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【幣原発案説の虚妄(第3回)】『憲法九条論争』「はじめに」第2の引用文

 笠原十九司『憲法九条論争』「はじめに」は、昭和天皇が「三人の当事者」であったことを示す幣原側の史料として、「平野文書」の次の一節を引用している。これは、幣原が平野に語ったとされる内容である。「はじめに」における第2の引用文であるが、同書からそのまま再引用する(16頁)。

 僕は天皇陛下は実に偉い人だと今もしみじみと思っている。マッカーサーの草案を持って天皇の御意見を伺いに行った時、実は陛下に反対されたらどうしようかと内心不安でならなかった。(中略)しかし心配は無用だった。陛下は言下に、徹底した改革案を作れ、その結果天皇がどうなってもかまわぬ、と言われた。この英断で閣議も納まった。(中略)
 正直に言って憲法は天皇と元帥の聡明と勇断によって出来たと言ってよい。たとえ象徴とは言え、天皇と元帥が一致しなかったら天皇制は存続しなかったろう。危機一髪であったと言えるが、結果において僕は満足し喜んでいる。

 笠原氏が、昭和天皇の積極的な同意と当事者性を示しているというこの引用は、笠原氏の意図とは逆に、「平野文書」の虚偽性をはっきり示している。幣原が「マッカーサーの草案を持って天皇の御意見を伺いに行った時」とは、『昭和天皇実録』から見て、46年2月22日以外にはあり得ない。このとき、日本政府と天皇はどのような立場に置かれていたのだろうか。
 
 吉田茂外相、松本烝治国務相ら日本政府代表は2月13日、5日前に提出していた「憲法改正要綱」に対するGHQの意見を聞こうと、ホイットニー、ケーディスらGHQ民政局幹部と会見を持った。ホイットニーはその場で憲法改正要綱の受け取り拒否と、GHQ側で作成した憲法草案の受け入れを要求したのである。日本側にとっては青天の霹靂であり、「特に吉田氏の顔は、驚愕と憂慮の色を示した。この時の全雰囲気は、劇的緊張に満ちていた」とGHQ側の史料は述べている(『日本国憲法制定の過程Ⅰ』)。これに対して日本政府は、白洲次郎終戦連絡事務局参与をホイットニーの下に遣わしたり(14日)、英文の手紙を出させたり(15日)、松本による憲法改正案説明補充を白洲を通じてGHQに提出したり(18日)して、なんとかGHQの再考を求めようとした。しびれを切らしたホイットニーが白洲に対して、GHQ草案を受け入れるか否か48時間以内の回答を要求し、さもなければGHQが「直接国民にこの憲法を示す」との最後通告を突きつけたことにより、日本政府は19日の閣議でようやくこの件を議論するのである。しかしこの日の閣議では意見はまとまらず、幣原首相がマッカーサーの意向を確認するために訪問することを決めた。21日にマッカーサーを訪問した幣原は、その会見の様子を翌22日午前の閣議で報告している。このとき厚生相として閣議に出席していた芦田均の日記によると、「第一条と戦争抛棄とが要点であるから其他については充分研究の余地ある如き印象を与へられたと、総理は頗る相手の態度に理解ある意見を述べられた」という。その日の午後2時、吉田外相と松本国務相がGHQに行き意見交換することを決めて、その日の閣議は終了した。幣原首相が天皇に拝謁したのはこの日の午後2時5分から1時間余りである。ちょうど吉田外相が松本国務相とともにGHQに行っていたのと同じ時間帯であることに注意してほしい。上記引用文で「(中略)」とした部分には、「僕は元帥と会うときは何時も二人切りだったが、陛下のときには吉田君にも立ち会って貰った」という一文があるが、同じ人物が同じ時間帯に同時に2カ所にいることはできないので、これが誤りであることは明白である。
 
 問題は、このとき天皇が、「言下に、徹底した改革案を作れ、その結果天皇がどうなってもかまわぬ」と言ったか否かである。天皇と日本政府にとって、状況は深刻であった。幣原はこのとき、GHQ草案を提出し、前日のマッカーサーとの会談を報告し、基本原則(象徴天皇制と戦争・戦力放棄)の受諾が不可避の情勢となっていることを説明したはずである。「徹底した改革案」はすでにGHQによって作成されており、問題は日本政府がそれを受け入れるか否か、受け入れなければ天皇制存続の保障もなく、天皇が戦犯訴追される可能性すらある、といった状況なのである。天皇が「徹底した改革案を作れ」などと呑気なことが言えるような場面ではないのである。また、この時点では、天皇が戦犯訴追される可能性も十分にあった。そこで、占領統治のために天皇制を温存したいマッカーサーの意向を受けて、その側近でGHQの軍事秘書であったボナ・フェラーズ准将は3月6日(日本政府がGHQ草案に基づく憲法改正草案要綱を発表したその日である)、重臣の米内光政と会見し、天皇の訴追を免れるため、東条英機に全責任を被せ、天皇の無実を日本側で論証してほしいと要望した。これを受けて天皇の側近である木下道雄侍従次長・松平慶民宮内大臣・松平康昌宗秩寮総裁・寺崎英成宮内省御用掛・稲田周一内記部長の5人(いわゆる「5人の会」)は、同月18日から4月8日までの間に5回、天皇からの聞き取りを行い、東京裁判に備えて天皇無罪を「立証」するための弁明書、すなわち『聖談拝聴録』(『独白録』)を作成していたのである。天皇が、「天皇がどうなってもかまわぬ」などと言うはずもなかったのである。
 
 以上、この引用文における幣原の発言とされるものが、全く事実に反するものであることが明らかになった。だとすれば、このようなすぐに嘘だとバレるような証言を幣原が残すはずがないから、これが平野による虚偽文書であることは明らかである。そのことは、笠原氏が引用する次の文書により決定づけられることになる(「第4回」に続く)。

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