見出し画像

戦後平和主義の陥穽

 日本の戦後平和主義には、被害者としての視点に偏りすぎており、加害者としての自覚・反省が少なすぎる、という重大な欠陥があることはよく指摘される。それは全くその通りなのだが、今日はそれとは少し違った観点から、戦後平和主義の陥穽を指摘したい。
 
 日本はヒロシマ・ナガサキに世界史上初めての核兵器による被害を受け、それによって敗戦が決定づけられた、という意識はその後、日本社会に広く共有されることになった。日本の敗戦決定には、原爆よりもむしろソ連の参戦の方が大きな影響を及ぼしたのではないか、といった議論には立ち入らない。ここで重要なのは日本社会に浸透した意識の方であるからだ。この、日本が史上初めての核被害国になり、その後今日に至るまで戦場での核被害国が現れていない、という事実は、戦後日本の平和思想、平和運動に深甚な影響を及ぼしたと思われる。
 
 戦争の勝敗それ自体は戦争当事国の道徳性や正当性とは無関係とはいえ、「人類がそれまでに経験したことのない圧倒的な破壊的兵器により敗戦に追い込まれた」という意識は、日本人の被害者意識を強めると同時に、日本が行ってきた侵略戦争そのものへの反省を弱める働きをしたのではないかと思われる。原爆による被害という一点に強烈なスポットライトを当てることによって、それ以前の歴史を闇の中に葬り去る効果を持ったのである。つまり、歴史を忘却させる「脱歴史化」の作用を持った、ということである。
 
 さらに、「唯一の被爆国」という言葉に象徴されるように、「特別な被害を受けた特別な国」といったある種の(被害者)特権意識さえ生み出したのではないかと思われる。また、核兵器による壊滅的被害という終末論的イメージを未来に投影することによって、将来の戦争は勝者も敗者もなく、すべての人が核兵器という絶対悪の犠牲者となる、というイメージを生み出し、戦争そのものを絶対悪とする戦争観を生み出した。これは、19世紀の(あるいは第1次大戦までの)伝統的国際法が、戦争の手段・方法・対象については規制するが戦争それ自体の善悪は問わない無差別戦争観に立っていたのと比べると、戦争を肯定するか否定するかというベクトルは逆向きながら、戦争それ自体の質的差異を問わないという点ではよく似ている。(なお、現代国際法は、自衛のための戦争と集団的安全保障のための武力行使は限定的に認めているが、侵略戦争は違法としているので、もはや無差別戦争観には立っていない。)伝統的国際法における戦争観を積極的無差別戦争観と呼ぶとすれば、すべての戦争を悪と見なす戦争観は消極的無差別戦争観と呼ぶこともできるだろう。
 
 すべての戦争が絶対悪であるとするならば、その原因が何であるかは重要ではなく、侵略戦争とか防衛戦争という区別には意味はなくなり、戦争そのものが悪である、ということになるだろう。戦争中に犯された様々な残虐行為も、それを行った兵士や軍隊が悪いというより、戦争そのものによる悪に帰責される傾向がある。侵略国にとっては誠に都合のよい解釈であるが、われわれ日本人にはなじみ深い解釈だと言えるだろう。
 
 こうした消極的無差別戦争観、すなわち「戦争=絶対悪」観は、憲法9条の絶対平和主義解釈によってさらに補強されることになる。憲法9条はすべての戦争を否定した絶対平和主義であるとして、それを称賛する人々は、すべての戦争を無差別に悪と捉えがちになる。ここにさらに、核戦争絶対論によって憲法9条を正当化する論法を加えることもできるだろう。「核戦争絶対論」とは今私が考えた命名であるが、要するに将来の戦争はかならず核戦争に発展し、核戦争になればそれを防ぐ手段はなく、人類も文明も破滅を免れないのであるから、防衛力の強化によって国民を守ることはできない、したがって9条のような非武装平和主義を世界に広めていくことが唯一合理的な平和・生存戦略である、という考え方である。
 
 こういう考え方を最初に広めたのは幣原喜重郎である。ここでは引用しないが、幣原はその種の発言を何度も行っている。ただし、これは幣原の本心ではなく(その証明は別の機会に譲る)、GHQによって強いられた憲法草案を日本政府の発案であるかのように装うために考案した論法であった。もちろん、幣原あるいは日本政府にとっては強いられた9条であったとしても、国民が強いられたと感じるか否かは国民次第である。むしろ、9条制定の経緯はどうであれ、非武装平和主義を正しい選択として心から受容し、積極的に擁護するという立場も存在する(私もその立場をとる一人である)。ただ、その根拠はいろいろあり得るが、幣原と同じように「核戦争絶対論」によって9条を正当化するという(私は支持しない)議論を展開した学者に、例えば丸山眞男がいる。もちろん幣原のように建前だけで主張したのか、丸山のように真摯な気持ちで(丸山は広島市で直接被爆したという個人的経験も大きかっただろう)主張したのか、という違いは決定的ではあるが、両者の主張の論理的構造はほとんど同じである。
 
 第2次大戦中、ヒトラーのナチスやムッソリーニのファシズムと同じように最悪の軍国主義的侵略国家であった日本は、戦後、「核被害」と「9条」を抱きしめることによって、ある意味特権的な被害者性を身に帯びつつ、世界の平和思想の先頭を歩む“聖者”のごとき自己イメージを勝手に作り上げてしまったのではないか。被害者特権意識に凝り固まったまま、9条を掲げて戦争=絶対悪論を唱えたところで、今日、大した共感は呼ばないだろう。
 
 第2次大戦終結後79年間、核兵器が戦場で使われたことはないが、だからといって戦後の戦争が悲惨でなかったわけではない。昨年10月7日から始まったイスラエルによるジェノサイドでは、開始から1カ月経った時点で広島型原爆2個分の爆薬がガザ地区に投下されたという。すでに開始から8か月以上経過し、3万7000人以上の死者(瓦礫の下にはさらに1万人以上の遺体が埋まっているという)に加えて、負傷者、飢餓、感染症による被害は日々拡大し続けている。核戦争だけを絶対視するような議論が、このようなジェノサイド的戦争の抑止に役立たないことは明白だろう。同時に、「無差別戦争観」はともすればパレスチナ人の武装抵抗(それはメディアで「テロ」と呼ばれる)とイスラエルのジェノサイド戦争とを同列に並べて「どっちもどっち」といった見方に陥る危険性が極めて高い。それは戦争の原因を歴史的に究明する姿勢に欠けているからだ。
 
 まとめると、核爆弾による敗戦という体験は、日本人に「核戦争絶対論」と「脱歴史化」を通じた消極的無差別戦争観と、「唯一の被爆国」という特権的被害者意識とをもたらした。さらに、憲法9条に依拠した絶対平和主義思想がこうした消極的無差別戦争観を強化する働きをしたことにより、日本が行って来た侵略戦争への反省を希薄化する作用をももたらしたと言えるだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?