合わせればよいような記述がありますが、それがごく初歩的な誤りであることはいうまでもありません)。このように成功率の低い医療措置が堂々と「不妊《治療》」と呼ばれ、それをほとんど誰も怪しまなかったのは驚くべきことといわざるをえません。現在でも15%程度という成功率の低さは、体外受精という医療措置の実験性の高さを物語っています。
 しかも、体外受精の成功率が一見改善されているようにみえても、それは成熟した技術になってきたからだとは必ずしもいえません。体外受精の対象となる女性は、卵管閉塞など原因の限定された「不妊症患者」すなわち体外受精でなければ絶対に妊娠できない女性から、原因のはっきりしない「不妊症患者」つまり体外受精をしなくても妊娠できたかもしれない女性にまで、拡大されてきたのです。これでは、体外受精という医療措置そのものの成功率が本当に向上したのかどうかわかりません。
 さらに、体外受精は、卵管が閉塞していて出会えない精子と卵子を体外に取り出し受精させて子宮に戻すというだけで、卵管閉塞という不妊の原因そのものは「治療」せず放置しています。顕微受精でも、乏しい精子を人為的に卵子に入れるだけで、乏精子症そのものを治療しはしません。同様に、第三者の精子を用いた人工授精(AID)は無精子症自体をまったく改善しませんし、代理出産は着床・妊娠・出産に耐えられない女性本人を全然治療しません。このように、体外受精・顕微授精・代理出産などのいわゆる「生殖[補助]技術」は、疾患の原因を取り除くという近代医学的な「治療」の概念からは相当にかけ離れた医療です。
 しかも体外受精は、受精卵の操作を可能にする技術です。クローニング、ES細胞研究、受精卵への遺伝子治療などが、体外受精によって可能性を開かれました。その意味でも体外受精の開発は、将来の「実験」への道を開くための「実験」にほかならなかったのです。このことからしても、遺伝的につながりのある子どもを生めないカップルの切実なニーズに応えることを大義名分にして、体外受精を「不妊治療」と呼びならわすことは、大いに疑問が残ります。

4. 遺伝子治療

 遺伝子「治療」もまた、現在では実験段階でしかない医療措置です。このことは実施する医師たちも日本国政府もはっきりと認めています。現在、「遺伝子治療」を行う場合は、実施施設の倫理委員会で実験計画を審査するだけでなく、厚生省や文部省の審査と承認を得なければなりません。「遺伝子治療」で明確な治療成績が上がった実施例は、日本でも、すでに3000例以上行われている米国をはじめとする諸外国でも、現在のところまだ存在しないのが実状です。効果があるといわれている実施例(ADA欠損症への実施など)でも、他の治療法を併用しているために、「遺伝子治療」そのものの効果は確かめられていないのです。
 このように、明らかに実験にほかならないにもかかわらず「遺伝子治療」と呼ばれているのに、生命倫理学の専門家の間からすら、この呼称にいぶかしむ声がほとんど上がらないのは不思議なことです。現在の「遺伝子治療」は、せめて「遺伝子治療実験」とでも表現すべきです。医師が行えばどんなことでも「治療」になるというわけでは決してないのです。ここにも、日本の生命倫理学者の人体実験に対する見識のなさが露呈しています。医療には実験性が必ず含まれること、とくに開発段階にある先端医療技術については明白に「実験」が行われているのだということに、はっきり気づかなければなりません。

”人体実験としての先端医療   臓器移植・生殖技術・遺伝子治療より引用おわり

なぜ「人体実験の倫理学」なのか 概説

なぜ「人体実験の倫理学」なのか 概説より引用はじめ”

なぜこの講座のテーマを「人体実験の倫理学」と定めたのかを説明します。まずは、この講座で用いる用語の整理から始めます。

1. 用語の整理

●「人体実験」は記述的な言葉として用いる
 この講座では「人体実験」という言葉を、「人間を対象(被験者)として行われる実験」という記述的な意味で用います。
 今日一般に「人体実験」という言葉は、それだけで「非人道的な実験」とか「残虐な実験」といった否定的なニュアンスを込めて用いられています。しかし、この講座では、このような否定的に評価する意味を「人体実験」という言葉自体に込めて使うことはしません。「人体実験」はあくまで、単に「人間を対象とする実験」という、事実を客観的に描写しただけの意味で使うことにします。
 人間を被験者として行われる実験は、必ずしも「人体」に対するものだけではなく、人間の心理や意識に働きかける実験も含まれます(「人体実験」という言葉でこうした行動科学的実験までカバーさせるのはやや無理があるかもしれません)。しかし、この講座では行動科学における実験まで取り扱うことはできませんので、「人体実験」という言葉は、主に医学で行われる、人間の身体に働きかける実験のことを指して用います。

●「実験」とは?「実験」と「実験性」
「実験」という言葉は、科学的用語として用いる場合と、一般的な言葉として用いる場合とで、若干意味合いが異なります。科学的用語としての「実験」とは、仮説を検証するために、あらかじめ立てられた計画に従って行われる一連の手続きのことをさします。これに対し、一般的な言葉としての「実験」は《結果が確定していないことを実地に試してみること》という漠然とした意味で用いています。もちろん科学的な意味での「実験」は《結果が確定していないことを実地に試してみること》の一種ですので、一般的な意味での「実験」は科学用語としての実験を含む広い概念ということになります。また、一般的な意味で「実験」であることの程度、すなわち《結果が確定していないことを実地に試してみる、その試みであることの程度》を「実験性」と呼ぶことにします。
 科学的な実験にはおおむね「実験性」が含まれます。しかし、科学的実験でないからといって「実験性」が含まれないとはいえません。目的と実験計画が明確な科学的実験ではなくても《結果が確定していないことを実地に試してみる》ことはいくらでもあります。また、医療においては、治療の中に「実験性」が含まれている場合もあります。この意味で「治療と実験はまったく別物だ」と言うことはできません。

●「治療的実験」と「非治療的実験」
 ところで、医学実験の議論においては、実験計画に則った科学的実験を、さらに「治療的実験」と「非治療的実験」に区別することが一般に行われています。
 治療的実験とは、患者を被験者として、効果を検証する医療的措置が行われる患者(=被験者)本人に直接の利益があると期待しうる医学実験のことをいいます。治療的実験は他の治療法では改善効果がみられない患者を被験者として行われることが多くなります。開発中の薬や治療法を、これまでの治療で効果の見られない患者に用いて、従来の治療法と比較するデータを集めるといった場合がこれに当たります。
 これに対して非治療的実験とは、被験者本人に直接的利益はない医学実験のことで、健康な人を被験者とする場合が典型的です。また、患者が被験者であっても、その患者本人には直接的利益がない場合には、いくら他の患者や将来の患者などの利益につながったとしても、治療的実験ではなく非治療的実験になります。また、強制収容所の被収容者を用いたナチスの実験や日本軍の七三一部隊における実験など、被験者が死ぬことを前提にした実験が非治療的実験であることはいうまでもありません。
 たとえ患者に直接的利益が「あるかもしれない」としても、実験である限り、それはあくまで「治療的」実験にすぎないのであって、治療そのものとはいえません。にもかかわらず、インフォームド・コンセントの条件は非治療的実験の場合よりも緩くなっていることがあります(ex. ヘルシンキ宣言)。それは「患者の切実な要望に応えるものであり、駄目でもともと、うまくいけば患者の生命を救うことができる。救命のためにできるだけ努力することに患者は同意して入院しているのだから、非治療的実験の場合のような厳格なインフォームド・コンセントの要件は必要ない」といった理由に基づいています。しかし、まだ治療法として確立されてはおらず、効果があるかどうか判断するためのデータを取ることが本来の目的であり、最終的には治療的効果が得られず患者の身体に侵襲を加えただけで終わる可能性もあります。また、もし結果的に患者が治ったとしても、実験であったことに変わりはありません。したがって、治療的実験であっても、インフォームド・コンセントの手続きをむやみに緩めたり省略することには問題があります。

●「医学」と「医療」
 この講座では「医療」を、その外側から客観的に見ようとする医療社会学や医療人類学の視点でとらえます。たとえば佐藤純一は医療を「その社会の『病い・治療・健康』などをめぐる社会的文化的現象(行為)の中で、何らかの形で、社会的に形式化(慣習化・制度化)された営為」と定義しています(「医療」黒田浩一郎編『現代医療の社会学』世界思想社、1995年、p.4)。「病い」や「病気」という観念は、どんな社会にも、何らかの形で存在すると考えられます。したがって、どんな社会にも、病気でない状態としての「健康」という観念や、病気への対処である「治療」という観念が存在することになります。こうした観念に基づいて行われる営みは、社会や文化によってさまざまな形の慣習や制度となっています。こうした社会的・文化的事象を「医療」と総称するのです。
 こうした「医療」の定義の長所は、国家によって制度化され正統化されている医療だけではなく、民間医療や伝統医療や宗教的医療なども「医療」としてとらえることができる点にあります。そうすれば、それらの「非正統医療」と「正統医療」の間の関係を記述することもできるようになります。
 一方「医学」とは《医療を行うための学問的な知の総体》と定義できます。具体的には、何が病気なのかを定め、その原因を明らかにしようとし、どうすれば病気が治るのかを理論的に指示しようとするのが「医学」という学問です。上述の「医療」の定義に従えば、非正統的医療の理論体系もまた「医学」と呼びうることになります。

●「近代医学」
 私たちが今日一般に「医学」と呼ぶものは、上述の広い意味での「医学」のうち、近代の西洋で発達した医学を指しています。それは、日本が明治時代以来、西洋の医学を取り入れ、それのみを正統的な医学としてきたことによります。
 西洋近代の医学は、科学的であることを標榜しています。それは、人間を心と身体からなるものととらえ、身体を一種の機械であるかのようにみなしています。また、病気には必ず特定の原因があり、その原因(病因)を取り除けば病気は治る、と考えます。
 この講座では、こうした「西洋近代医学」のことを、特に意識して広義の「医学」と区別する必要のあるときには「近代医学」と呼ぶことにします。

●「倫理学」
 倫理学とは、規範の根拠を考える学問です。すなわち、どうして「〜はわるい」のか、「〜はよい」のか、「〜してはいけない」のか、「〜してもよい」のか、「〜すべき」なのか、「〜すべきではない」のか、といった理由を、他の人にも理解できるように、筋道を立てて考えるのが倫理学です*。(中略)

 ところで、規範の根拠について考えることは、必ずしも、何らかの規範を示すこと自体を含んではいません。「どうして『〜すべき』といえるのか」を考えることは、実際に「〜すべきだ」と指示することとは異なります。「倫理学する」ことと、倫理を説いたり倫理的に生きることとは違うのです。倫理学すること自体は、必ずしも倫理的なこととは限りません(だから倫理学研究者は必ずしも人格者ではないし、人格者でなければならないわけでもありません)。

 ですから、人体実験に関して「倫理学する」ことも、人体実験に関する何らかの具体的な倫理を示すことを目的にしているわけでは必ずしもありません。「人体実験をしてもいいのか、してはいけないといえる理由は何か、してもいいといえる理由は何か、してもいいとしたらどのようにすべきなのか、そうすべきといえる理由は何か」といったことを考えるのが厳密な意味での「人体実験の倫理学」であり、それは「人体実験はしてはいけない」とか「人体実験はこのようにする場合に限ってしてもいい」と実際に指示することを、必然的に含んでいるわけではないのです。そうした指示を行うことは学問としての倫理学そのものの責務ではないし、それを学問としての倫理学に求めるのは過大な要求だ、と私は考えます。
 しかしながら、私たちは具体的な現実に即して、実際に「〜すべきだ」とか「〜はよい」とか「〜はわるい」とか「〜してはならない」とか「〜してもよい」という判断(倫理的判断、規範的判断)を下さざるを得ません。ですが、この判断は、学問としての倫理学が下すのではなく、あくまでも私たち自身が下すのです。たしかに、学問としての倫理学は、私たちが具体的な現実に即して「いま、ここで」倫理的判断を下す際に、参考になる筋道を知らせてくれます。しかし、実際に「〜すべきだ」といった倫理的判断を下すのは、あくまでも私たち自身なのです。この私たち一人ひとりに課せられた責務を、倫理学という学問に転嫁してはなりません。倫理学に「〜すべきだ」という結論まで期待するのは、自分の頭で考え判断する責任を放棄し、学問の権威によりかかることでしかないのです。
 そこで、この「人体実験の倫理学」でも、具体的に「人体実験をどうすべきか」という倫理的判断を下すことは、受講者のみなさん自身の課題としてとっておくことにします。講座では、そのために参考になる資料と考える道筋を示すことを中心に行うつもりです*。20世紀末という「いま」、日本という「ここ」で、「人体実験」という問題に関して、具体的に「どうすべきか」を考えるのは、あなた自身です。(中略)

2. 今日の医療と人体実験

●新しい治療法を開発するための人体実験
 上に述べたように、近代医学は科学的であろうとします。ある治療法がほんとうに効果があるのかどうかを確かめようとする際にも「科学的」な方法を採ろうとします。そこで、実験計画を立てて、その治療法が有効かどうかを検証するためのデータを集める実験が、人間の体を用いて行われることになります。
 もっとも、必ずしもすべての医療が、治療法の有効性を証明する必要に迫られるわけではないかもしれません。そもそも病気が治ることがまれで、もともと医療が病気を治すことすらあまり期待されていない社会では、患者やその家族は、医師に診てもらったというだけで満足し、治療の有効性自体はあまり問われないかもしれません。しかし、医療が病気を治すことを標榜し、人びとからもそういう期待を集めるようになると、医師たちは、ある治療法が実際に効くのだ、ということを示さなければならなくなります。近代医学はまさにそうした「治す力を持つ」はずの医療を理論づけているのです。
 しかし、一般に治療法、たとえば特定の薬や手術法は、どのようにして有効なものとされるのでしょうか。それは、患者にその治療法を実際にやってみて、その治療法による効果といえるものが得られるかどうかを確かめる以外にありません。
 もちろん、患者に試す前に、まず可能な限り動物などで試してみるべきです。動物実験は人間と動物に共通性があるということを前提にしており、ある種の症状を人為的に発現させた動物を用いた治療実験なども行われています。しかし、それにもかかわらず、動物と人間の「種」の違いにより、人間には感染したり病気を発症させたりする菌やウィルスが、動物には感染しなかったり、感染しても病気が発症しなかったりする場合があります。薬への反応も「種」によって異なる場合が少なくありません。ですから、たとえ動物実験で効果が認められても人間に治療効果があるとは言い切れず、最終的には、やはり人間に試して効果があるかどうか調べなければなりません。また、手術法などの開発では、いくら動物に執刀してもデータとしてあまり意味をもたない、という事情もあります。
 ちなみに、新しい治療法を開発するための実験は、今日では次のようなやり方で行うのが厳密で科学的とされています。ある病気の患者のできるだけ属性を揃えた集団を作り、開発中の治療法を行う患者のグループと、行わない患者のグループ(対照群)とに二分して、治療法を行ったグループのほうが平均的にみて対照群よりも高い効果が上がっているかどうかを調べます。場合によっては「プラシーボ効果」(「治療してもらった」ということだけによる効果)をあとで差し引くことができるようにするために、特定の患者がどちらのグループに属しているかを患者自身や医師にすらわからないようにする、という手続きを踏むこともあります。

●日常診療のなかの実験性
 以上のように、実験計画に基づきデータを取ることを目的とする実験が行われること以外にも、今日の医療はさまざまな形の「実験性」を日常的に含んでいます。
 たとえば、一般的に確立された治療法であっても、患者の体はひとりひとり多かれ少なかれ異なっていますので、たいていの患者には何も副作用が出なくても、まれに激しい副作用を起こすことがあります。そもそも上記のような「厳密で科学的な実験」では、治療の平均的な効果が有意に対照群よりも高いということをもって有効と判定されるので、患者一人ひとりを見れば、効果がほとんどなかった人や顕著な副作用のあった人が含まれていたかもしれないのです。すべての人に対して100%確実な治療法や、危険性がまったくない治療法は、実際には存在しません。そうすると、あらゆる治療行為は、多かれ少なかれ実験性を含まざるをえないことになります。
 また、厳密な「科学的」実験によって治療効果が確かめられているわけではなく、治療効果が生じるメカニズムすらわかっていないけれど、経験的に治療効果があるとされて一般に行われている治療法は、実際にはたくさんあります。ある特定の病気に対するものとされている治療法(薬など)を、別の病気に対して用いてみる、ということも、現実の診療においてはしばしば行われているようです。このような治療行為は、つねに実験性を含んでいます。

3. 人体実験を正当化する手続きとしてのインフォームド・コンセント

 日本では「がん告知」や「患者の権利」の文脈で語られることの多い「インフォームド・コンセント」(患者が、治療に関する説明を医師から受け、理解した上で、その治療に同意すること)は、じつは二つの異なる起源を持っています。
 その一つは米国の医療過誤訴訟です。この文脈ではたしかにインフォームド・コンセントは、患者が治療に同意しなければ治療できない、という意味で「患者の権利」を確保する機能を果たします。これは、個々の医師・患者関係の場面におけるインフォームド・コンセントの効用といえます。
 ですが、インフォームド・コンセントの効用はそれに尽きるわけではありません。インフォームド・コンセントのもう一つの起源は、人体実験のガイドラインに求められます。その歴史はしばしば、第二次世界大戦後のニュルンベルク国際軍事裁判の判決から説き起こされます。強制収容所で非人道的な人体実験を行ったナチス・ドイツの医師を裁いた判決の中に、人体実験を行う際の遵守事項が明文化され、これが「ニュルンベルク・コード」と呼ばれる古典的文献になりました。その第一条に「被験者の自発的同意は絶対に欠かせないThe voluntary consent of the human subject is absolutely essential」と述べています。また、1964年に世界医師会が発表した「ヘルシンキ宣言」は、ニュルンベルク・コードと共に、インフォームド・コンセントの歴史を語る際に必ず引用される古典となっています。
 これらのガイドラインに示されたインフォームド・コンセントの原則は、人体実験スキャンダルによって医学に対する一般社会の疑念が高まる中で、医学界が《どうすれば倫理的に容認される仕方で人体実験を行えるか》という難問に対して出した一つの回答といえます。すなわち、被験者の意志に反する人体実験の禁止を宣言することで社会的信用の回復を図りながら、被験者の自由意志を尊重する形で人体実験の継続を確保したのでした。これは、医学界と一般社会という、社会集団どうしの関係におけるインフォームド・コンセントの機能と捉えることもできます。
 つまり、インフォームド・コンセントというのは、患者や被験者の権利を護る言説であると同時に、医学界が失われた社会的信用を回復し人体実験を継続するために打ち出した戦術的アピールであるともいえるのです。この両面を見なければ、インフォームド・コンセントの本質を理解することはできません。インフォームド・コンセントは、たしかに患者や被験者の「人権」を護るために《必要な》条件です。しかし、インフォームド・コンセントさえあれば《十分に》患者や被験者の「人権」が護られるわけではありません。なぜなら、治療においても人体実験においても、患者ないし被験者の同意は、医師や研究者から与えられる情報に基づいてなされざるを得ず、その情報を医師や研究者が都合良く操作しないとも限らないからです。

4. 日本における医療倫理学の課題

 しかしながら、この「人体実験の正当化手続き」としてのインフォームド・コンセントという性格は、日本ではあまり理解されていません。日本の医学界には、インフォームド・コンセントの要求を、日本の伝統的なうるわしき医師・患者関係をぎすぎすした関係に変質させる西洋流の権利主張とみなして、排斥したり骨抜きにしようとする態度が見られます。こうした態度は、患者の権利を尊重するという見識はおろか、《医学界にとってもインフォームド・コンセントは必要で有益なものなのだ》という認識すら欠いていることを、よく表しています。
 それどころか、日本の医学界にとって「人体実験」という言葉はタブーになっているようです。たとえば、新薬開発のための人体実験はもっぱら「臨床試験」とか「治験」と呼ばれ、それが本質的に人体実験にほかならないという事実には気づきにくくなっています。こうした事情は、日本の医学界が、戦前・戦中に七三一部隊などで行った組織的な人体実験を隠蔽してきたことに呼応していると思われます。しかしながら、そのために日本の医学界は、人体実験やインフォームド・コンセントに関する見識を持てないでいるのです。
 医療についての倫理的考察、すなわち「医の倫理」や「生命倫理」の領域においても、事情は似たようなものです。近代医学にとって人体実験が避けて通れない以上、人体実験は医療倫理や「生命倫理」の本質的なテーマの一つです。実際、米国で1970年代に「バイオエシックス」(生命倫理)が学問として制度化される際に、人体実験の倫理に関する議論はきわめて大きな役割を果たしました。現在でも、米国で出版されているバイオエシックスの教科書の多くは、人体実験の問題に一章を割いています。
 しかしながら、日本人が書いた医療倫理や「生命倫理」の本で、人体実験の問題が中心的なテーマであるとの認識を示しているものはほとんどありません。そもそも医学実験の問題に触れてすらいない本が大部分ですし、たまに触れている本があっても、医学全般に関わる問題としてではなく「臨床試験」にまつわる特殊な問題としてのみ扱っていたり、ナチスが行った非人道的人体実験に言及するだけで日本の過去には触れずにすませていたりするものがほとんどです。また、せっかく日本の人体実験について取り上げても、戦争という異常な状況下の問題としてとらえるだけでは、今日の医療倫理や「生命倫理」との関わりは明確になってきません。
 人体実験の問題を正面から取り上げ、しかもそれが日本の医学界に負わされている途方もなく重い十字架なのだという認識のもとに、医学や医療の倫理を考えない限り、日本の医療倫理や「生命倫理」はいつまでたっても口当たりのいい美辞麗句でしかありえません。そして、そうしたうわべだけの「倫理」を唱え続ける「倫理の研究者」は、一人の人間としての良心を疑われざるをえなくなるのです。

”なぜ「人体実験の倫理学」なのか 概説より引用おわり

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