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【幣原発案説の虚妄(第8回)】高柳賢三の幣原発案説批判(1)

 堀尾輝久氏と言えば、日本教育学会会長、日本教育法学会会長、総合人間学会会長などを歴任された教育学会の大御所であり、教育学には門外漢の私ですら、何十年も前から仰ぎ見るような存在だと認識していた。であるから、教育学部出身者や教員などにとって、堀尾氏の影響力は測り知れないものがあるのではないだろうか。その堀尾氏が繰り返し憲法9条幣原発案説を唱えているので、特に憲法制定史に詳しくない人にとっては、疑うべき理由など何もないと思ってしまっても不思議ではないだろう。
 
 その堀尾氏が「幣原説をとるようになったのは憲法調査会の会長高柳賢三の仕事を通してであった」と明言している(『地球時代と平和への思想』259頁)。高柳賢三と言えば、著名な英米法学者であるが、1957年に憲法調査会会長に就任後、同調査会が64年に最終報告書を出すまでの間に収集した、憲法制定過程に関する膨大な資料と証言を最も精査した人物の一人であるはずであり、その人が「調査会の集めえたすべての証拠を総合的に熟視してみて、わたくしは幣原首相の提案と見るのが正しいのではないかという結論に達している」(高柳『天皇・憲法第九条』)と述べているのだから、これ以上の説得力はないように思われるかもしれない。では、高柳は具体的にどのような根拠によって幣原発案説を唱えているのであろうか。高柳の所論を『天皇・憲法第九条』から引用してみよう。

戦争放棄に関する規定を新憲法に入れるという方針は、1946年1月24日マ元帥と幣原首相との会談に起因するものといえる。1月24日のこの会見は、わが国では、幣原首相が肺炎治療のため、マ元帥から贈られたペニシリンのお礼のためであったと伝えられているが、マ元帥によれば、幣原首相は、憲法に関してこの日の会見を求めてきたのである。この会議には通訳もなかったし、またマ元帥の側近ホイットニー准将も立会ってはいないので、2人きりの会談であった。そうして、この会見直後、マ元帥がホイットニー准将に語ったとされることがホイットニー著“マッカーサー”のうちにやや詳細に書かれている。また、マ元帥のわたくしへの手紙のうちで、マ元帥は「戦争放棄を新憲法に入れるという幣原の提案を聞いて、初めは吃驚した。幣原はわたくしが職業軍人であるので、その提案がどう受取られるか気づかっているようであったが、わたくしがこれに承諾を与えると幣原は安心した顔付きになったのが極めて印象的だった」といっている。また元帥は米国上院での証言中、感激し立上がって幣原氏にだきついたといっているが、幣原もマ元帥がだきついてきたので吃驚したと、その無二の親友大平駒槌氏に語ったことが、大平氏の息女のとったメモのうちに記録されており、この点は一致している。とにかくこの会談で、戦争放棄のことを新憲法のうちに入れる方針がきめられたことはたしかである。

 以上の引用に見るように、高柳は9条2項の戦力放棄については触れていないので、前回私が行った分類では「戦争放棄を憲法に入れたいと幣原が提案した」という「広義の」幣原発案説に含まれるものである。ここで高柳が具体的に上げている史料は、①ホイットニーの『マッカーサー』(以下、マッカーサー伝)、②マッカーサーから高柳への書簡、③マッカーサーの米上院での証言、④大平氏の息女のメモ(いわゆる「羽室メモ」)の4つである。高柳によれば、1月24日の幣原=マッカーサー会談の際、幣原が戦争放棄条項を憲法に入れたいと提案し、マッカーサーが承認したことがこれら4つの史料によって裏付けられ、とりわけ③と④では幣原の提案を聞いたマッカーサーが感激して幣原に「だきついた」と記録されているという。本当かどうか、一つずつ確認していこう。
 
 まず①ホイットニーによるマッカーサー伝の該当箇所の記述は以下の通り。

1946年1月24日正午、幣原首相が到着するや、私は首相をマッカーサー元帥のオフィスに案内した。私は、オフィスに居残らなかったので、マッカーサー元帥と幣原首相との会談中には、その場に居合わせなかった。(中略)
 マッカーサーは、それがどんなことであったかを次のように説明した。幣原首相はペニシリンのお礼をいった後、今度、新憲法が起草される時には、戦争と軍事施設維持を永久に放棄する条項を含むよう提案した。幣原首相は、この手段によって、日本は軍国主義と警察テロの再出現を防ぎ、同時に自由世界の最も懐疑的な人々に対して、日本は将来、平和主義の道を追求しようと意図しているという有力な証拠をさえ示すことができると述べた。(中略)この問題をマッカーサー元帥と幣原首相のふたりは、2時間半にわたって話し合ったのであった。幣原首相の秘書官岸倉松氏は、幣原首相は、マッカーサー元帥と連絡する前からそのような考えをもっていたのだとあとになって語った。
 マッカーサーは、大いに賛成した。

 ここでは幣原は戦争放棄だけでなく、戦力放棄も語ったことになっている。
 
 次に②マッカーサーから高柳への書簡(シリーズ第6回で紹介)を見てみよう。
 
 「幣原首相は、新憲法起草の際に戦争と武力の保持を禁止する条文をいれるように提案しましたか。それとも、首相は、このような考えを単に日本の将来の政策として貴下に伝え、貴下が日本政府に対して、このような考えを憲法に入れるよう勧告されたのですか」という1958年12月10日付の高柳からマッカーサーへの質問に対する同月15日付のマッカーサーの回答は、
 「戦争を禁止する条項を憲法に入れるようにという提案は、幣原首相が行ったのです。首相は、わたくしの職業軍人としての経歴を考えると、このような条項を憲法に入れることに対してわたくしがどんな態度をとるか不安であったので、憲法に関しておそるおそるわたくしに会見の申込をしたと言っておられました。わたくしは、首相の提案に驚きましたが、首相にわたくしも心から賛成であると言うと、首相は、明らかに安どの表情を示され、わたくしを感動させました」というものだった。
 高柳は、「武力保持禁止条文」は誰が提案したのか、という自らの質問にマッカーサーが答えていないことに注目するのではなく、むしろ質問とは関係のない後段に着目したようである。いずれにせよ、マッカーサーはホイットニー著と異なり、(質問事項であったにもかかわらず)戦力放棄条項を幣原が提案したとは述べていない。
 
 次いで、③マッカーサーの上院軍事外交委員会における1951年5月5日の証言は以下の通りである。

日本国民は、世界中の他のいかなる国民にもまして、原子戦争がどんなものであるかを理解しております。かれらにとっては、それは理論上のものではありませんでした。かれらは、現実に死者の数を数え、死者を葬ったのであります。かれらは、かれら自身の発意で、戦争を禁止する旨の規定を憲法に書き込んだのであります。
 日本の内閣総理大臣幣原氏――この人は大へん賢明な老人でありましたが最近(注:3月10日)亡くなられました――この幣原氏がわたくしのところへやって来てこう申しました。
 「これはわたくしが長い間考え、信じてきたことですが、この問題を解決する道は唯一つ、戦争をなくすことです。」
 かれはまた言いました。「軍人であるあなたにわたくしがこういうことを申し上げてもとうていとり上げていただくわけにまいらないことはわたくしも十分に分かっておりますので、はなはだ申し上げにくい次第ですが、とにかく、わたくしは、現在われわれが起草している憲法の中にこのような規定を入れるように努力したいのです。」
 わたくしは、これを聞いて思わず立ち上がり、この老人と握手しながら、これこそ最大の建設的な歩みの一つであると思うと言わないではいられなかったのであります。
 さらにわたくしはそのとき申しました。あるいは世の人々はあなたをあざけるであろう。――諸君の御承知のように現在は暴露の時代であり、皮肉の時代であります。――世人はそれを受け入れないであろう。それはあざけりの種になろう――本当にそうなったのでありますが――。それを貫きとおすには強い道徳的勇気を要するであろう。そして最後にはその線を保持することができないかも知れないというようなことを申したのであります。しかしながら、わたくしは、この老人を激励いたしました。そして、かれらは、あの規定を書き込むことになったのであります。

 かなり詳細な証言ではあるが、ここでも幣原が戦争放棄条項を憲法に入れたいと語ったとは述べられているが、戦力放棄条項については触れられていない。この点は高柳宛書簡と同じである。そして、こここではマッカーサーが幣原と「握手」をしたとは書かれているが、「だきついた」とはどこにも書かれていない。
 
 最後に④羽室メモにおける1月24日の幣原=マッカーサー会談に関する記述を見てみよう。羽室メモとは、大平駒槌顧問官が親友である幣原から聞いた話を娘の羽室ミチ子に口述させたものである。

 それで病気の礼を言いに、1月末マッカーサーを尋ねた時3時間程二人だけでいろいろの事を話合った。……この日はこちらから先に頭からマッカーサーに自分は年をとっているのでいつ死ぬかわからないからどうか生きている間にどうしても天皇制を維持させてほしいと思うが協力してくれるかとたずねた。これに対してマッカーサーは……天皇制を維持させる事に協力し、又その様に努力したいと思っていると返事した。
 そこで幣原は……ホット一安心したらしい。つづいてあれこれ話を始め、かねて考えた世界中が戦力をもたないという理想論を始め戦争を世界中がしなくなる様になるには戦争を放棄するという事以外にないと考えると話し出したところがマッカーサーは急に立ち上がって両手で手を握り涙を目にいっぱいためてその通りだと言い出したので幣原は一寸びっくりしたと言う。
 幣原は更に世界から信用をなくしてしまった日本にとって戦争をしないと言う様な事をハッキリと世界に声明する事、又それだけが敗戦国日本を信用してもらえる唯一の堂々と言える事ではないだろうかと言う様な事も話して大いに二人は共鳴してその日はわかれたそうだ。

 これはマッカーサーの証言や書簡、ホイットニーのマッカーサー伝に既述とは相当に異なっている。ここではまず幣原が天皇制の維持についてマッカーサーに協力要請したことが述べられた後、日本が戦争放棄を声明するといった話を幣原がしたことが語られている。それに対して、マッカーサーは「急に立ち上がって両手で手を握り涙を目にいっぱいためて」いたことは語られているが、「だきついた」とは書かれていない。しかし、ここで重要なのは、羽室メモには憲法のケの字も語られていない、ということである。つまり、
①マッカーサー伝では、幣原は戦争放棄と戦力放棄を憲法に入れることを提案し、マッカーサーが賛成した
 ②マッカーサー書簡では、幣原は戦争放棄を憲法に入れる提案を行(戦力放棄については、質問に無回答)、マッカーサーは賛成した
 ③マッカーサー証言では、幣原は戦争放棄を憲法に入れる提案を行い、マッカーサーは握手をし、激励した
 ④羽室メモでは、幣原は天皇制維持についてマッカーサーに協力を求めた後、戦争放棄について語り出したところ、マッカーサーは目に涙をためて握手をした(憲法の話はしていない)
 というように、マッカーサー証言と書簡は基本的に同じであるが、マッカーサー伝と羽室メモはそれぞれ異なっている。つまり、戦争放棄と戦力放棄を憲法条項化するという提案を行ったと述べている(狭義の幣原発案説)のはマッカーサー伝だけで、マッカーサー証言と書簡は戦争放棄を憲法条項化するという提案を行った(広義の幣原発案説)とは述べているが、戦力放棄を憲法条項化するとは(書簡ではあえて質問を無視して)述べていない。羽室メモにいたっては、戦争放棄の話はしたものの、憲法に入れるなどという話はしていないことになる。このように、それぞれ内容の異なる史料をもとに、「一致している」から「とにかくこの会談で、戦争放棄のことを新憲法のうちに入れる方針がきめられたこと」は「たしかである」とは到底言えない。特に、マッカーサー伝(ホイットニー証言とも言い換えられる)・マッカーサー証言・書簡と羽室メモの間には、憲法条項化の提案を幣原が行ったか否かという点で大きな相違がある。また前者には天皇制維持の話が出てこないが、後者には天皇制維持の話が出てきている、という違いもある。『昭和天皇実録』には、何をし、誰と会ったか(ときにはどんな話をしたか)ということが1日単位で細かく書かれているが、1946年1月25日の項には、「内閣総理大臣幣原喜重郎に謁を賜い、奏上を受けられる。幣原は、昨日連合国最高司令官ダグラス・マッカーサーと会見し、天皇制維持の必要、及び戦争放棄等につき懇談を行った」と記載があるので、羽室メモの正しさを裏付けている。なお、羽室メモが取られたのは1946年6月以前(ただし一度紛失し、その後1955年に復元している)、マッカーサーの上院証言は1951年5月5日、ホイットニーのマッカーサー伝の原著出版は1956年、マッカーサーの高柳宛書簡は1958年12月である。マッカーサーとホイットニーの証言については、これを信頼できない理由があるのだが、これについては別の記事で詳しく触れることにしたい。(第9回へ続く)

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