見出し画像

『自発的隷従論』

 著者のラ・ボエシは16世紀半ばのフランスに生き、わずか32歳の若さで没した司法官で、モンテーニュの無二の友人だったという。そしてモンテーニュによれば、本書が書かれたのは著者が16歳か18歳のときだったというから驚きである。
 本書の成り立ちについて言えば、訳者の山上浩嗣氏が2004年から07年にかけ、「『自発的隷従論』解説・訳・注」という論文を3回に分けて大学紀要に投稿したところ、それを読んだ西谷修氏から一冊の本にしてみないかと誘いを受け、訳文の他に山上氏の解題と西谷氏の解説、ほかにシモーヌ・ヴェイユとピエール・クラストルの論文訳(私の読んだ電子版では後者は割愛)を収めて刊行したとのことである。
 
 ただ、山上氏の解題と西谷氏の解説を読めば、ボエシの「自発的隷従論」に対する捉え方にかなりの差があるように見受けられる。山上氏によれば、フランスで本論が読み継がれてきた背景には、本論をそのときどきの時局と結び付けて、個別の歴史的事象を告発する時事的な論文であり、革命理論の先駆けであると見なす解釈が力を持ち続けてきたというが、こうした解釈には無理があり、「自発的隷従論」は特定の時局とは独立した普遍的・哲学的な著作である、と山上氏は強調する。山上氏によれば、「自発的隷従」という言葉は、1世紀の帝政ローマで活躍したストア派の哲学者セネカの著作にもみられるそうだから、このような人間の普遍的性向を、特定の政治的状況を離れて、心理的・理論的に考察することにより、かえって時代にとらわれない普遍的な意義を獲得したのであろう。「『自発的隷従論』はこうして、あくまでも読者を楽しませることを通じて、人間の集団的心理の倒錯に目を向けさせるのである。本論が哲学や政治学の文脈から独立した一種の文芸作品として、多数の読者を獲得してきた理由の一端はそこにあるだろう」と山上氏は述べている。
 
 一方、西谷氏は、ボエシの分析を時局的問題、とりわけ戦後の日米関係に応用するのに積極的であり、「ラ・ボエシの言う『自発的隷従』が今日の日本できわめて啓発的な意味をもつ」と述べている。例えば、西谷氏は、「人はまず最初に、力によって強制されたり、うち負かされたりして隷従する。だが、のちに現れる人々は、悔いもなく隷従するし、先人たちが強制されてなしたことを進んで行うようになる」というボエシの言葉を引いたあと、次のように述べている。

アメリカへの従属は、日本にとってあたかも「自然なもの」であるかのような環境が作られ、国際政治であからさまにアメリカに追従することは言うに及ばず、経済においても文化においても、アメリカに従い、アメリカを範とし、「アメリカのようになる」ことが理想のように求められてきた。(中略)日本の財界・学界・メディア界等のエリートたちは、もはやその従属を従属と意識せず、むしろ自分たちこそ「自由」を身につけていると思い込み、アメリカに褒められることを名誉とし、「アメリカのようである」ことを誇りさえする。(中略)たちが悪いには、自分たちが祀り上げるアメリカの威光を、自分たちの恣意的な権力行使の後ろ盾にしたり、自分たちにとってアメリカとの関係が命綱だからといって、他の者たちにまで「アメリカが怒っている」、「日米関係が危ない」と圧力をかけて、日本全体に従属を押しつけようとすることだ。

 確かにそれはその通りであろう。しかし私は、ボエシの読み方としては、山上氏の読み方の方が適切なのではないかと思う。「自発的隷従」が人間の普遍的な現象である以上、それを様々な局面に適用することは可能であろう。しかし、戦後日本の対米従属という、日本の歴史においても、戦後の国際関係においても、ちょっと例を見ないような特殊な構造を分析するのに、人間の普遍的特性を持ち出したところで、何の役にも立たないだろう。人間の普遍的な特性であるとしたら、特定の他国に対するここまで極端な従属形式という他の国には見られない現象が戦後の日本においてだけ、特異的に存在しているのか、という謎は全く解明できないからである。それを解明するためには、人間心理の分析ではなく、戦後の日米関係の歴史的な分析が欠かせないであろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?