見出し画像

歴史修正主義の30年⑫ドイツにおける「過去の克服」

 統一ドイツの首都ベルリンの中心部にあるブランデンブルク門から南に向かって3分も歩くと、サッカーコート2面分以上の土地に、2700余りの石の立方体が林立する異様な光景が目に飛び込んでくるだろう。灰色の棺が並んでいるかのように見えるこの場所は、ナチスによって殺された600万人のユダヤ人を追悼するモニュメント、「虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑」(通称「ホロコースト記念碑」)である。


2700万ユーロ(約39億円)の費用と6年の歳月をかけて2005年に完成したこの記念碑の地下には「情報センター」があり、ホロコーストの犠牲者一人ひとりの名前と生没年が展示されている。日本で言えば、日比谷とか有楽町といった東京のど真ん中に、南京大虐殺や従軍慰安婦の記念施設があるようなものである。さらにそこから15分ほど歩いたところに「テロのトポグラフィー」と呼ばれる資料館がある。

ここはナチ時代の国家秘密警察(ゲシュタポ)と親衛隊(SS)、国家保安本部(SD)のあった場所である。いわば国家のテロ機構が集中していた場所である。ホロコースト記念碑が被害者の追悼施設であるのに対し、こちらは加害者としての記憶を留めるための施設である。こうしたナチ犯罪の記念館やその犠牲者の追悼のための記念碑・記念施設等はベルリンに限らず、ドイツ各地で見られる。

 街路を歩けば、歩道に埋め込まれた10センチ四方の真鍮のプレートを見かけるが、そこにはホロコーストの犠牲者の氏名や生没年などが刻まれており、ナチ犯罪と迫害の犠牲者を忘れないようにしている。この「躓きの石」は2000地域に約9万個が敷設されていると言われている。このような、自国が犯した罪とその被害者の記憶を継承しようとするドイツの文化は「想起の文化(Erinnerungskultur)」と呼ばれており、様々な建造物やモニュメント、メディア等を通して日常生活に溶け込んでいる。自国が植民地支配を行い多大な被害を与えた国に設置された「慰安婦像」を撤去せよと大騒ぎしている日本政府と比べて何という違いだろうか。

 こうした違いはもちろん、政治家の発言にも顕著に表れている。安倍首相が70年談話で、また日韓「合意」を受けて、「私たちの子や孫、その先の世代に謝罪し続ける宿命を負わせるわけにはいかない」と語ったことはすでに述べたが、ドイツでは、ホロコースト記念碑が完成する2日前の2005年5月8日、ケーラー大統領が連邦議会で演説し、ナチズムの悪とその惨禍について、「私たちはこれらすべての苦痛とその原因を心に刻み、目覚めさせておく責任を負っています。私たちは、こうしたことが2度と繰り返されないようにしなければならないのです。この責任に終わりはありません」と述べている。ドイツの政治指導者によるこうした姿勢は一貫しており、その後も首相や大統領により繰り返し表明されている。例えば、2019年9月1日、シュタインマイヤー大統領はポーランドで開かれた第2次大戦開戦80周年記念式典で演説し、「ドイツ連邦共和国大統領として、私は皆さんに保証します。私たちは忘れない、と。心に刻むことを望み、心に刻んでいく、と。私たちはわが国の歴史によって課せられた責任を引き受けます。・・・私は私たちの責任に終わりがないことを認めます」と語っている。また同年12月6日、メルケル首相は初めてアウシュヴィッツを訪問した際、「犯罪を記憶すること、加害者を名指すこと、そして犠牲者をその尊厳において記念することは、終わりのない責任です。この責任に交渉の余地はなく、それはわが国に不可分に属しているものです」と述べている。

 しかしなぜ、ドイツの政治家たちは「終わりのない責任」を認めるのだろうか。それはメルケル首相が2008年3月18日、イスラエル国会(クネセト)で語ったように、「ドイツの歴史の中の道徳的な破局について、ドイツが永久に責任を認めることによってのみ、我々は人間的な未来を形作ることができます。つまり我々は、過去に対して責任を持つことにより、初めて人間性を持つことができる」と彼らが考えているからである。またメルケルは、2019年12月には、「この責任に自覚的であることは、我が国のナショナル・アイデンティティの確固たる一部であり、私たちが何者であるかを、啓蒙されたリベラルな社会、民主的な法治国家として定義するものなのです」とも語っている。さらに2020年5月8日、シュタインマイヤー大統領は、「これを耐えがたいと思う者、終止符を求める者は、戦争とナチス独裁の災禍を記憶から排除しようとするのみならず、私たちが成し遂げてきたあらゆる善きものの価値を失わせ、我が国における民主主義の中核的本質すら否定してしまうのです」と述べたうえで、「過去を想起する営みは重荷ではありません。想起しないことこそ重荷になるのです。責任を認めることは恥ではありません。責任の否定こそ、恥ずべきことなのです」と語っている。

 つまり、「想起の文化」を推進しているドイツ人は、過去に対して責任を持つことによってはじめて人間性を持つことができ、人間的な未来を形成することができると信じるとともに、過去の不正義に対する責任を自覚することこそが、啓蒙されたリベラルで民主的な法治国家としてのドイツ連邦共和国の本質であると確信しているのである。それゆえ、こうした記憶を排除しようとする試みは、彼らが戦後成し遂げてきた成果を失わせ、ドイツ連邦共和国における民主主義の中核的本質すら否定することになる。したがって、過去を想起する営みは重荷ではなく、責任を認めることは恥ではない。逆に責任を否定することこそ恥ずべきことだと確信するがゆえに、「終わりなき責任」を進んで引き受けようとしているのである。(このシリーズはいったん休載し、後日再開します。)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?