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オスロ合意とは何だったのか

 ガザ保健省が昨日(2月29日)発表したところによると、ガザの死者は3万人を超え、負傷者は7万人を超えた。瓦礫の下に埋まったままのご遺体の数は誰にもわからない。
 また、イスラエル軍は同日朝、ガザ市で人道支援の食糧を求める人々を攻撃し、104人が死亡、760人が負傷したという。
 さらに、国連人道問題調整事務所(OCHA)によると、ガザの人口約230万人の4分の1に当たる57万6千人が「飢餓寸前の状態」にあり、感染症の流行は子どもを中心に深刻化しているとのことだ。ガザの地獄は日々最悪を更新し続けている。
 
 さて、現在進行中のイスラエルによるジェノサイドのきっかけ(口実)となったハマスによる奇襲攻撃が起きた昨年は、今日のパレスチナ人の苦境の原点となったナクバ(大破局)=イスラエルによる民族浄化から75年、第4次中東戦争から50年、オスロ合意から30年の節目の年であった。早尾貴紀氏は、ハマスが強く抵抗している対象こそオスロ体制であるので、この30年間を問い直す必要がある、と『現代思想』2月号の鼎談(「パレスチナと第三世界」)の中で述べている。そこで、オスロ合意とは何だったのか、改めて振り返っておこう。
 
 まず、教科書的な説明としては次のようになるだろう。
 1992年、イスラエルはイツハク・ラビン労働党政権の下、ノルウェーのオスロでPLOとの間で秘密交渉を開始し、93年9月13日、クリントン米大統領の仲介により、ホワイトハウスでラビン首相とアラファトPLO議長が「パレスチナ暫定自治合意(オスロ合意)」に調印した。5年間の暫定期間を設けて、西岸とガザにパレスチナ自治政府を置き、イスラエル軍は占領地から撤退する。その間に恒久的地位問題(エルサレムの帰属、国境線の画定、パレスチナ難民の帰還、入植地問題)に取り組み、最終益和平合意を結ぶ、というのがその内容であったが、調印当初からパレスチナ人の内部から屈辱的な和平合意だとして批判が噴出し、合意賛成派のファタハと反対派のハマスとの対立が深まった。
 翌94年には、アメリカ系ユダヤ人の過激派がヘブロンのモスクで礼拝中のパレスチナ人に銃を乱射して29名を殺害、150名以上を負傷させる事件(ヘブロン事件)も起きたものの、5月にはガザと西岸のエリコでの先行自治協定(カイロ協定)に調印し、パレスチナ自治政府が誕生した。
 さらに翌95年の9月には西岸6都市と450町村に自治区を拡大するパレスチナ自治拡大協定(オスロⅡ合意)が結ばれるが、1カ月余り後の11月4日、ラビン首相が右翼過激派のユダヤ人青年により暗殺され、和平交渉は暗礁に乗り上げた。
 その後、ネタニヤフ・リクード党政権の時期を経て、2000年7月にはクリントン米大統領がバラク・イスラエル首相とアラファト議長を招いてキャンプ・デーヴィッドで直接交渉を行ったりもしたが、合意には至らず、同年9月28日にシャロン・リクード党党首が武装警官とともにエルサレム旧市街のイスラム教徒地区への訪問を強行したことに抗議する第2次インティファーダがパレスチナ全土に拡大して、和平プロセスは完全に崩壊した。
 
 以上が、オスロ合意に関する簡単な教科書的説明であり、その最終的目標は二国家解決策であると一般には思われている。しかし、『現代思想』2月号で鼎談した金城美幸氏や早尾貴紀氏によれば、こうした理解は根本的な誤解であるようだ。以下、2人の重要発言を抜粋して引用する。
 
 
金城 (1990年の)マドリード(会議)で主張した二国家解決の実現を妥協することで成立したのが、PLOがサインしたオスロ合意です。この合意で認められたのは限定的な自治だけなのにもかかわらず、このときPLOとイスラエルが相互承認をしたことで、オスロ合意は「二国家解決案」として歓迎されました。しかし、この国際社会の認識は、パレスチナ人が取りうる政治的な選択肢を狭める結果になりました。オスロ合意は二国家解決案だとの幻想が維持され、それが唯一可能な解決策とされたため、オスロ合意への反対者は和平反対派の「テロリスト」と見做されるようになったからです。…その意味で、オスロ合意はパレスチナ解放にとって大きな障害になっています。
 
早尾 やはりオスロ合意は壮大な罠だったと言えるでしょう。(……)イスラエルが本気で二国家解決を考えているなら、せめて入植活動は93年の合意時点で凍結しないと筋が通らないにもかかわらず、それ以降どの政権も入植活動を止めたことはなく、オスロ合意の時点より入植者数は約3倍になっています。
 しかしながら、オスロ体制が国際社会の約束事になってしまっている以上、オスロ体制を批判する者は「和平の敵」であり「テロリスト」であるというレッテルが貼られてしまいます。その結果が、西岸のファタハとガザのハマースというパレスチナ自治政府の分断です。2008年や14年の空爆では、ハマースとファタハの大連立政権が成立するたびに軍事攻撃で潰されてきました。2018年には、ガザの人々が党派を超えて行った「帰還の大行進」というデモに対して――非武装の抵抗運動だったにもかかわらず――イスラエルは徹底的に銃弾を向け、国際社会もこれを事実上黙殺しました。
 抵抗運動の行き詰まりと、それに対する国際社会側の黙殺によって、ガザ地区はもはや極限状態に到達してしまったことが、今回の自爆的な攻撃にも繋がるのではないかと思います。
 

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