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戸田城聖先生の青年訓の東洋の救世主と死海文書の救世主伝説(外の道の伝説)と仏教の予証”日月の光明の能く諸の幽冥を除くが如く斯の人世間に行じて能く衆生の闇を滅す”

紀元前数百年ころの仏陀の広法華経のお説教”日月の光明の能く諸の幽冥を除くが如く斯の人世間に行じて能く衆生の闇を滅す”は
中近東方面にも伝えられたであろう。枢軸時代のキリスト時代以後ころの中近東のクムラン教団エッセネ派(祭祀職レビ族)も仏陀の広法華経のお説教も世間の知識として取り入れられたかもしれない。
世間の救世主(のような働きをする善性の人々)と
出世間の極善・一切衆生同時に抜苦与楽の道を開き御教示された救世主
三世常恒の御利益久遠元始の主師親三徳御本仏日蓮大聖人
仏力法力の分身散体本地の御本仏日蓮大聖人即分身散体の法宝御本仏法華経

〜而りといえども過去未来をしらざれば父母主君師匠の後世をもたすけず不知恩の者なりまことの賢聖にあらず、孔子が此の土に賢聖なし西方に仏図という者あり此聖人なりといゐて外典を仏法の初門となせしこれなり、礼楽等を教て内典わたらば戒定慧をしりやすからせんがため王臣を教て尊卑をさだめ父母を教て孝の高きをしらしめ師匠を教て帰依をしらしむ、妙楽大師云く「仏教の流化実に茲に頼る礼楽前きに馳せて真道後に啓らく」等云云、天台云く「金光明経に云く一切世間所有の善論皆此の経に因る、若し深く世法を識れば即ち是れ仏法なり」等云云、止観に云く「我れ三聖を遣わして彼の真丹を化す」等云云、弘決に云く「清浄法行経に云く月光菩薩彼に顔回と称し光浄菩薩彼に仲尼と称し迦葉菩薩彼に老子と称す天竺より此の震旦を指して彼と為す」等云云

”二には月氏の外道三目八臂の摩醯首羅天毘紐天此の二天をば一切衆生の慈父悲母又天尊主君と号す〜
其の見の深きこと巧みなるさま儒家にはにるべくもなし、
或は過去二生三生乃至七生八万劫を照見し又兼て未来八万劫をしる
其の所説の法門の極理或は〜等云云、
此れ外道の極理なり所謂善き外道は五戒十善戒等を持つて有漏の禅定を修し上色無色をきわめ〜
〜しかれども外道の法九十五種善悪につけて一人も生死をはなれず善師につかへては二生三生等に悪道に堕ち悪師につかへては順次生に悪道に堕つ、
外道の所詮は内道に入る即最要なり或外道云く「千年已後仏出世す」等云云、或外道云く「百年已後仏出世す」等云云、大涅槃経に云く「一切世間の外道の経書は皆是れ仏説にして外道の説に非ず」等云云、法華経に云く「衆に三毒有りと示し又邪見の相を現ず我が弟子是くの如く方便して衆生を度す」等云云。”

”2000年以前のクムラン教団エッセネ派旧約聖書の写本の(祭祀職レビ族)に
救世主伝説がしるされている中に、ユダヤ教キリスト教イスラム教の救世主と東方の太陽とともに現れる救世主等〜”

釈迦仏滅後正法時代1000年像法時代1000年過ぎ、
末法時代10000年の始めの500年(後の五百年)の内
釈迦の白法隠滅(教のみ有って行証無し)の次の時
承久四年二月十六日
建長五年四月二十八日午の刻
より
”妙法の下種最後直授摩頂付属面授口決
法華経のお題目十回の御金言によるお申し付け”を
今本時の娑婆世界の本化国主
生身妙覚上根上機の大聖
法華経守護の虚空蔵菩薩(法華経守護の三世の菩薩の慈天)
にされた時より
妙法流布の時。
島国列島(地球天体より行政府の守備範囲が小さい・小)日本国は
妙法流布の根本の妙国。
釈迦仏教の広法華経では、末法時代のはじめの500年内に
釈尊の所倶の別して上行菩薩(お説教に登場の人物)の後身が化導することが予証されていた。
大集経の文を以て之を案ずるに
前四箇度の五百年は仏の記文の如く既に符合せしめ了んぬ、
第五の五百歳の一事豈唐捐ならん、
随つて当世の体為る大日本国と大蒙古国と闘諍合戦す
第五の五百に相当れるか、彼の大集経の文を以て此の法華経の文を惟うに
後五百歳中広宣流布於閻浮提の鳳詔豈扶桑国に非ずや、
弥勒菩薩の瑜伽論に云く「東方に小国有り其の中に唯大乗の種姓のみ有り」云云、慈氏菩薩仏の滅後九百年に相当つて無著菩薩の請に赴いて中印度に来下して瑜伽論を演説す、是れ或は権機に随い或は付属に順い或は時に依つて権経を弘通す、然りと雖も法華経の涌出品の時地涌の菩薩を見て近成を疑うの間仏請に赴いて寿量品を演説し分別功徳品に至つて地涌の菩薩を勧奨して云く「悪世末法の時能く是の経を持たん者」と、
弥勒菩薩自身の付属に非ざれば之を弘めずと雖も親り霊山会上に於て悪世末法時の金言を聴聞せし故に瑜伽論を説くの時
末法に日本国に於て地涌の菩薩法華経の肝心を流布せしむ可きの由
兼ねて之を示すなり、
肇公の翻経の記に云く
「大師須梨耶蘇摩左の手に法華経を持し右の手に
鳩摩羅什の頂を摩で授与して云く
仏日西に入つて遺耀将に東に及ばんとす
此の経典東北に縁有り汝慎んで伝弘せよ」云〜(中略)
此の経典東北に縁有り」云云
西天の月支国は未申の方東方の日本国は丑寅の方なり、
天竺に於て東北に縁有りとは豈日本国に非ずや、
遵式の筆に云く「始め西より伝う猶月の生ずるが如し
今復東より返る猶日の昇るが如し」云云、
正像二千年には西より東に流る暮月の西空より始まるが如し
末法五百年には東より西に入る朝日の東天より出ずるに似たり
根本大師の記に云く
「代を語れば則ち像の終り末の初地を尋ぬれば唐の東
羯の西人を原ぬれば則ち五濁の生闘諍の時なり、経に云く猶多怨嫉況滅度後と此の言良に以有るが故に」云云、又云く
「正像稍過ぎ已つて末法太だ近きに有り法華一乗の機今正しく是れ其の時なり何を以て知る事を得ん安楽行品に云く末世法滅の時なり」云云此の釈は語美しく心隠れたり、読まん人之を解し難きか、
伝教大師の語は我が時に似て心は末法を楽いたもうなり、
大師出現の時は仏の滅後一千八百余年なり、大集経の文を以て之を勘うるに大師存生の時は第四の多造塔寺堅固の時に相当る全く第五闘諍堅固の時に非ず、而るに余処の釈に
末法太有近の言は有り
定めて知んぬ闘諍堅固の筆は我が時を指すに非ざるなり。 
予倩事の情を案ずるに大師薬王菩薩として霊山会上に侍して
仏上行菩薩出現の時を兼ねて之を記したもう故に
粗之を喩すか”

”彼の大集経の白法隠没の時は第五の五百歳当世なる事は疑ひなし、但し彼の白法隠没の次には法華経の肝心たる南無妙法蓮華経の大白法の一閻浮提の内八万の国あり其の国国に八万の王あり王王ごとに臣下並びに万民までも今日本国に弥陀称名を四衆の口口に唱うるがごとく広宣流布せさせ給うべきなり。
問うて云く其の証文如何、答えて云く法華経の第七に云く「我が滅度の後後の五百歳の中に広宣流布して閻浮提に於て断絶せしむること無けん」等云云、経文は大集経の白法隠没の次の時をとかせ給うに広宣流布と云云

”それは,悪が義の前から退くときに起こるであろう。としるされ〜
悪は永遠に終わるであろう
そして義が世界の基準として太陽とともに現れ出るであろう”(死海文書)
外書の(文の解釈)を削り文をかりる
御本仏日蓮大聖人の御金言に
”閻浮提第一の秘事為りと雖も万年救護の為に之を記し留る者なり
我が未来に於て予が仏法を破らん為に一切衆生の元品の大石第六天の魔王師子身中の蝗蟲と成つて名を日蓮に仮りて本迹一致と云う邪義を申し出して
多の衆生を当に悪道に引くべし、
若し道心有らん者は
彼等の邪師を捨てて宜く予が正義に随うべし、
正義とは本迹勝劣の深秘具騰本種の実理なり
日蓮一期の大事なれば弟子等にも朝な夕なに教え
亦一期の所造等悉く此の義なり”
日蓮となのる事自解仏乗とも云いつべし、かやうに申せば利口げに聞えたれども道理のさすところさもやあらん、
経に云く「日月の光明の能く諸の幽冥を除くが如く斯の人世間に行じて能く衆生の闇を滅す」と此の文の心よくよく案じさせ給へ、
斯人行世間の五の文字は
上行菩薩末法の始の五百年に出現して
南無妙法蓮華経の五字の光明をさしいだして
無明煩悩の闇をてらすべしと云う事なり、
日蓮は此の上行菩薩の御使として
(御謙遜の意味と御本仏であり本眷属の主師親である事も含めた表現)
日本国の一切衆生に法華経をうけたもてと勧めしは是なり”


日本に聖誕の救世主(三世常恒の御利益主師親三徳大慈大悲)御本仏日蓮大聖人の教え信仰し最高唯一の宗教の力によって、人間革命を行い人世の苦を救って各個人の幸福境涯を建設し、ひいては、楽土日本(注釈:常寂光の世界地球社会・常寂光の地球天体及び常寂光の今此三界仏国(三界は皆仏国なり)独一法界広大無辺な法華経の会座・十方は悉く(妙法演説する)宝土なり)を現出せしめん事を願う者である”

青年訓(戸田城聖創価学会会長昭和26年11月1日 巻頭言より
引用はじめ
”新しき世紀を創るものは、青年の熱と力である。

 吾人らは、政治を論じ、教育を勘うる者ではないが、世界の大哲・東洋の救世主日本出世の末法御本仏たる日蓮大聖人の教えを奉じ、最高唯一の宗教の力によって、人間革命を行い人世の苦を救って各個人の幸福境涯を建設し、ひいては、楽土日本を現出せしめん事を願う者である。

 この事業は、過去においては釈迦の教団が実行し、近くは日蓮大聖人の教団が、勇ましく戦ったのである。 釈迦教団の中心人物たる舎利弗にせよ、阿難にせよ、皆若き学徒であった。 日蓮大聖人の門下も、また、皆若き学徒によって、固められていたのである。 日興上人は、大聖人より24歳も若く、日朗もまた、21歳の年の開きを持っていた。 西より東に向かった仏教も、青年によって伝承せられ、東より西に向かう大聖人の仏法も、青年によって基礎づけられたのである。

 吾人らは、この偉大なる青年学徒の教団を尊仰し、同じく最高唯一の宗教に従って、人間苦の解決・真の幸福生活確立・日本民族の真の平和・苦に没在せる東洋の浄土化を、弘宣せんとする者である。

 諸兄らは、この偉大なる過去の青年学徒群と、同じ目的、同じ道程にある事を自覚し、これに劣らぬ覚悟がなくてはならぬ。 霊鷲山会に、共々座を同じうした時、『末法の青年は、だらしがないな』と、舎利弗尊者や大聖人門下の上人方に笑われては、地涌の菩薩の肩書きが泣く事を知らなくてはならない。

 奮起せよ! 青年諸氏よ。

 闘おうではないか! 青年諸氏よ。

 しからば、誰人と、如何なる戦を、吾人らは、為すものであろうか。

 第一は、無智の者に永遠の生命を教え、(注釈:御本仏日蓮大聖人所有の本眷属((一大妙法受持勤行仏道修行広宣流布者の集い:一大和合僧団:弟子旦那等俗弟子等))日蓮正宗創価学会の崇め奉る、仏力法力の分身散体の御本仏)仏力法力の南無妙法蓮華経の本尊の絶対無二なる尊貴を知らしめて、功徳の大海に思うがままに遊戯する、自在の境涯を会得せしむる為に、忍辱の鎧を着、慈悲の利剣を引っさげて戦うのである。

 第二は、邪智邪宗の者に、立正安国論の根本義たる、邪宗邪義は一切この世の中の不幸の原因であり、それが為に、諸天善神は国を捨て去り、聖人は所を去って、世は皆乱るるなりと教え、邪智邪宗を飜えす様、智慧の鎧を身に纏い、彼らが執着の片意地を、精進勇気の利剣を持って、断ち切るの戦いである。

 第三に、衆生を愛さなくてはならぬ戦いである。 しかるに青年は、親をも愛さぬ様な者も多いのに、どうして他人を愛せようか。 その無慈悲の自分を乗り越えて、仏の慈悲(大抜苦大与楽)の境地(一切衆生の異の苦と同一苦の抜苦の大抜苦と万行万善万戒の功徳を納功徳聚法華の当体妙法の当体蓮華証得の大きな楽しみ譲り与えの大与楽のために唱題する境地)を会得する、
人間革命の戦いである。

 思考して、吾人は更に、諸兄らの行動について、望む処を持つ者である。

 第一に、絶対的確信に満ちたる信仰の境地に立脚し、信行において微動だにする事なく唯一無二の御本尊を、主・師・親と仰ぎ、日蓮大聖人と共に居ますの有難さに溢れ、地涌の菩薩の後身を確信する事である。

 第二には、行学に励み御書を心肝に染め大聖人の仏法に通達して迷いなく、今は如何なる時かを凝視して、大聖人のみ心を心とし日興上人ご遺誡我が命として、努むべきである。

 第三に、その行動の態度たるや、真摯にして暴言を用いず、理を尽くして指導の任に当たり、威厳と寛容の姿の中に、邪義、邪宗、邪師に対しては、一歩も退かぬ勇気あるべき事である。

 第四には、部隊長及び班長の命を奉じて、学会精神を会得して、同志の士気を鼓舞し、広宣流布大願の中心人物たる事を、自覚せられたき事である。

 しかも、広宣流布の時は近く、創価学会の御本尊流布の機は、今まさにこの時である。 故に、三類の強敵は、当に現れんとし、三障四魔は勢いを増し、外には邪宗邪義に憎まれ、内には誹謗の声漸く高し、驚く事勿れ、この世相を。 こは、これ、聖師の金言なり。

 されば諸君よ、心を一にして難を乗り越え、同信退転の徒の屍を踏み越えて、末法濁世の法戦に、若き花の若武者として、大聖人の御覚えに愛でたからんと願うべきである。 愚人に褒むらるるは、智者の恥辱なり。 大聖に褒むらるるは、一生の名誉なり。 心して御本尊の馬前(比喩蓮華・御本仏の御宝前)に屍を晒さん事を。(昭和26年11月1日)”引用おわり

世間の救世主のような働きをする善性の人々と
出世間の極善・一切衆生同時に抜苦与楽の道を開き御教示された救世主
三世常恒の御利益久遠元始の主師親三徳御本仏日蓮大聖人
仏力法力の分身散体本地の御本仏日蓮大聖人即分身散体の法宝御本仏法華経

今梵天帝釈日月四天天照太神八幡大菩薩日本国の三千一百三十二社の大小のじんぎ
過去の輪陀王のごとし
白馬
日蓮なり
白鳥我らが一門なり
白馬のなく我等が南無妙法蓮華経のこえなり、
此の声をきかせ給う梵天帝釈日月四天等いかでか色をましひかりをさかんになし給はざるべき、いかでか我等を守護し給はざるべきとつよづよとをぼしめすべし。”

”事の一念三千一心三観の本迹 
釈迦三世の諸仏声聞縁覚人天の唱る方は迹なり、
南無妙法蓮華経は本なり。”
”本門五大尊の本迹 
久遠本果の自受用報身如来は本なり、
上行等の四菩薩は迹なり。”
”本化本尊の本迹 
七字は本なり余の十界は迹なり、
諸経諸宗中王の本尊万物下種の種子無上の大曼荼羅なり。”
”下種守護神の本迹 
守護し奉る所の題目は本護る所の神明は迹なり、
諸仏求世者現無量神力云云。”
”下種山王神の本迹 
久遠に受くる所の妙法は本
中間今日未来までも守り来る所の山王明神は即迹なり”
”世間の罪に依つて悪道に堕ん者は爪上の土
(一般凡夫凡人でも世間の善悪は判断できる、犯罪者は少ない)
仏法に依つて悪道に堕ちん者は十方の土の如し、
(長年の教学上の誤り(奉安形式による分身散体法宝一体を僧宝日興上人に思い落し悪業)に教学部長職等も〜騙され)
故は信心の根本は本勝迹劣余の信心は枝葉なり。”

”下種最後直授摩頂の本迹 
久遠一念元初の妙法を受け頂く事は最極無上の潅頂なり法は本人は迹なり”

”産湯相承事

産湯相承事         日興之を記す

 御名乗りの事、始めは是生実名は蓮長と申し奉る後には日蓮と御名乗り有る御事は悲母梅菊女[童女の御名なり平の畠山殿の一類にて御座す云云]法号妙蓮禅尼の御物語り御座す事には、我に不思議の御夢想あり、清澄寺に通夜申したりし時汝が志真に神妙なり一閻浮提第一の宝を与えんと思うなり、東条片海に三国の太夫と云う者あり是を夫と定めよと云云、其の歳の春三月廿四日の夜なり正に今も覚え侍るなり。

 我父母に後れ奉りて已後詮方なく遊女の如くなりし時御身の父に嫁げり、或夜の霊夢に日く叡山の頂に腰をかけて近江の湖水を以て手を洗うて富士の山より日輪の出でたもうを懐き奉ると思うて打ち驚いて後月水留ると夢物語りを申し侍れば、父の太夫我も不思議なる御夢想を蒙むるなり、虚空蔵菩薩貌吉き児を御肩に立て給う、此の少人は我が為には上行菩提薩たなり日の下の人の為には生財摩訶薩たなり、亦一切有情の為には行く末三世常恒の大導師なり、是を汝に与えんとのたもうと見て後御事懐妊の由を聞くと語り相いたりき、さてこそ御事は聖人なれ。

 又産生まるべき夜の夢に富士山の頂に登つて十方を見るに明なる事掌の内を見るが如し三世明白なり、梵天帝釈四大天王等の諸天悉く来下して本地自受用報身如来の垂迹上行菩薩の御身を凡夫地に謙下し給う御誕生は唯今なり、無熱池の主阿那婆達多竜王八功徳水を応に汲み来るべきなり、当に産湯に浴し奉るべしと諸天に告げ給えり、仍て竜神王即時に青蓮華を一本荷い来れり、其の蓮より清水を出して御身を浴し進らせ侍りけり、其の余れる水をば四天下に灑ぐに其の潤いを受くる人畜草木国土世間悉く金色の光明を放ち四方の草木花発らき菓成る。

 男女座を並べて有れども煩悩無く淤泥の中より出れども塵泥に染まず、譬えば蓮華の泥より出でて泥に染まざるが如し、人天竜畜共に白き蓮を各手に捧げて日に向つて今此三界皆是我有其中衆生悉是吾子唯我一人能為救護と唱え奉ると見て驚けば則聖人出生し給えり、毎自作是念以何令衆生得入無上道速成就仏身と苦我なき給う。

 我少し寐みし様なりし時梵帝等の諸天一同音に唱えて言く善哉善哉善日童子末法教主釈迦仏と三度唱えて作礼して去し給うと寤に見聞きしなりと慥に語り給いしを聞し食しさては某は日蓮なりとの給いしなり。

 聖人重ねて日う様は日蓮が弟子檀那等悲母の物語りと思うべからず即ち金言なり其の故は予が修行は兼ねて母の霊夢にありけり日蓮は富士山自然の名号なり、富士は郡名なり実名をば大日蓮華山と云うなり、我中道を修行する故に是くの如く国をば日本と云い神をば日神と申し仏の童名をば日種太子と申し予が童名をば善日仮名は是生実名は即ち日蓮なり。

 久遠下種の南無妙法蓮華経の守護神は我国に天下り始めし国は出雲なり、出雲に日の御崎と云う所あり、天照太神始めて天下り給う故に日の御崎と申すなり。

 我が釈尊法華経を説き顕し給いしより已来十羅刹女と号す、十羅刹と天照太神と釈尊と日蓮とは一体の異名本地垂迹の利益広大なり、日神と月神とを合して文字を訓ずれば十なり、十羅刹と申すは諸神を一体に束ね合せたる深義なり、日蓮の日は即日神昼なり蓮は即月神夜なり、月は水を縁とす蓮は水より生ずる故なり、又是生とは日の下の人を生むと書けり。

 日蓮は天上天下の一切衆生の主君なり父母なり師匠なり、
今久遠下種の寿量品に云く(御本仏日蓮大聖人の御金言=寿量品)
「今此三界皆是我有[主君の義なり]
其中衆生悉是吾子[父母の義なり]
而今此処多諸患難[国土草木]
唯我一人能為救護[師匠の義なり]」と云えり、
三世常恒に日蓮は今此三界の主なり、
日蓮は大恩以希有事憐愍教化利益我等無量億劫誰能報者なるべし。
(中略)
 聖人の言く此の相承は日蓮嫡嫡一人の口決唯授一人の秘伝なり神妙神妙とのたまいて留め畢んぬ。”

”聖人知三世事  建治元年 五十四歳御作       与富木常忍

 聖人と申すは委細に三世を知るを聖人と云う、儒家の三皇五帝並びに三聖は但現在を知つて過未を知らず外道は過去八万未来八万を知る一分の聖人なり、小乗の二乗は過去未来の因果を知る外道に勝れたる聖人なり、小乗の菩薩は過去三僧祇菩薩、通教の菩薩は過去に動踰塵劫を経歴せり、別教の菩薩は一一の位の中に多倶低劫の過去を知る、法華経の迹門は過去の三千塵点劫を演説す一代超過是なり、本門は五百塵点劫過去遠遠劫をも之を演説し又未来無数劫の事をも宣伝し、之に依つて之を案ずるに委く過未を知るは聖人の本なり、教主釈尊既に近くは去つて後三月の涅槃之を知り遠くは後五百歳広宣流布疑い無き者か、若し爾れば近きを以て遠きを推し現を以て当を知る如是相乃至本末究竟等是なり。
〜後五百歳には誰人を以て法華経の行者と之を知る〜
〜我が弟子等之を存知せよ日蓮は是れ法華経の行者なり
不軽の跡を紹継するの故に軽毀する人は頭七分に破
信ずる者は福を安明に積まん〜”

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