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歴史修正主義の30年③極右政治家の誕生

 安倍晋三の生い立ちから政治家になるまでを取材した青木理によると、小学校から大学まで16年間の成蹊学園時代も、政略入社した3年間の神戸製鋼時代も、彼の周囲にいた人々で、彼から政治談議を聞いたり、政治的志向性を感じた人は一人もおらず、決して目立たず、周囲に強い印象を与える人物ではなかったという。安倍自身、国会見学ツアーに参加した子どもに「どうして国会議員になったんですか?」と質問されて、「それはですね、私の父もこの仕事をやりました。私のおじいさんもこの仕事をやりました。だからこの職に就きました」と答えているくらいだから、元々はっきりした政治意識などなく、いわば“家業”のようなつもりで政治家になったのであろう。神戸製鋼時代の上司は、「要領が良くて、敵をつくらない。だからみんなに好かれていましたよ。そう、まるで子犬みたいだったなぁ」と振り返りつつ、安倍晋三のその後の政治スタンスについて、「間違いなく後天的なものだと思います。(政界入り後に)周りに感化されたんでしょう。まるで子犬が狼の子と群れているうち、あんなふうになってしまったんだと思います」と述べている。

 その「子犬」を「狼」へと変貌させるうえで重要な役割を担ったのが、自民党内の極右グループであり、とりわけその中心にいた奥野誠亮(元特高警察課長)や板垣正(A級戦犯・板垣征四郎の次男)など筋金入りの歴史修正主義者であった。河野談話の4日後には7党連立の細川護熙政権が誕生しているが、就任後初の記者会見で「先の戦争をどう認識しているか」と問われた細川首相は「侵略戦争であったと認識している」と答えた。これに反発した自民党極右グループが「歴史・検討委員会」を設置すると、安倍晋三もそれに参加している。翌94年、村山政権が発足し、戦後50周年に戦争を反省する国会決議を採択する準備を始めると、自民党極右グループは「終戦50周年国会議員連盟」(奥野誠亮会長、板垣正事務局長)を結成し、戦争反省決議反対運動を展開するが、安倍晋三はこの議連で事務局長代理を務めている。自民党内極右グループの中で徐々に地歩を固めていく様子がうかがえる。
 
 1997年は、河野談話を受けて中学校のすべての歴史教科書に「慰安婦」問題が記述される一方で、これに反発する極右の政治家と民間団体が一体となって歴史修正主義キャンペーンを展開する「歴史修正主義元年」となった。1月に「新しい歴史教科書をつくる会」が発足すると、2月にはこれを全面的にバックアップする歴史修正主義派の国会議員が「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」(歴史教育議連。会長・中川昭一)を結成し、安倍晋三は事務局長に就任した。同年5月30日には改憲団体「日本を守る国民会議」と宗教右派の「日本を守る会」が統一し、「日本会議」を結成すると、これを全面的に支援する国会議員グループはその前日、「日本会議国会議員連盟」を発足させ、安倍晋三はその中の「防衛・外交・領土問題」座長となった。

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