『パレスチナの民族浄化』(2)

 それにしても、こうした重大な事実がなぜこれまで(おそらく)大半の人々に知られてこなかったのだろうか。原因のひとつに、イスラエルが第2次大戦中の「ホロコースト」というユダヤ人の民族的惨劇を最大限に政治的・外交的に利用し、自らを犠牲者民族として演出することに成功してきたということが挙げられよう。まさに林志弦の言う「犠牲者意識ナショナリズム」に基づく「被害者特権」の政治的活用である。1982年にイスラエルがレバノンに侵攻した際、国際的批判が高まるとベギン首相(当時)は、ホロコーストを見過ごした国際社会にイスラエルの行動を問題視する権利などないと反論し、「道徳について我々に説教できる民族は地球上どこにもいない」と気勢を上げたが、これなどまさに「被害者特権」意識への居直りであろう。そして、こうしたイスラエルの「犠牲者民族」の演出が奏功してきた一要因は、西洋社会が抱えてきた反ユダヤ主義という宿痾に対する後ろめたさがあるに違いない。さらに、今日のパレスチナ問題の原点にある1947年の国連決議181において、当時のパレスチナにおける人口の3分の1、所有地面積ではパレスチナ全土の6%を所有していたにすぎなかったユダヤ人に、最も肥沃な土地の大半を含む56%の土地を与えるという不公正なパレスチナ分割決議に賛成した委員たちに、もしかしてユダヤ人に対する贖罪意識があったとすれば、そこで犠牲になるのが反ユダヤ主義でユダヤ人を差別・迫害してきた西洋人ではなく、何の関係もないパレスチナ人である以上、根本的に倒錯した「贖罪意識」だったと言わざるを得ない。
 
 また、パレスチナ人たちは、イスラエル建国前後に自らの身に降りかかったこの大惨事を「ナクバ」(アラビア語で「大災厄」)と呼んできたが、惨事の原因や主体を曖昧にするこの言葉にも、事態の本質を見失わせ、世界がイスラエルによる民族浄化を忘却し続ける要因のひとつになったともいえよう。その意味で、本書のタイトルに使われた「民族浄化」という言葉は、事態の本質とシオニズム運動の実態を表す的確な用語であると言えるだろう。
 
 ところで、「民族浄化」という言葉が世界中のメディアの間で一気に広まったのは、1992年に始まったボスニアの内戦においてであり、しかもその内戦の中で互いに相争うボスニアの3民族のうち、セルビア人の行う残虐行為に対してのみ用いられたのであった。それはアメリカの一民間企業で、ボスニア政府と契約したルーダー・フィンという広告代理店が、セルビア人の残虐性を各国の指導者の脳裏に注入するため、劇的効果と衝撃性を狙って意図的に選択した言葉であった。アメリカのユダヤ社会の反発を避けるために、「ホロコースト」という言葉を絶対に使わず、しかも「ホロコースト」を想起させる言葉として選んだものであった。ルーダー・フィン社は1992年春以降、自身が発行する「ボスニアファクス通信」をはじめ、ボスニア大統領から国連事務総長への手紙、ボスニア外相の国際会議での演説など、ほとんどすべての文書で「民族浄化」という言葉を使い始めると、この言葉はメディアの間で一気に広まっていった(高木徹『戦争広告代理店』)。
 
 ノーム・チョムスキーも指摘している通り、実際にはセルビア人だけでなく、クロアチア人もムスリム人も同じような行為を行っていたにも関わらず、当時(そしてのちにはコソボ紛争においても)、「民族浄化」という言葉はセルビア人だけを非難するために用いられたという意味で、政治的に不公平で誤った用いられ方をされたと言える(『アメリカの「人道的」軍事主義』)。しかし、パレスチナ問題においてはそうではない。パレスチナの文脈においては、「民族浄化」という言葉は、まさにイスラエルが建国当初(実際には建国前)から採用してきた国家的方針であり、「ユダヤ人によるユダヤ人のためのユダヤ人の国家」を創るというシオニズム思想そのものに内在しているといってよい。パぺによると、イスラエルでは実際に、ヘブライ語で「浄化」を意味する「ティフール」という言葉が、建国宣言の出された48年5月14日以降、上層部から戦場の部隊に対する命令の中で、頻繁かつあからさまに使われるようになったという。パレスチナでは、旧ユーゴ民族紛争とは異なり、ユダヤ人もパレスチナ人も同じような行為に従事している、などということは断じてない。ハマスやPFLP、あるいは個人的な自爆攻撃など、ときおり起きるパレスチナ人によるテロを含む暴力も、ナクバから76年続く民族浄化、67年の第3次中東戦争から57年続く違法な占領、2007年から17年目に入ったガザの完全封鎖といったイスラエルの圧倒的な違法行為がなければ起こるはずのないものである。岡真理も強調しているように、そうした絶望的で非人間的な状況に追い詰められたパレスチナ人の散発的な暴力行為と、近代兵器と非人道兵器で完全武装したイスラエル国家の圧倒的な暴力とをあたかも対等なもののごとく併置し、「暴力の連鎖」「暴力の悪循環」などという決まり文句で現状を語ることは、背後にある構造的な暴力と不正を見逃し、それに加担することにしかならないであろう。現在のガザで起きている事態を「ガザ戦争」などと呼ぶこと自体、石ころとミサイルを並列して「どっちもどっち」というに等しい思考停止の態度でしかあるまい。
 

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