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【幣原発案説の虚妄(第13回)】幣原発案説の発案者(4)

 毎日新聞が岸倉松及びマッカーサーの証言として幣原発案説を報じた翌年(1956年)、ホイットニーがマッカーサー伝(MacArthur: His Rendezvous with Destiny)を出版した。邦訳はその翌年(1957年)、『日本におけるマッカーサー』と題して毎日新聞社から出版された。その中で、ホイットニーは、1946年1月24日のマッカーサー=幣原会談直後の様子について、次のように記している。

 新憲法に関するさらに重要な点は、有名な戦争放棄条項が、マッカーサー元帥の個人的厳命で日本政府に押しつけられたものであるという非難に関するものであって、この非難は、よく事情に通じているはずの人びと、あるいは定期刊行物によって、しばしば行われたものである。しかし次の事実はこれに最後的な回答を与え、その非難を沈黙させるものと私は信じている。
総司令部の民政局が、憲法改正のための提案原則を書こうと考えつくかなり前のこと、当時の幣原首相は、最高司令官に会見を求め、首相の病気を奇跡的に回復させたペニシリンを提供されたお礼を述べたいと申し入れた。これは、ちょうど松本博士の憲法問題調査委員会が、その草案の討議を始めていた時であって、総司令部の将官連は、ただ、松本委員会の審議の進行状態について、時おりていねいな問い合わせをする以上には差し出なかった。
 幣原首相の会見申し入れは許された。そして1946年1月24日正午、幣原首相が到着するや、私は首相をマッカーサー元帥のオフィスに案内した。私は、オフィスに居残らなかったので、マッカーサー元帥と幣原首相との会談中には、その場に居合わせなかった。しかし、私は幣原首相が2時半に辞去した後、すぐにマッカーサーに会いにはいった。そして会談の前と、あとの彼の顔の表情のコントラストは何か重要なことが起こったことを、すぐ私に感じさせた。
 マッカーサーは、それがどんなことであったかを次のように説明した。幣原首相はペニシリンのお礼をいった後、今度、新憲法が起草される時には、戦争と軍事施設維持を永久に放棄する条項を含むよう提案した。幣原首相は、この手段によって、日本は軍国主義と警察テロの再出現を防ぎ、同時に自由世界の最も懐疑的な人々に対して、日本は将来、平和主義の道を追求しようと意図しているという有力な証拠をさえ示すことができると述べた。さらに幣原首相は、日本はすべての海外資源を失ったのであるから、もし軍事費の重圧から解放されさえすれば、膨張する人口の最低限度の必要を満たす、機会をどうにか持つことができることを指摘した。この問題をマッカーサー元帥と幣原首相のふたりは、2時間半にわたって話し合ったのであった。幣原首相の秘書官岸倉松氏は、幣原首相は、マッカーサー元帥と連絡する前からそのような考えをもっていたのだとあとになって語った
 マッカーサーは、大いに賛成した。国家間の紛争を解決しようとする時代おくれの手段としての戦争を廃止させたいということは、マッカーサーが長年いだいていた燃ゆるような情熱であった。おそらく現存の人で、マッカーサーほど戦争とその破壊を多く見た人は他にないであろう。20を数える戦役の古強者であり、6つの戦争に参加または観戦した人であり、また数千の戦線を生き抜いてきた人であるマッカーサーは、世界のほとんどあらゆる国の兵隊とともに戦い、あるいはこれと敵対して戦った。したがって戦争を嫌悪するマッカーサーの感情は原子爆弾の完成とともに、その頂点に達したのであった。

 まず注意して頂きたいのは、ホイットニーがこの一節を、戦争放棄条項のマッカーサーによる「押しつけ説」に反論するために記している、ということである。次に注目すべきは、幣原が戦争放棄条項だけでなく戦力放棄も併せて提案した、と記していることであり、これは51年の上院や55年のロサンゼルスにおけるマッカーサー証言が戦争放棄にしか触れていないこととは異なっている。第3に注意すべきは、戦争・戦力放棄によるメリットとして幣原が「軍事費の重圧からの解放」を挙げている点である。幣原は1946年3月6日の憲法改正草案要綱発表の際の首相謹話以降、3月20日の枢密会における経過説明、3月27日の戦争調査会における挨拶、4月22日の枢密院における趣旨説明、8月27日、8月30日の貴族院での発言など、戦争放棄条項について説明する機会がたびたびあったが、その中で、軍事費からの解放による財政的メリットについて触れるのは8月30日が初めてであり、それまでは専ら原爆の開発による戦争被害の巨大さによる軍備の無意味化を戦争・戦力放棄条項の正当化理由として挙げていたのである。もし幣原が1月24日のマッカーサーとの会談において、すでに財政的メリットに気づいていたのであれば、なぜ8月30日に至るまで一度もその論点に触れなかったのか不思議である。
 第4に注目すべきは、岸倉松が、幣原首相は以前からそのような考えを持っていたのだと後になって語った、と述べている点である。これは、マッカーサー伝出版の前年(1955年)、笠原重治氏がマッカーサー宛に問い合わせの書簡を送った際、岸が「幣原が戦争放棄条項を憲法に明記してほしいとマッカーサーに進言した」との情報を与えて、その真偽を問い質してきたことを指しているのであろう。(ホイットニーはマッカーサーから回付されてきた笠原の書簡を読み、マッカーサーに代わって返信を書いている。)しかし前回述べた通り、岸はそれとは異なる証言(幣原は憲法条文化までは考えていなかった)もしているのだが、もちろんマッカーサーもホイットニーもそのことは知らなかったであろう。いずれにせよ、ホイットニーは自ら(とマッカーサー)の証言を補強するつもりで岸証言に言及したのだが、その証言は岸自身によって否定されたものなのである。
 第5に、ここでは、「マッカーサーにとって戦争廃止は長年の夢であり、戦争を嫌悪する感情は原爆によって頂点に達した」と書かれている。このような理想主義的マッカーサー像は、朝鮮戦争が勃発するや、「朝鮮国連軍」の最高司令官として自ら仁川上陸作戦を敢行し、翌51年3月には、トルーマン大統領の方針に反してまで、原爆使用をちらつかせてトルーマンにより解任されることになる、好戦的なマッカーサー像とはどうしても一致しないものである。
 
 次に、(シリーズ第8回でも触れたが)高柳賢三を団長とする憲法調査会の訪米調査団が1958年にマッカーサーに出した書簡に対するマッカーサーの回答をもう一度振り返っておこう。高柳は次のようにマッカーサーに質問した。
 「幣原首相は、新憲法起草の際に戦争と武力の保持を禁止する条文をいれるように提案しましたか。それとも、首相は、このような考えを単に日本の将来の政策として貴下に伝え、貴下が日本政府に対して、このような考えを憲法に入れるよう勧告されたのですか」
 これに対するマッカーサーの回答は、「戦争を禁止する条項を憲法に入れるようにという提案は、幣原首相が行ったのです」というものであった。高柳が「戦争と武力の保持を禁止する条文」と、わざわざ2つの禁止事項の提案者を尋ねているにも拘わらず、マッカーサーはあえて後者(戦力放棄=武力禁止)を無視して、前者(戦争放棄)についてしか回答していない。なぜか。マッカーサーにとっても9条は、元々は戦争放棄と戦力放棄を定めた条文だと解釈していたわけだが、シリーズ第10回で見た通り、1950年1月1日以降のマッカーサーにとっては、9条はもはや戦力放棄を定めた条文ではないと解釈変更されていたからである。だから敢えて「戦力放棄」の質問へは回答しなかったのである。
 
 ところが、1964年の1月から6月にかけて朝日新聞で連載され、その後単行本として朝日新聞社から出版された『マッカーサー回想記』(なお、マッカーサーは新聞連載中の4月5日に死去している)の中では(該当箇所の記事が出たのは2月5日)の中で、マッカーサーは幣原とのペニシリン会談の場面を以下のように記述している。

日本の新憲法にある「戦争放棄」条項は、私の個人的な命令で日本に押しつけたものだという非難が、実情を知らない人々によってしばしば行われている。これは次の事実が示すように、真実ではない。
 旧憲法改正の諸原則を、実際に書きおろすことが考慮されるだいぶ前のこと、幣原首相は、当時日本ではまだ新薬だったペニシリンをもらって、病気がよくなった礼を述べるため、私に会いたいといってきた。それはちょうど松本博士の憲法問題調査委員会が憲法改正案の起草にとりかかろうとしている時だった。
幣原男爵は1月24日(昭和21年)の正午に、私の事務所をおとずれた。私にペニシリンの礼を述べたが、そのあと私は男爵がなんとなく当惑顔で、何かをためらっているらしいのに気が付いた。私は男爵に何を気にしているのか、とたずね、それが苦情であれ、何かの提議であれ、首相として自分の意見を述べるのに少しも遠慮する必要はないといってやった。
 首相は、私の軍人という職業のためにどうもそうしにくいと答えたが、私は軍人だって時折りいわれるほど勘がにぶくて頑固なのではなく、たいていは心底はやはり人間なのだと述べた。
 首相をそこで、新憲法を書上げる際にいわゆる「戦争放棄」条項を含め、その条項では同時に日本は軍事機構は一切もたないことをきめたい、と提案した。そうすれば、旧軍部がいつの日かふたたび権力をにぎるような手段を未然に打消すことになり、また日本にはふたたび戦争を起す意志は絶対にないことを世界に納得させるという、二重の目的が達せられる、というのが幣原氏の説明だった。
 首相はさらに、日本は貧しい国で軍備に金を注ぎ込むような余裕はもともとないのだから、日本に残されている資源は何によらずあげて経済再建に当てるべきだ、とつけ加えた。
 私は腰が抜けるほどおどろいた。長い年月の経験で、私は人を驚かせたり、異常に興奮させたりする事柄にはほとんど不感症になっていたが、この時ばかりは息もとまらんばかりだった。戦争を国際間の紛争解決には時代遅れの手段として廃止することは、私が長年情熱を傾けてきた夢だった。
 現在生きている人で、私ほど戦争と、それがひき起す破壊を経験した者はおそらく他にあるまい。20の局地戦、6つの大規模な戦争に加わり、何百という戦場で生残った老兵として、私は世界中のほとんどあらゆる国の兵士と、時にはいっしょに、時には向かい合って戦った経験をもち、原子爆弾の完成で私の戦争を嫌悪する気持は当然のことながら最高度に高まっていた。
 私がそういった趣旨のことを語ると、今度は幣原氏がびっくりした。氏はよほどおどろいたらしく、私の事務所を出る時には感きわまるといった風情で、顔を涙でくしゃくしゃにしながら、私の方を向いて「世界は私たちを非現実的な夢想家と笑いあざけるかも知れない。しかし、百年後には私たちは予言者と呼ばれますよ」といった。

 注目すべきは、第1に、この項目が「押しつけ論」を反駁する目的で書かれていること、第2に、戦争放棄だけでなく戦力放棄(軍備全廃)条項も幣原が提案したとされていること、第3に、軍事費をつぎ込む余裕がないと幣原が指摘したこと、第4は、「戦争廃止は長年の夢であり、原爆の完成で戦争を嫌悪する気持は最高度に高まった」とマッカーサーが述べたこと、第5に、幣原は「世界は私たちを夢想家と笑いあざけるかもしれないが、百年後には私たちは予言者と呼ばれますよ」と述べた、ということである。なんと、第1から第4まではホイットニーのマッカーサー伝と同じである。第5点目は、1955年のロサンゼルスの祝賀会で自らが語ったことを繰り返しているだけなので、それを別とすれば、異様なほど類似が見られる。第2点目は、マッカーサーが1951年、55年、58年の証言において触れなかった戦力放棄に触れているという点で異例である。さらに次の二つの文章の類似は極端であろう。

「おそらく現存の人で、マッカーサーほど戦争とその破壊を多く見た人は他にないであろう。20を数える戦役の古強者であり、6つの戦争に参加または観戦した人であり、また数千の戦線を生き抜いてきた人であるマッカーサーは、世界のほとんどあらゆる国の兵隊とともに戦い、あるいはこれと敵対して戦った」(マッカーサー伝)
 
「現在生きている人で、私ほど戦争と、それがひき起す破壊を経験した者はおそらく他にあるまい。20の局地戦、6つの大規模な戦争に加わり、何百という戦場で生残った老兵として、私は世界中のほとんどあらゆる国の兵士と、時にはいっしょに、時には向かい合って戦った経験をもち…」(マッカーサー回想記)

 この類似の謎は、マッカーサーが回想記を書く際、ホイットニーのマッカーサー伝を下敷きにしたと考えれば、簡単に解ける。佐々木『戦争放棄条項の成立経緯』によれば、マッカーサーは当初は自伝を残さないつもりで、ホイットニーに多くの資料を提供し、それに基づいたホイットニーがマッカーサー伝を執筆したが、その後心境の変化があったのか、自ら『回想記』を執筆することになった。そのため、『回想記』には、ホイットニーのマッカーサー伝からの引用――というより出典を明記しない剽窃的な引用――が少なくないというのである。マッカーサーの『回想記』には事実誤認や誇張や嘘が多数含まれていることはすでに多くの指摘があるので、史料として使う際には厳密な史料批判は不可欠である。
 
 いずれにせよ、幣原発案説が、様々な矛盾を孕みつつ、マッカーサーとホイットニーを中心に発信されてきたことを確認しておけば、ここでは十分であろう。

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