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【幣原発案説の虚妄(第7回)】幣原発案説とは何か

 もしこのシリーズをお読み下さっている奇特な方がいらっしゃったら、今さらで、申し訳ないのですが、私がこのシリーズで批判している「幣原発案説」とは何であるのか、その定義をはっきりさせておきたい。本来なら、最初に明記しておくべき問題ではあったのだが、あまり体系性を意識することなく、気になるテーマから気ままに書き始めてしまったために、批判対象の明確化という意味では重要な今回の記事を今頃書くことになってしまったが、ご容赦頂きたい。もっとも、幣原発案説の提唱者自身が、「幣原発案説」の定義を行っている例は見たことがない。
 
 周知のことではあるが、憲法9条1項は「戦争放棄」を、2項は「戦力不保持・交戦権否認」を定めている。戦後日本で憲法9条が改憲派と護憲派、保守派と革新派(リベラル)を分断する大きな争点であり続けたのは、9条2項のせいである。もし9条が1項だけであれば、おそらくは自衛戦争は容認したものと解釈され、現代世界においては別に珍しくもない憲法ということになるから、自衛隊や安保条約をめぐる憲法訴訟(恵庭訴訟、長沼訴訟、砂川訴訟、百里基地訴訟など)が起こされることもなく、これほど大きな論争が70年以上にわたって続くことは決してなかったであろう。改憲派が目の敵にしてきたのは主に2項であったし、護憲派の多くが日本国憲法の先進性として誇ってきたのも2項のゆえであった。もっとも最近では、護憲派の中にも、自衛隊や安保条約を容認し、専守防衛は認められるという“修正主義的”護憲派が増えてきているので、彼らにとっては9条2項は特別の意味を持たなくなっているのかもしれないが、戦後長期にわたって、9条2項は戦力を禁止しており、それゆえ自衛隊は違憲であり、自衛戦争も禁止されている、というのが憲法学説の通説であり、それゆえに護憲派の多くが日本国憲法を特別視してきたのである。ただ、1950年に警察予備隊が生まれ、52年に日米安保条約が締結され、保安隊(52年)、自衛隊(54年)、新安保条約(60年)、日米ガイドライン(78年)、新ガイドライン(97年)、アフガン戦争(2001年)、イラク戦争(03年)への後方支援のための海外派兵、集団的自衛権の行使容認(14年)、ガイドラインの再改定(15年)、安保法制(15年)、「安保三文書」改定(22年)、防衛予算の倍増方針(同)、敵基地攻撃容認(同)と、とめどなく9条からの現実の乖離が進む中で、憲法学者や護憲派の中には、この矛盾に耐え切れず、「自分の側からの歩み寄りによって埋めて行こう」(丸山眞男)とする人が増えていることは事実である。それゆえ、2項の特殊性(特別性)が限りなく曖昧化されつつあるのが現状ではあるが、それでもなお政府は、2項が「戦力を放棄したものであり、自衛隊は自衛のための必要最小限度の実力であって、9条2項の禁止する“戦力”には当たらない」という解釈を未だに変えていないということには注意が必要である(たぶん、此のこと自体を知らない人も増えてきているとは思うが)。ともあれ、ここで注意をしてほしいのは、日本国憲法が制定された当時はもちろん、それ以後もかなり長い間、2項は世界に類例を見ない、自衛のための戦力も放棄した画期的な(もしくは非常識な)規定である、というのが、改憲派・護憲派を問わず、日本社会のコンセンサスになっていた、ということである。
 
 さて、憲法9条の元になったのが、1946年2月13日に日本政府がGHQから手交され、基本原則の受け入れを要請されたGHQ草案の第8条であり、その元になったのが、マッカーサーが同年2月3日、民政局員に憲法草案の起草を命じるにあたって示した3原則(マッカーサー・ノート)の第2原則であった。その10日ほど前の同年1月24日、マッカーサーは幣原と3時間ほど会見しているのだが、問題は、そのときに何が話し合われたのか、である。幣原が戦争放棄について語ったことは、信頼できる証言があるので、間違いないと見ていいだろう。問題は、幣原が9条2項のような自発的「戦力放棄」についても語ったのか、ということと、さらにはそれらを憲法条項に入れるという話までしたのか、ということである。可能性としては、①憲法には触れず、戦争放棄についてのみ語った、②憲法には触れず、戦争放棄と戦力放棄について語った、③戦争放棄を憲法条項に入れたいと語った、④戦争放棄と戦力放棄を憲法条項に入れたいと語った、の4通りの可能性が考えられる。「幣原発案説」とは、このときの幣原の提案に賛同したマッカーサーが3原則に戦争放棄・戦力放棄を定めた第2原則を入れることを決めた、というものであるから、憲法について触れていない①や②ではなく、戦力放棄に触れていない③でもなく、幣原は④、すなわち戦争放棄と戦力放棄を憲法条項化することを提案し、マッカーサーの賛同を得た、というものでなければならない。つまり、厳密に「幣原発案説」と呼びうるものは④だけである。
 
 しかし、このように定義をすると、論敵のストライクゾーンを故意に狭く設定しているのではないかと思う人がいるかもしれないが、よく考えて頂ければ、決してそうではないことがわかると思う。②のように、憲法に触れずに単に理想として戦争放棄や戦力放棄を語ることと、それを憲法条項化することとの間には、法的・政治的意味合いにおいて、天と地ほどの相違がある。また、③のように戦争放棄のみを憲法条項に入れたとしても、ただ単に侵略戦争を禁止するというだけであれば、国連憲章によって第2次大戦後はすべての国が当然守るべきことであるから、何ら特別な意味を持たない。④のように戦力放棄を憲法で規定して初めて、重大な意味が生じてくるのである。したがって、「幣原発案説」が、幣原が9条の発案者であると主張している以上、その意味は、幣原がマッカーサーに④のような内容を提案した、ということでなければならないのは明らかであろう。しかし、仮に9条の意味を(現在多くの護憲派がそうし始めているように)漠然とした「戦争放棄」一般に拡大(希釈)解釈するならば、④だけでなく③の場合も含めて、「広義」の「幣原発案説」と呼ぶことも不可能ではないかもしれない。つまり、厳密な「狭義」の「幣原発案説」が④であるのに対して、③と④を合わせて「広義」の「幣原発案説」と呼ぶことも、一応可能ではある。私は、④はもちろん③も②もなかったと考えているが、②を積極的に否定する証明は困難なのに対し、③や④を否定する証拠は色々とあるので、厳密な(「狭義」の)「幣原発案説」を批判することを主眼としつつ、「広義」の「幣原発案説」をも併せて批判することになるだろう。
 
 なお、③や④で言う「憲法」とは、当時日本政府が準備中であった憲法草案に入れることを幣原が提案した、という意味である。現にマッカーサーの証言や『回想記』、ホイットニーのマッカーサー伝などではそう語っている。これに対して、このとき幣原がマッカーサーに話したのは、日本側で準備中の憲法に書き込むといった話ではなく、GHQの側でそのような憲法案を作って日本側に押しつけて欲しいと依頼したのだ、という説がある。これが「平野文書」およびそれに依拠した「幣原発案説」であり、依頼内容は戦争放棄と戦力放棄の双方である。④と区別するためには、「幣原発案・押しつけ依頼説」(④’)とでも呼ぶのが正確だと思うのだが、彼ら自身は決してそういう言い方をせず、この場合も単に「幣原発案説」と呼んでいるようだ。今後、議論の文脈によって、どうしても④と区別する必要が出てきた場合は、「平野=幣原発案説」(④’)と呼ぶことにしよう。
 
 ここで、その後の現実の経緯と照らし合わせるとき、仮に1月24日に③か④のような会話がなされたとしても、その後現実には幣原は松本委員会に対してそのような提案をした形跡はなく、逆にマッカーサーは自ら民政局に憲法草案作成の指示を行っているのだから、「幣原発案説」が幣原の「発案」とか、幣原とマッカーサーの「合意」と言っているのはどうなってしまったのか、当然疑問が生じるのだが、「幣原発案説」はこういう初歩的な疑問にさえ答えてくれない。その点、「平野=幣原発案説」は、一見うまく説明しているかのように見えるが、果たして戦争放棄と戦力放棄(平野文書ではこれに加えて象徴天皇制も)を押しつけてもらいたいばかりに、憲法全文を起草して押しつけてくれるようにと、それほど大変なことを果たして幣原はマッカーサーに頼めたのか、マッカーサーもそんな大胆な依頼をおいそれと引き受けたのか、という謎にはやはり答えてくれない。いや、幣原が押しつけを依頼したのは戦争放棄と戦力放棄(加えて象徴天皇制)だけだったのだが、マッカーサーの方で勝手に憲法全文の草案を作ったのだというのなら、なぜ依頼内容とマッカーサー側の作業内容とに大きなギャップがあるのか、やはり誰も説明してくれないのである。
 
 このシリーズでは「幣原発案説」(④、③および④’)を批判していくわけであるが、批判以前に「幣原発案説」はその主張内容それ自体の中に説明できない(もしくは誰もしていない)ことが数多く含まれている点をまず指摘しておきたい。(第8回へ続く)

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