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鍋島茂治公 〜たっちゅうさん〜 第二章

第二章 鍋島弥平左エ門信房公のこと

茂治公のことを述べる前に、信房公のことを述べておこう。信房公・茂治高一連の系図を記そう。

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信房公は清房公の長男で、直成公は二男である。明らかに本家筋である。直成公、勝茂公もこの本家筋には当座の所、頭が上がらなかった。「葉隠」に、
 豊前守殿(信房)御屋形は最初は塩田にて候。
 直成公仰付に御家中の者、豊前守殿御家来衆と公事沙汰口論等仕出候はば理非によらず、御家中のもの負けに仰せ付けらるべしと兼ねて仰出で置かれ候由。
と述べてあるごとく、信房公の地位は厳然としていた。
 竜造寺隆信公が戦場争乱の時代は信房公は非常に重要視され、本家筋として、有馬を抑えるために一番大切な地、藤津郡の郡主となし、藤津郡組頭となり、恒広城を築き、藤津郡軍士である所の塩田、原、久間、嬉野、構造(道)、古枝、大塚、永田の諸城の勇士たちを支配していたのである。これが大体、天正四年以降である。二、三の例を記して見ると、
天正四年 横道城攻撃
有馬に加担したる深町尾張守、原左近丈夫、原十郎、原吾郎、岩永和泉守等を征伐し死に到らしめ、常広に築き有馬防禦の第一陣を作った。
   一説には、城主 深町は有馬に逃ぐ。
   一説には、塩田城主 原五郎十郎は開城す。
「祐徳稲荷神社史」の乾四五一頁に、
「我が塩田は天正四年二月以来鍋島信房の管領する所なり。原氏(十郎)の居館塩田城(塩田原町)に入って、
天正五年六月 隆信 彼杵に入り、大村純忠を討つ。信房 藤津軍士を率いる。諫早西郷信尚征め、七浦征め、神代に渡海し、島原の北部を征める。
天正八年四月 肥后征伐、塩田川より出陣し、山鹿を征服した時、信房は吉田、嬉野、久間、大塚、原、永田等の藤津軍士を率いて遠征した。
以上、二、三の例を引用したが、藤津郡という地域に対しての信房公の位置を説明したが、要するに、信房公は藤津郡の支配者の位置に立って、今の塩田、原、久間、吉田、嬉野、横道……等を差配していたのである。とにかく「葉隠聞書」に、
「豊前守殿の御屋形は最初塩田にて候……」
とある通り、尚同書二三五頁第三に、
「鍋島信茂(直茂)の兄、房義(信房)居館は天正四年有馬防備のため、鹿島横道に定められ、慶長十三年神代に移された。」
とあり、また、
「祐徳稲荷神社史」の乾四七二頁に、
 「隆信の我が肥前国を統一するや、※3小川信房を神代の城番となし、同時に神代及本群の吉田村をば之に給した」
とある。
なお、藤津軍の内容のうち、その当時の経済的なものを挙げると、左の記録がある。此の記録、諫早郷土史によるもので、天正十二年三月、竜造寺隆信が島原沖田原の戦いにおいて、有馬の援軍である南九州の雄たる島津家久と一大雌雄の決戦をなさんとて、諸軍に出師の命令を出した時の「着到簿」から藤津軍に関するのみを抜萃して見ると、

隆信公幕下着到
知行 五〇〇丁    鍋島豊前守信房
〃  五三〇丁    鍋島飛騨守信昌(直茂)
〃   五〇丁    鍋島三郎兵衛 (信房の子・茂正)
〃  三〇〇丁    竜造寺下総守康房(信房の弟)
〃  三〇〇丁    倉町左エ門大夫(信房の弟・信俊)
知行  五〇〇丁   嬉野越後守
〃   一〇〇丁   横田加兵衛
    三〇〇丁   吉田左エ門大夫
    一五〇丁   原形部大夫
    一五〇丁   長田左京亮(永田?)
     五〇丁   久間源太郎
    一八〇丁   塩田因幡守 ※11
     三〇丁   深江下野守
    五七〇丁   犬塚播摩守
    二〇〇丁   太田左エ門大夫
これによれば大体当時の経済状況が分かるであろうし、藤津軍の党主である地位もうなずけるであろう。
 もっとも、この時分は完全に独裁していたのではなく、各々もとからの個々の領主を重く見て、天正四年二月、有名な横造城撃滅の折、或は討死、或は降参し、遂に藤津郡一円は、竜造寺に味方した。そこで隆信公は、信房公に、横造城に居らしめ、藤津軍士の総監督たらしめた。よって大体、天正四年から慶長年間までのことである。
 慶長十二年、勝茂公本藩の跡をついでよりは完全に本藩独裁となった。かくして(※12)信房公は最後は慶長十三年神代封に決定したのであるが、自ら行くのではなく、色々の説が伝わっている。鍋島茂治公を城番としたり、鍋島道悦(※13 宣乗)を城番兼代官としたり蒲原某を代官としたりして、自分は塩田の館(※14)、吉田の館、佐賀西ノ御門等に信房公・茂正公親子一門生活していたらしい。
 そうして、慶長十四年九月十九日卒去された。法名を「孝岳永忠大禅定門」という。年令不詳なれど、神代村の一家臣の系図の中に「寿八十一年」(※15)と記してある。ついては卒去の場所と本墓が何処にあるか不明である。
 1、神代村ではない。
 2、神代村にある墓は大分後に建立したものである。(※16)
 3、諸記録によれば、
   (イ)西の御門という説
   (ロ)吉田の館という説
   (ハ)塩田の館という説
   (ニ)吉田村の永寿寺という説
 吉田村の永寿寺に葬ったという記録がある。寺の名が出ているのは、この記録だけである。同寺の位牌堂には、信房公の位牌が残っている。尚、本寺開山の鍋島侍兵衛鎮教及びそれ以降の位牌も残っていて、同寺の境内には鍋島氏(吉田城主鍋島家)代々の墓と境内の外に、鍋島家ゆかりの「鎧塚」が現存している。
 又同寺より数丁離れた「山王社」の境内に、信房公と鎮教公を祭った一宇がある。
即ち
「祐徳稲荷神社史」の乾の四六三頁に、
吉田村山王社境内に霊神石祠有り。その由緒によると、この祭神が、鍋島豊前守信房、鍋島伝兵衛鎮(茂)教右二人の神霊なり。
 又、同神社記録によると、
   佐賀県藤津郡、吉田村寺辺田、石燈籠安政三年二月
     右 孝岳霊神 孝岳永忠居士、慶長十四年九月十九日卒
 山王社   三得良可居士、慶安元年七月十三日
     中
     左大権現
 今ここに挙げた吉田の館・永寿寺・歴代の墓・鎧塚。山王社等は、吉田村としても大事に保存して、荒廃しないように努めなければならないであろう。
 吉田村にしても塩田町にしても、私は未調査なので残念であるが、恐らく古文献と実際の史実跡とを明らかにするのが出てくると思う。そうしたものは保存顕彰して、その町村の事業にしなければと思う。
 吉田家、久間家、原家等、時代的に研究し、今ここに信房公、茂正公の時代に至り、最後は鹿島鍋島家の時代となったのであるから、塩田町、久間、吉田村としても大きな仕事があろうと思う。祐徳院神社史ひとつ読んでも非常に解明する所がある。
 以上、吉田、塩田、原、久間等に関してのみの信房公の一端を記して、信房公一門のこの地区に於ける状態を記し、本編として信房公の息、茂治公を説くために父のことを述べた。次にいよいよ成治公ならび、その一門のことについて記すことにする。

【注】
※(1)鹿島恒広城主、神代城初代。神代では孝岳さんという。
※(2)信房公「豊前守」初め孫四郎・三郎兵衛・信安・信秀・房義・房重・房茂・小川信房。慶長十四年九月十九日卒、孝岳永忠居士
※(3)三代目より直茂派になった。
※(4)当時は原町だったらしい。
※(5)陰徳太平記下二一一頁又祐徳稲荷神社史又葉隠
※(6)神代村の神代兵補大夫貴茂が龍造寺隆信に降参したのは、天正四年六月である。

※(7)これらは北肥戦記、肥薩軍記、鎮西要略、陰徳太平記等にあり。
※(8)実際は神代には城番を置いた。茂治公も城番を数年した。信房公は吉田に隠居。
※(9)鍋島信房のこと、小川と名乗ったことがある。
※(10)一書には五一〇丁。
※(11)他書には塩田城主は原十郎五郎とあり。竜氏横道城攻撃の折り、開城降参。
※(12)鹿島郷土史にも叔父信房公の跡を継いだとあり。
※(13)鍋島道悦は一名鍋島宣乗という。茂治公とは二従兄弟になる。宣乗家はのちに鍋島を江口と改姓する(子の外記より)。宣乗の妻は茂治公の娘。またこの外記の妻が織部允の娘。この関係は詳しく後述する。
※(14)佐賀城内に「石橋屋敷」というのがある。これが従来明治維新まで神代藩の下屋敷であった。
※(15)逆算すると享禄二年(1529)生まれ。隆信公と同年、直成公はそれより九年後の天文七年(1538)生まれ。
※(16)享和二年(1717)四月二十日~二十二日、神代「下坊ノ墓」に建つ。
※(17)吉田村寺辺田にある。曹洞宗。位牌もこの寺にある。「聖福山永寿寺」という。鹿島駅からバスにて鳥越峠を経て吉田村に入り、羽口坂というバス停にて下車。徒歩にて三十分で山門に達する荘厳なる古寺である。
※(18)共に鍋島直共氏の調査で文献と一致した。
※(19)鎮教は(茂教)。
※(20)円形


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