【幣原発案説の虚妄(第13回)】幣原発案説の発案者(4)
毎日新聞が岸倉松及びマッカーサーの証言として幣原発案説を報じた翌年(1956年)、ホイットニーがマッカーサー伝(MacArthur: His Rendezvous with Destiny)を出版した。邦訳はその翌年(1957年)、『日本におけるマッカーサー』と題して毎日新聞社から出版された。その中で、ホイットニーは、1946年1月24日のマッカーサー=幣原会談直後の様子について、次のように記している。
まず注意して頂きたいのは、ホイットニーがこの一節を、戦争放棄条項のマッカーサーによる「押しつけ説」に反論するために記している、ということである。次に注目すべきは、幣原が戦争放棄条項だけでなく戦力放棄も併せて提案した、と記していることであり、これは51年の上院や55年のロサンゼルスにおけるマッカーサー証言が戦争放棄にしか触れていないこととは異なっている。第3に注意すべきは、戦争・戦力放棄によるメリットとして幣原が「軍事費の重圧からの解放」を挙げている点である。幣原は1946年3月6日の憲法改正草案要綱発表の際の首相謹話以降、3月20日の枢密会における経過説明、3月27日の戦争調査会における挨拶、4月22日の枢密院における趣旨説明、8月27日、8月30日の貴族院での発言など、戦争放棄条項について説明する機会がたびたびあったが、その中で、軍事費からの解放による財政的メリットについて触れるのは8月30日が初めてであり、それまでは専ら原爆の開発による戦争被害の巨大さによる軍備の無意味化を戦争・戦力放棄条項の正当化理由として挙げていたのである。もし幣原が1月24日のマッカーサーとの会談において、すでに財政的メリットに気づいていたのであれば、なぜ8月30日に至るまで一度もその論点に触れなかったのか不思議である。
第4に注目すべきは、岸倉松が、幣原首相は以前からそのような考えを持っていたのだと後になって語った、と述べている点である。これは、マッカーサー伝出版の前年(1955年)、笠原重治氏がマッカーサー宛に問い合わせの書簡を送った際、岸が「幣原が戦争放棄条項を憲法に明記してほしいとマッカーサーに進言した」との情報を与えて、その真偽を問い質してきたことを指しているのであろう。(ホイットニーはマッカーサーから回付されてきた笠原の書簡を読み、マッカーサーに代わって返信を書いている。)しかし前回述べた通り、岸はそれとは異なる証言(幣原は憲法条文化までは考えていなかった)もしているのだが、もちろんマッカーサーもホイットニーもそのことは知らなかったであろう。いずれにせよ、ホイットニーは自ら(とマッカーサー)の証言を補強するつもりで岸証言に言及したのだが、その証言は岸自身によって否定されたものなのである。
第5に、ここでは、「マッカーサーにとって戦争廃止は長年の夢であり、戦争を嫌悪する感情は原爆によって頂点に達した」と書かれている。このような理想主義的マッカーサー像は、朝鮮戦争が勃発するや、「朝鮮国連軍」の最高司令官として自ら仁川上陸作戦を敢行し、翌51年3月には、トルーマン大統領の方針に反してまで、原爆使用をちらつかせてトルーマンにより解任されることになる、好戦的なマッカーサー像とはどうしても一致しないものである。
次に、(シリーズ第8回でも触れたが)高柳賢三を団長とする憲法調査会の訪米調査団が1958年にマッカーサーに出した書簡に対するマッカーサーの回答をもう一度振り返っておこう。高柳は次のようにマッカーサーに質問した。
「幣原首相は、新憲法起草の際に戦争と武力の保持を禁止する条文をいれるように提案しましたか。それとも、首相は、このような考えを単に日本の将来の政策として貴下に伝え、貴下が日本政府に対して、このような考えを憲法に入れるよう勧告されたのですか」
これに対するマッカーサーの回答は、「戦争を禁止する条項を憲法に入れるようにという提案は、幣原首相が行ったのです」というものであった。高柳が「戦争と武力の保持を禁止する条文」と、わざわざ2つの禁止事項の提案者を尋ねているにも拘わらず、マッカーサーはあえて後者(戦力放棄=武力禁止)を無視して、前者(戦争放棄)についてしか回答していない。なぜか。マッカーサーにとっても9条は、元々は戦争放棄と戦力放棄を定めた条文だと解釈していたわけだが、シリーズ第10回で見た通り、1950年1月1日以降のマッカーサーにとっては、9条はもはや戦力放棄を定めた条文ではないと解釈変更されていたからである。だから敢えて「戦力放棄」の質問へは回答しなかったのである。
ところが、1964年の1月から6月にかけて朝日新聞で連載され、その後単行本として朝日新聞社から出版された『マッカーサー回想記』(なお、マッカーサーは新聞連載中の4月5日に死去している)の中では(該当箇所の記事が出たのは2月5日)の中で、マッカーサーは幣原とのペニシリン会談の場面を以下のように記述している。
注目すべきは、第1に、この項目が「押しつけ論」を反駁する目的で書かれていること、第2に、戦争放棄だけでなく戦力放棄(軍備全廃)条項も幣原が提案したとされていること、第3に、軍事費をつぎ込む余裕がないと幣原が指摘したこと、第4は、「戦争廃止は長年の夢であり、原爆の完成で戦争を嫌悪する気持は最高度に高まった」とマッカーサーが述べたこと、第5に、幣原は「世界は私たちを夢想家と笑いあざけるかもしれないが、百年後には私たちは予言者と呼ばれますよ」と述べた、ということである。なんと、第1から第4まではホイットニーのマッカーサー伝と同じである。第5点目は、1955年のロサンゼルスの祝賀会で自らが語ったことを繰り返しているだけなので、それを別とすれば、異様なほど類似が見られる。第2点目は、マッカーサーが1951年、55年、58年の証言において触れなかった戦力放棄に触れているという点で異例である。さらに次の二つの文章の類似は極端であろう。
この類似の謎は、マッカーサーが回想記を書く際、ホイットニーのマッカーサー伝を下敷きにしたと考えれば、簡単に解ける。佐々木『戦争放棄条項の成立経緯』によれば、マッカーサーは当初は自伝を残さないつもりで、ホイットニーに多くの資料を提供し、それに基づいたホイットニーがマッカーサー伝を執筆したが、その後心境の変化があったのか、自ら『回想記』を執筆することになった。そのため、『回想記』には、ホイットニーのマッカーサー伝からの引用――というより出典を明記しない剽窃的な引用――が少なくないというのである。マッカーサーの『回想記』には事実誤認や誇張や嘘が多数含まれていることはすでに多くの指摘があるので、史料として使う際には厳密な史料批判は不可欠である。
いずれにせよ、幣原発案説が、様々な矛盾を孕みつつ、マッカーサーとホイットニーを中心に発信されてきたことを確認しておけば、ここでは十分であろう。
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