【幣原発案説の虚妄(第17回)】幣原「芝居」説の虚妄(3)

 続いて、笠原氏の紹介する佐藤達夫の「証言」を見てみよう。笠原氏は、1964年2月14日の『朝日新聞』に掲載された「あの当時の思い出」という座談会の記事から、以下のような佐藤の発言を引用している。

「いま、問題になっている“戦争放棄”の発案者がだれかの問題、これも実は昭和26年でしたかね、マッカーサー元帥がアメリカの上院で『幣原がいい出した』ということを証言していて、そのことはわかっているが、それ以外の資料としてはこの手記(「マッカーサー回想記」)が、非常にくわしく、幣原氏との間の感激的な情景をよく出している。これも貴重な一つの資料だと思っています。」
「あれは、憲法調査会あたりでも、あの点を中心にして、掘り下げ掘り下げ、いろんな材料を集めたりしてやっていたんですけれども、私どもはやはり、ああいう話が出たことは事実だと思います。それから幣原さんが、平和主義者であったことは、われわれ幣原さんと接触しておって、常に感じていましたし、ことに草案ができたあと、9条は自分の信念であると、非常に強い言葉で、議会や枢密院で説明しておられたから、それをマッカーサーに述べられたこともわかるんです。
 ただ最後の問題は、憲法の例の第2項に当たることを、憲法の条文に入れたい、というところまで、幣原さんがマッカーサーに訴えたものか、依然としてナゾは残るが、ふんい気はわかってきましたね。」

 こうした佐藤の発言を受けて、笠原氏は、「佐藤達夫の発言は、(……)『マッカーサー大戦回顧録』のなかで、1月24日の幣原とマッカーサー「秘密会談」において幣原が発案した憲法9条の内容をマッカーサーに提案したと記述されていることは事実と認めたのである」と結論づけている。果たしてそうであろうか。佐藤であれ誰であれ、幣原とマッカーサーの2人だけの会見について、マッカーサーが書いた「回想記」(『大戦回顧録』はその抜粋)を読んだだけで、その内容が事実であると認定できる資格などあるはずはないのである。むしろ佐藤が述べているのは、9条2項の戦力放棄に当たることを憲法の条文に入れたいと幣原がマッカーサーに訴えたかどうか、「依然としてナゾは残る」ということである。9条1項の戦争放棄を憲法条文化したいと幣原が言ったと佐藤が思っているかどうかは「依然としてナゾ」ではあるが、少なくとも戦力放棄を憲法条文化したいと幣原が言ったということについては、佐藤は疑問視しているのである。こうした基本的な区別が笠原氏にはできていないようなのである。
 
 実は佐藤は、この座談会より前のことであるが、憲法調査会に参考人として呼ばれた際、「幣原首相がマッカーサー元帥に対して憲法の条文に入れたいというまでの具体的な提案をしたとは思われない。ただ両者が大いに意気投合したことは事実であろう」と述べており、幣原発案説を否定しているのである。それだけではない。佐藤はこの座談会のわずか10日後の46年2月24日の「産経新聞」において、幣原がマッカーサーと会見した46年1月24日の時点では「日本側が独自の立場で、憲法改正案を起草していたときであり、マッカーサー草案の交付などということは夢にも想像していなかった」ので、幣原首相が「総司令部の案に戦争放棄の条項を入れてほしい、などというはずがない」、「軍関係規定を松本委員会案には盛り込まない、との幣原発言が、マッカーサーによって別様に受け取られてしまったのではないか」と述べているのである。朝日新聞の座談会での発言とは印象は大きく変わるが、要するに佐藤は、幣原が憲法規定として戦争放棄条項を提案したわけではない、と思っていることが確認できる。
 
 最後に、笠原氏の紹介する金森徳次郎の証言を見てみよう。笠原氏は金森が、1954年3月19日に首相官邸でおこなわれた自由党憲法調査会の第2総会で行った、次のような証言を引用している。

(マッカーサーがアメリカに帰国後の1951年5月米上院で、憲法9条は幣原の発案であることを証言したことを紹介した後に)
この言葉が正しいとすれば、戦力不保持のあの規定というものは歴史の上から言えば幣原さんの発案であり、つまり日本側の申し入れであったというふうに考えられます。それ以外に幣原さんが書かれたものにも出ておりまして、マッカーサー氏の言に信用を置きうるような気がいたします。
(中略)
 ところでこれが向こうに受け入れられまして、今度はマッカーサーのノートという段階に入って来るのであります。多分、マッカーサーがこういう話を聞いて、自分の帳面に日本の憲法はかくあるべしということを書いておったというのでございましょう。
(中略)
これを総合してみますると、幣原さんの意見でも全部戦争をやめなければならない、マッカーサー・ノートでも日本は自衛戦争といえどもやめなければならない、こんなところまで徹底しておったような気がするのであります。」

 この発言のポイントは、マッカーサーの上院での証言が「正しいとすれば」という仮定のもとになされた、いわば条件付きのものになっている、ということである。マッカーサー証言が「正しい」という前提が崩れてしまえば、すべて崩壊しかねない、砂上の楼閣とも言うべき頼りない議論なのである。
なお、「幣原さんが書かれたもの」とは『外交五十年』を指していると思われるが、そこには幣原とマッカーサーとの会見については触れられていない。ただ、組閣をした際、「国民の意思を実現すべく努めなくちゃいかんと、堅く決心し」、「憲法の中に、未来永劫そのような戦争をしないようにし、政治のやり方を変えることにした。つまり戦争を放棄し、軍備を全廃して、どこまでも民主主義に徹しなければならんということは、他の人は知らんが、私だけに関する限り、前に述べた信念からであった」と書かれているだけである。その直後に、「よくアメリカの人が日本へやって来て、こんどの新憲法というものは、日本人の意思に反して、総司令部の方から迫られたんじゃありませんかと聞かれるのだが、それは私の関する限りそうじゃない、決して誰からも強いられたんじゃないのである」と書いていることからもわかるように、これは憲法改正草案がGHQによって押しつけられたのではないかという疑いを晴らし、あくまで日本側の自主的な改正であったという建前を貫くために書かれたものであり、マッカーサーに提案したなどということはどこにも書かれていないのであるから、これを以てマッカーサー証言が補強されるわけではない。
 
 また、鈴木安蔵は金森が国会図書館長となったとき、「第9条は幣原首相の発案ですか」ときいたところ、金森は「それがわたくしにもハッキリわからないのです。幣原さんは閣議では一度もああした信念や憲法の条項にしたいなどということは発言しませんでしたしね」と答えたという(『憲法制定前後』)。金森の発言をもって、「幣原発案を証明する確証」とするのはやはり無理だと言わねばならない。

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