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御本尊は「更賜寿命」の大法 山形県記念勤行会昭和58年4月19日山形池田講堂

南無妙法蓮華経の力、南無妙法蓮華経の実感はいかなるものかを体験しようと思い、数百万遍の唱題をした。そこからいっさいの確信をもつことができたといってよい。”

広布と人生を語る第4巻(p271〜275)より引用はじめ”

私は十九歳で入信し、創価学会とともに三十数年間、さまざまな坂を乗り越えてきた。入信してまず私は、御本尊は(仏力法力の)南無妙法蓮華経の当体であられる、また、(御本仏)日蓮大聖人も(仏力法力の)南無妙法蓮華経の当体であられる、ゆえに、まず南無妙法蓮華経を唱えることがもっとも大事であることを知った。そこで私は、南無妙法蓮華経の力、南無妙法蓮華経の実感はいかなるものかを体験しようと思い、数百万遍の唱題をした。そこからいっさいの確信をもつことができたといってよい。

人間、生きていくかぎり苦悩はある。信心していても、それは同じである。しかし、その一つひとつを見事に乗り越えていくかどうかが、人生の勝負である。それを乗り越えていくためには、新たなる発心の五座三座の勤行、ならびに目標を決めての唱題が大事である(唱え)。とともに、仏道修行としての学会活動(唱うる者を護持)を一つひとつどのように実証を示しながら、実践しぬいていくかということが大切である。ここに人生の難関を見事に乗り越えていく力の源泉があることを忘れてはならない。この繰り返しが、長き人生勝利への信心の前進といえる。(法華経題目抄:方便品寿量品等を受持し乃至護持するは略なり、但一四句偈乃至題目計りを唱えとなうる者を護持するは要なり、広略要の中には題目は要の内なり。)

若死にするであろうと医師からもいわれた私が、このように健康で広宣流布に御奉公できるのは、妙法の力であり、御本尊の賜(たまもの)であると信じている。寿量品に「更賜寿命」と説かれている。「さらに寿命を賜(たま)う」ことができるとは、いかに偉大な妙法であるかと実感する昨今である。

医学的にどうしようもない人であっても、再び信心に励んだ人は、更賜寿命できることはまちがいない。そして、一日たりとも寿命をのばし、(お)題目を唱えて生命の財宝(一切衆生の仏性を呼び顕す功徳無量無辺の功徳善根)を積んでいくことが、大切になってくるのである。死しては、有形の財宝は何も持っていけない。永遠の財宝として持っていけるのは、唱題による功徳(善根)以外にないといってよい。

私は長年、信心し、指導の責任的立場にあったがゆえに、多くの人の死の姿を知っている。また、多くの病魔と闘ってこられた方々の姿も知っている。

そこでよく耳にすることは、元気なときにもっと真剣に唱題をしておけばよかった、さらにもっと謗法を破折しておけばよかった、もっと弘教に励めばよかった、ということである。いかに優秀な飛行機であっても最後に着陸に失敗すれば破壊である。人生も最期が大切であり、そのときに悔いを残さぬ人生でありたいものである。

社会的地位は、しょせんは人間のつくった制度である。それなりの努力によって、それなりの地位に達することはできるであろう。しかし「更賜寿命」し、生涯永遠にわたる生命の地位を得ることは、妙法の深き信仰による以外にない。これこそ峻厳な法のうえにのっとった位であり、これが信仰者の最高の誉れであると確信されたい。私は、このことを確信して誉れ高く今日まできたつもりである。皆さまもまた、そうであっていただきたい。

また、寿量品には”方便現涅槃”と説かれている。夜休んでまた朝起きるがごとく、永遠の生命(各自の色心・命全体の十如是・円融三諦の本地・久遠長寿の信力行力南無妙法蓮華経如来の”自身、法性の大地(南無妙法蓮華経)を生死生死と転ぐり行くなり”)からみた場合、また仏眼でみたときには、いわゆる”死”は方便であるというのである。ゆえに、死に対して悲しみの心情は当然であるが、しかし仏眼でみるならば、新しき生命への祝いの門出となってくるわけである。”(善の連鎖の生死か、悪道苦悩の連鎖の生死を宿命転換(而自廻転にじえてん=法性自然にして転じ因果依正自他悉く転ずるを表す・一念三千の依正体一の成仏)して煩悩業苦を正了縁の三仏性の善因によって法報応の三身に転ずる・仏性法性・妙法・南無妙法蓮華経に境智冥合する努力の積み重ねの日々瞬間瞬間か、それとも怒り愚痴貪欲に支配されしたがってる24時間・1440分の連続かにより、千差万別の違いが出るので、発心修行・南無妙法蓮華経のお題目を御本仏法華経御本尊(仏力法力の根本尊崇)に唱え妙音を御供養申し上げる必要がある(引用者添加))”

さらに、生命の死後の状態は、われわれ凡夫にはわからないが、御書を拝し信ずるならば、楽しき夢に遊ぶがごとく、自在無碍の自我になり、喜びの連続となっていけるのである。ただし、ここで大切なことは、広布のために(法華経のお題目の功徳善根積み重ね順縁広布・人々の抜苦与楽のために)労を重ね苦難の山をのりこえてきた信心の功大なる人々の死後の生命状態と、信心弱く浅き人(自己欲望満足目的だけで足踏み状態で行力信力弱い人や誹謗中傷十四誹謗に身を任せたままの人)の死後の生命状態とは、おのずから違いがあるということである。そこに、どこまで人間界に生まれてこられるかという因果が、決まってしまうのかもしれない。大聖人もかずかずの御書で”信弱くして日蓮を恨みさせ給うな”と仰せの如くである。

最後に、大山形の建設のために、ともに励ましあい、来年の第二回総会をめざして、潔い前進をお願いしたい。”引用おわり

方便現涅槃については、生命論の義・趣意と、教法の高低浅深の義趣意とある。

”御義口伝巻下 日蓮所立自寿量品至開結二経

 寿量品廿七箇の大事

第十二為度衆生故方便現涅槃の事

 御義口伝に云く涅槃経は法華経より出でたりと云う経文なり、

既に方便と説かれたり云云。”

謗法とは 謗仏謗僧なり三宝一体なる故なり是れ涅槃経の文なり:真言諸宗違目

仏力法力のと仏宝人本尊と法宝法本尊一体の御本仏法華経御本尊

仏力法力の南無妙法蓮華経如来勝れ

信力行力の南無妙法蓮華経如来・僧宝・本門弘通の大導師・万年救護の弟子(二祖九世五十九世六十九世等)白蓮阿闍梨日興上人(内証信力行力の当体蓮華仏・化義は聖僧たるべしの人間御僧侶)は、御本仏より劣る。師弟相対本迹勝劣信心の根本は本勝迹劣余の信心は枝葉なり。

”事の一念三千一心三観の本迹 

(信力行力の南無妙法蓮華経如来所倶の)釈迦三世の諸仏声聞縁覚人天の唱る方は迹なり、(仏力法力の)南無妙法蓮華経は本なり。”

”(仏力法力の分身散体の御本仏)日蓮は日本第一の法華経の行者なる事あえて疑ひなし、これをもつてすいせよ漢土月支にも一閻浮提の内にも肩をならぶる者は有るべからず”(肩をならぶる弟子旦那はいない)日興上人は肩をならべない。

”賢人と申すはよき師より伝へたる人 聖人と申すは師無くして我と覚れる人なり

”仏滅後月氏漢土日本国に二人の聖人あり所謂天台伝教の二人なり、此の二人をば聖人とも云うべし又賢人とも云うべし、天台大師は南岳に伝えたり是は賢人なり、道場にして自解仏乗し給いぬ又聖人なり

”外典に云く「生れながらにして之を知る者は上なり[上とは聖人の名なり]学んで之を知る者は次なり[次とは賢人の名なり]」内典に云く「我が行師の保無し」等云云、夫れ(六種の教主釈尊がある)教主釈尊は娑婆世界第一の聖人なり”

”産湯相承事  日興之を記す 御名乗りの事、始めは是生実名は蓮長と申し奉る後には日蓮と御名乗り有る御事は〜毎自作是念以何令衆生得入無上道速成就仏身と苦我なき給う。 我少し寐みし様なりし時梵帝等の諸天一同音に唱えて言く善哉善哉善日童子末法教主釈迦仏と三度唱えて作礼して去し給うと寤に見聞きしなりと慥に語り給いしを聞し食しさては某は日蓮なりとの給いしなり。 聖人重ねて日う様は日蓮が弟子檀那等悲母の物語りと思うべからず即ち金言なり其の故は予が修行は兼ねて母の霊夢にありけり日蓮は富士山自然の名号なり、富士は郡名なり実名をば大日蓮華山と云うなり、我中道を修行する故に是くの如く国をば日本と云い神をば日神と申し仏の童名をば日種太子と申し予が童名をば善日仮名は是生実名は即ち日蓮なり。

 久遠下種の南無妙法蓮華経の守護神は我国に天下り始めし国は出雲なり、出雲に日の御崎と云う所あり、天照太神始めて天下り給う故に日の御崎と申すなり。 我が釈尊法華経を説き顕し給いしより已来十羅刹女と号す、十羅刹と天照太神と釈尊と日蓮とは一体の異名本地垂迹の利益広大なり〜

日蓮となのる事自解仏乗とも云いつべし、かやうに申せば利口げに聞えたれども道理のさすところさもやあらん、経に云く「日月の光明の能く諸の幽冥を除くが如く斯の人世間に行じて能く衆生の闇を滅す」”

”棟梁(学者の指導者)の心中に付け入つて次第に国主国中に遷り入つて賢人を失う、是くの如き大悪は梵釈も猶防ぎ難きか何に況んや日本守護の小神をや但地涌千界の大菩薩釈迦多宝諸仏の御加護に非ざれば叶い難きか、日月は四天の明鏡なり、諸天定めて日蓮を知りたまうか日月は十方世界の明鏡なり(三世)諸仏(如来・信力行力の南無妙法蓮華経如来)も定めて日蓮(仏力法力の南無妙法蓮華経如来)を知りたまうか、一分も之を疑う可からず

”諸経諸宗中王の本尊 万物下種の種子無上の〜”

一切種智とは南無妙法蓮華経なり 

一切は万物なり 

種智万物の種なり  妙法蓮華経是なり”

”立つ浪 吹く風 万物に就いて 本迹を分け 勝劣を弁ず可きなり”

”法華経の(妙の)一字は 大地の如し 万物出生す

”意は至理は名無し 聖人理を観じて 万物に名を付くる時 因果倶時不思議の一法(因行果徳倶時不思議の一法)之れ有り之を名けて妙法蓮華と為す 此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して闕減無し 之を修行する者は仏因仏果同時に之を得るなり、聖人此の法を師と為して修行覚道し給えば 妙因妙果倶時に感得し給うが故に妙覚果満の如来と成り給いしなり

”又総説の五重玄に二種有り

一には仏意の五重玄二には機情の五重玄なり。
 仏意の五重玄とは 

諸仏の内証に五眼の体を具する即ち妙法蓮華経の五字なり、

仏眼は妙 法眼は法 慧眼は蓮 天眼は華 肉眼は経なり、

妙は不思議に名く故に真空冥寂は仏眼なり、

法は分別に名く法眼は仮なり分別の形なり、

慧眼は空なり果の体は蓮なり、

華は用なる故に天眼と名く神通化用なり、

経は破迷の義に在り迷を以て所対と為す故に肉眼と名く、

仏智の内証に五眼を具する即ち五字なり五字又五重玄なり故に仏智の五重玄と名く、亦五眼即五智なり、法界体性智仏眼 大円鏡智は法眼 平等性智は慧眼妙観察智は天眼 成所作智は肉眼なり、 問う一家には五智を立つるや、答う既に九識を立つ故に五智を立つべし、前の五識は成所作智 第六識は妙観察智 第七識は平等性智 第八識は大円鏡智 第九識法界体性智なり。
 次に機情の五重玄とは機の為に説く所の妙法蓮華経は即ち是れ機情の五重玄なり〜”

”此の道に入ぬる人にも上中下の三根はあれども同じく一生の内に顕はすなり、上根の人は聞く所にて覚を極めて顕はす中根の人は若は一日若は一月若は一年に顕はすなり下根の人はのびゆく所なくてつまりぬれば一生の内に限りたる事なれば臨終の時に至りて諸のみえつる夢も覚てうつつになりぬるが如く只今までみつる所の生死妄想の邪思ひがめの理はあと形もなくなりて本覚のうつつの覚にかへりて法界をみれば皆寂光の極楽にて日来賎と思ひし我が此の身が三身即一の本覚の如来にてあるべきなり、秋のいねには早と中と晩との三のいね有れども一年が内に収むるが如く、此れも上中下の差別ある人なれども同じく一生の内に諸仏如来と一体不二に思い合せてあるべき事なり。
 妙法蓮華経の体のいみじくおはしますは何様なる体にておはしますぞと尋ね出してみれば我が心性の八葉の白蓮華にてありける事なり、されば我が身の体性を妙法蓮華経とは申しける事なれば経の名にてはあらずしてはや我が身の体にてありけると知りぬれば我が身頓て法華経にて法華経は我が身の体をよび顕し給いける仏の御言にてこそありければ やがて我が身三身即一の本覚の如来にてあるものなり、かく覚ぬれば無始より已来今まで思いならわししひが思いの妄想は昨日の夢を思いやるが如くあとかたもなく成りぬる事なり、是を信じて一遍も南無妙法蓮華経と申せば法華経を覚て如法に一部をよみ奉るにてあるなり、十遍は十部百遍は百部千遍は千部を如法によみ奉るにてあるべきなり、かく信ずるを如説修行の人とは申すなり、南無妙法蓮華経。”

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