#5 退職に際して2

2:どんな事があったか
物事には必ず理由が有り、それは単一で語ることは出来ず様々なものが絡まって居る。
口頭であればある程度シンプルに纏めて伝えるがせっかく文字ベースで記録するのだから時系列順に一つ一つ書いて行こうと思う。

2-1:研修時代
駆け込み中途採用で入社した僕は当然であるが同期と言える相手は居ない。なので一人で研修を受けていた。教育は総務課長の役割なのだが勿論他の業務もある為一人の為に付きっきりという訳にも行かず自習がものすごく多かった。
もともと読書や知識を増やしたりが嫌いでは無かった僕にとっては金を貰って知識を増やせる天国の様な時間だった。
そして僕にしては珍しく「稼ぐ」という意欲が高まっていた。
この期間は本当それくらいだ。

2-2:配属
無事外務員の試験も合格し、現場の配属先も決まった。
ウチの営業は「店」という組織単位で業務を行なっており「大阪本社」にはこの「店」が3つあった。その中で僕は一番若い組織である3店に配属が決まった。
そこには合同説明会で僕に声を掛けた男も所属していて正式配属前に「よりによって一番キツイとこになったな、済まんな」と謝られた事を憶えて居る。意味は後でわかった。

配属決定後に行われた歓迎会で係長と共に泥酔し記憶喪失、上長に「やったりますよ!」と啖呵を切りまくった挙句タクシー帰宅。
次の朝目を覚ますと自宅のトイレで蛇口のところを外し抱えたまま爆睡していた。「「クビになったらどうするの!」と家で滅茶苦茶怒られた。

2-3:営業開始
「辞令が下りる前から飲み会でやらかす」という鮮烈なデビューを飾る事になったが皆慣れて居るのかそこは案外問題にならず。
電話での話し方や内容と言った事からOJTで学んでいく生活がはじまった。

2-4:初めての新規
電話嫌いながらアポもたまにではあるが取れるようにはなった。しかし経験不足もあり商談については上司に同行してもらい丸投げの生活が1月ほど続いた。
同い年の先に入社した連中は殆ど上司任せとはいえチラホラと数字が上がって居る。
そんな中人一倍努力している自覚はあったが行く商談行く商談尽く決まらず焦っていた。

そこで僕は方向性を変えようとした。経営者なら学生時代バイトしていた頃に何人も知りあってるじゃないか、と。
その頃僕は「この投資は本当に儲かる」と信じていたから勧め回る内、知り合いの経営者を顧客にする事で初めての新規は決まった。
後にこの人に損失が発生し人間関係がギクシャクした事も辞める一因となった。

誤解のない様に言っておくが商品先物自体が「儲からない」と言うわけではない。後々書く事になるが先述の「手数料」、この辺が問題だったのだ。

2-5:組織の停滞と自身の意識
1月半ばに営業生活が始まり3月に初の新規が決まった。
一度数字が決まると周りの見方も変わってきて前の様に甘やかしてはくれない。そんな中で迎えた新年度一発目の4月、僕の係は係長以下4名で構成されているのだが誰一人として新規を決める事ができないと言う地獄の様な時間を過ごした。
そして迎えた5月。このままではマズいと思った係長の更に上、店長が奮起し僕がアポを取ったお客さんを決めて来てくれた。
これで3月に引き続き2件目。他の従業員を見ていても決して悪くはない。
しかし当時まだ熱意に溢れていた僕には「上に頼りっぱなし」という悔しさがやたらと焼き付いていた。

また、同時期に大阪地震などがありその際の社員への対応、混線している事や緊急の電話をしたい人たちの事を気にせず営業電話をさせる業務姿勢など数多くの不満などを抱きつつもその頃は「どうしようもないし、稼がなきゃならないし」と気にしないようにしていた。が蓄積はしていた。

2-6:快進撃の始まり
先程少し書いたが僕は電話が苦手だ。
顔が見えないのが苦手なのか何なのか。結果として普段の様にスムーズに話せずアポイントをなかなか取れない。
1ヶ月約20営業日の内、皆が7〜10件はアポを取る中僕だけ3件とかだった。
全社平均で「10アポにつき1件の新規」というデータも有り、3件の僕がそう簡単に決まる訳もない。
当然それについても叱責を受ける、キツイ。ずっと会社で電話を回しているのもキツイ。

しかし上司に頼りっぱなしが悔しかった僕は発想を変えた。今考えるとずいぶん前向きだが「3件しか取れんなら行ったやつ全部決めてくるしかない」と考えるようになった。
そこからはスピーディーだった。
商談のアプローチのやり方に商談材料の使い方、あらゆる部分を徹底して自分で一から考えて組み上げ客先へ行く様になった。

ここから10月の配置換えまで、ハンドルネームである副主任へのスピード昇格につながる快進撃が始まった。

2-7:人間関係と自身の意地
9月まで絶やすことなく実績を上げ、名実共に本社を引っ張る形になっていた僕だが10月の配置換えで大きな壁にぶち当たった。
所属する「店」が変わったのだ。
我々営業は「店」を率いる店長の性格によって同じ支店内でもかなり組織の性質が変わる。
もともと居た所は組織が若い事もあり僕が独自のやり方で顧客開拓をして行くのを容認してくれていた。数字には一番厳しいが出ていれば天国だった。
しかし次の所はそうはいかない、常に上の顔色ばかり見る典型的サラリーマン人間だった。そして前の店の店長は彼の元部下だった事もあり目をつけられやたらと指摘を受けていた。中には「それを部下に言うか」と言う事も多々あり、最終的に僕はブチ切れボイコットに至る。
それを見かねた支店長が僕と面談、店長を〆てくれた事もあり機嫌を直した僕は翌月しっかり実績を出した。我ながら子供だったなと思う。
そして調子を取り戻した月末、僕の人生最大の事件が起こる。

2-8:離婚
文字通りバツがついた。
原因は色々あるが詳細はまた別の機会に。
ただ、上司と上手く行かなかったりで生来不安定な感情の起伏が悪化していたこと。それにより元妻にかけていた精神的負担も理由の中に含まれる。
そしてこの時に実質的に"先物営業の僕"は死んだ。どれだけ夜遅くなろうが、しんどかろうが頑張るその理由が一瞬で消えてしまったからだ。もっと言えば「働く」という自身の為でもある行動すら依存していたが故である。僕は弱い。
結果として翌年4月に前の店に戻して貰うまで5ヶ月間に亘り僕の実績は0が続く事となる。

2-9:孤独感との戦い
僕は極端に寂しがりだ。職場と家の往復も退屈で耐えられない。会社の後輩や上司、友人とJIS(相席屋の一種)へ通ったり地元のカラオケバーに入り浸る。そんな生活が3ヶ月程続いた。
以前書いた「ボヘミアン・ラプソディ」の話もこのくらいの時期だ。
この時以上の腐りっぷりは2度とないと思う。あってたまるか。

2-10:Twitterのはじまり
実は去年の今頃まではTwitterが嫌いだった。
元妻が所謂ツイッタラだった事もあり何度か泣かされた経験があったからだ。
しかし職場以外の人間関係を築く上での有用性については認めていた。そうして仕事をサボりながら生まれたのが「副主任」と言うアカウントだ。
この頃りん姉とも知り合った。

2-11:復帰と復活
4月に入り支店長の言う通り前の店に戻ることが出来た。「コレでまた自由にやれる!」と思うと離婚の傷が少し癒えた気がした。
とはいえ腐っていた期間のブランクは自分が思っていた以上の物だったようで調子を戻すのに苦労した。
が、そこから4・5月と連続して実績を上げ6月は逃したものの7月までモチベーションは継続した。

2-12:実家暮らし
この頃僕は実家暮らし、かつて二人で住んでいた部屋には元妻だけが住んでおり情も未練もあった僕は「荷物が多すぎて実家におけないから」「また僕が一人暮らしするまで」と言って家賃半分と多少の生活援助をしていた。
が、僕自身実家はあまり好きではなく一人で居ると色々考えてしまう。それが嫌で週のほとんどを外、大概梅田で飲み歩いて過ごしていた。
そうして元妻との距離が開いていくにつれ今まで「養う為」と封じ込めていた「会社への疑念」など不安や不満が表面化してくる事になる。

2-13:一人暮らし再開
実は引っ越した事による仕事への変化というのはほとんど無く、むしろ通勤時間も短くなった為睡眠がしっかり取れるし良い影響があった。
ただ、引越しの為に二人で暮らしていた部屋を畳んだり等孤独を感じる事は多かった。
そして一時期に比べ恋愛など人間関係への意識も少しマシになって来ていた。
それによりこの辺からもう一つの不安が顔を出す。
それが「転勤」である。
ウチの業界は昔から転勤が多い事で有名である部長など転居履歴を出したら55歳までに15回転勤していた。
僕自身家族を連れて転勤族、もしくは単身赴任し苦労している上席を数多く見ていた。
そこで僕は思った「この仕事では家族に時間を割けない、任地次第では友人とも会えない」と。「離婚した直後だと言うのにもうQOLを気にしてるのか」と怒られそうではあるが。これも退職の一因となる。

2-14:顧客の損失
先程少し触れたが世間において商品先物のイメージは悪い。内容は知らない人にも「損する、危ない」といわれることが少なくない。
この原因は投資の仕組みではなく、我々の様な仲介業者の手数料にある。
シンプルに言えば手数料が高いのだ。
そして詳細は省くが損で終わる客の多くは「手数料負け」が原因と言っても過言ではない。

ある日僕が会社のPCで久しぶりに自分が取ってきた客のデータを見ていると一人損失額がン千万と言う人が居た。僕が11月に取ってきたお客さんだ。
話は長いが良い人で4時間くらい話して意気投合しお金を任せてくれた。
しかしウチの業界は「新規取り」と「ディーラー」が完全に分かれている。
僕らが取ってきたお客さんはその店の店長が後々の売買を担当する。このお客さんの担当は僕が嫌いな典型的サラリーマン店長だった。お世辞にもディーリングが上手いとは言えない男だ。
そして人の良さに目をつけられ手数料稼ぎの金づるにされてしまっていた。手数料がノルマを超えると彼らは手当が貰えるのだ。

ここで僕は「鵜飼いの鵜になっている気分」と「自分を信じてくれたお客さんを毎回裏切っている」という思いに駆られる事になる。

2-15:再びの停滞と自問自答の日々
これだけ不安や不満が募ると働く意欲というのは限りなく死に絶えて来る。再び僕の実績は止まった。
次の仕事を探すものの「知らず知らずこの業界に染まっていないか」などとあらゆる事が不安になりなかなか上手くいかなかった。

そこでまず自分自身の事をしっかりさせようと思い放置していた疑問などを解決していく事になった。"謙虚さとは?"と言った事だ。
説教臭くなるので内容は置いといてこの時間は無駄ではなかった。
不満は出るものの「辞める」と言うまでになぜ至っていないかなどを考え直し都度整理していった。
こうして愚痴をたまに噴出させはするもののある程度の落ち着きを取り戻した僕は"仕事の事"ではなく"自分がどうしたいか"と言った事に興味を向け始める。

2-16:退職の決意
数字が停まっているとは言え一度は華々しく実績を上げていたから上司としても「やれば出来る」と日々叱咤してくる。
が、僕自身は「既に死んでいる」と考えていたので腰が重い。このやりとりを繰り返すウチに「このままだと病んでしまう」「ウダウダするならリセットしたい」と思うようになった。が上司は好きであったし係も仲が良く動き出せなかった。こうしてまた年が明けた。

2-17:退職届を書く
本当ふとしたキッカケだったが、ある日突然「あ、辞めよう」と決心した。
引き留めがくるのはわかっていたし面倒なので代行を立てるか迷ったが支店長など上司にも世話になった好きな人たちがいたのでちゃんと挨拶しようと思った。
なので決心したその日に退職願を書き翌日朝に提出した。

最後のキッカケはホントに単純で「嫌になってるのに何故居るんだろう?上司の期待には応えられない、応えたくないと思っているのにパフォーマンスだけするのはお互い無駄では?」と思ったからだ。

===
長々と書いたがこんなところである。今後若干の追記、修正はあるかもしれないが本筋は変わらない。筈。

続く...

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?