差別は隠せばいいのか?(追記あり)
戦争報道への反省から戦後、朝日新聞社を退社し、地方から生涯、反戦・平和を訴え続けたジャーナリスト、むのたけじ氏(2016年に101歳で死去)の冠をつけた「むのたけじ地域・民衆ジャーナリズム賞」は、今年から冠を外した「地域・民衆ジャーナリズム賞」として再出発したらしい。むの氏が1979年の講演の中で障害者に対する差別発言を行っていたことを、前回の受賞団体「なくそう戸籍と婚外子差別・交流会」の田中須美子氏が資料を添えて賞の実行委員会に連絡してきたことがきっかけとなり、賞の共同代表である落合恵子氏、鎌田慧氏、佐高信氏、永田浩三氏が話し合い、昨年12月24日、「むのたけじ地域・民衆ジャーナリズム賞」の終了の告知とともにこの問題への見解を発表し、その後、共同代表を辞任したのである。
東京新聞はその経緯について、同賞事務局長の武内暁氏に寄稿を依頼し、8月18日の「生きる」欄に「「むのたけじ賞」に幕――障がい者差別発言を巡って(上)」と題する武内氏の寄稿文が掲載された。1週間後の8月25日、同欄には、武内氏の「「むのたけじ賞」に幕(下)」の代わりに、井上圭子・首都圏部長の「「『むのたけじ賞』に幕」(下)に代えて」と題する文章が掲載された。それによると、武内氏の寄稿文(上)は、重度障害者である三井絹子氏に対するむの氏の差別発言を詳細に伝えたことで、「当時その発言で深く傷ついて絹子さんを45年後のいま、再び傷つける二次加害そのもの」であり、掲載は「大きな過ち」であるとわかったため、「該当部分を削除するとともに、本日…経緯を説明」した、ということのようだ。記事によると、「絹子さんを長年支援してきた…国立市議から連絡をもら」った井上部長(記事の中で三井絹子氏をなぜか「絹子さん」と名前呼びしているところを見ると、私も「圭子さん」とお呼びした方がいいのかもしれない)は、絹子さんと面談し、「また差別の渦に巻き込まれるのかと気持ちが暗くなりました」という絹子さんの発言を伝えている。そして、「差別発言の中身が障がい者に反感を持つ人の目に触れてしまえば、「その通りだ」と攻撃のスイッチを入れてしまうリスク」に「本紙は…あまりにも無自覚でした」と述べ、「私たちの報道姿勢…も問われている」ことを「心に留め、差別の問題に向き合っていきます」との言葉で文章を締めくくっている。
しかし、報道機関である東京新聞は、同賞の共同代表が昨年12月に発表した見解を伝えるはずだった武内氏の寄稿文(下)を不掲載とし、いったい「差別の問題に」どう向き合っていくというのだろうか。「むのたけじ賞」の共同代表は、田中須美子氏の訴えを真剣に受け止めて議論を重ねた結果、昨年12月、同賞の終了の告知とともに、この問題に対する見解を発表したのであり、再出発した「地域・民衆ジャーナリズム賞」の事務局長である武内氏は、寄稿文(下)においてその見解を紹介するはずだったのである。寄稿文の(上)は、その前提となる事実関係を紹介するものであり、むの氏の差別発言に対する共同代表の見解を紹介する(下)こそが、この寄稿文の肝となるはずであった。ところが、たとえ差別発言を批判する文脈であっても、差別発言が差別者の「目に触れてしまえば…攻撃のスイッチを入れてしまうリスクがある」などという理由で、掲載不可にしてしまうというのであれば、およそ差別問題を真剣に論じることなどできなくなってしまうのではないか。報道機関が差別問題を報道し、論評することなくして、いったいどうやって「差別の問題に向き合って」いくというのだろうか。
「記事を読んだ絹子さんが大変傷つき、怒っている」と支援者から言われた圭子さんは予定していた寄稿文(下)の掲載を取りやめ、「絹子さんに心からおわびします」というが、共同代表の見解を知りたいと思っていたであろう大勢の読者(私のその一人である)のことなど考えなくていいと思ったのだろうか。絹子さんは「怒っている」というが、誰に対して怒っているのか。むの氏の対して怒っているのは当然としても、その発言を紹介した武内氏及び東京新聞に対しても「怒っている」のだろうか。しかし、武内氏の寄稿文は、むの氏の発言を批判する文脈であることは明らかである以上、少なくとも共同代表の見解を伝えたはずの寄稿文(下)も掲載したうえで、改めて圭子さんと絹子さんが話し合っても良かったのではなかったか。武内氏の寄稿文は、差別発言に対して社会や報道機関がどのように向き合っていくべきかということを考えさせるきっかけになるはずのものであった。少なくとも圭子さんが、報道機関として読者に対する責任と、報道機関としての問題との向き合い方を真剣に考えていたとは思えない。
今は幸い、ネットで検索すれば共同代表の見解をすぐに見つけることができる。その見解は極めて真摯で公正なものである。むの氏の当該発言は確かに障害者を貶めるひどいものであるが、共同代表は単にむの氏を断罪して終わりにするわけではない。「むのさんの発言は、当時も今も許されないことです。それは間違いありません。しかし、当時のむのさんの発言に注意を払わなかったわたしたちにも同じように責任があります」と共同代表は述べている。また、「すでに障がいがある当事者の運動があふれていた状況下として、ジャーナリストとしても感覚の鈍さや不勉強を厳しく批判されても仕方がありません。そしてその上発言を問題にした女性の方々へのその後の対応についてやはり彼女たちに向き合っていなかったと思います」としたうえで、共同代表は、「もし、発言をめぐって対話が生まれ、むのさん自身がまた新たな成長を遂げておられたらと思うと、残念でなりません」とも述べている。
圭子さん(東京新聞)はなぜ、このような素晴らしい共同代表の見解の公表を自粛してしまったのだろうか。このような見解をも公表したうえで、武内氏の寄稿文の意義を解いて絹子さんと(場合によっては田中須美子さんも交えて)話し合っていたならば、新たな対話や成長が生まれたこともありえたかもしれない。その方が、こんな地味な東京新聞の記事を読む可能性など限りなく小さいネット・ヘイターの「攻撃のスイッチを入れてしまう」ことを心配するよりも、はるかに意味のあることではなかっただろうか。新聞社の使命は、「批判されないこと」ではない。社会に存在している問題を報道して問題を提起し、議論を巻き起こしていくことではないだろうか。批判を恐れているだけでは、新聞社の使命は決して果たされないだろう。
【追記(8/31)】
ここで紹介した東京新聞記事もそうだが、「障がい者」という表記をよく見かける。障害の「害」という字が障害者を傷つける恐れがある、という配慮からだろう。しかし、障害学においては、障害の原因を本人の身体的特徴に求める「医学モデル」から、社会の制度や意識の側に求める「社会モデル」に転換して久しい。そこでは障害の「害」は社会の側にあるわけだから、障害者を傷つけるなどという発想自体がおかしいことになる。したがって、「障がい者」というような表記には、問題の本質を見つめることなく、小手先の表現によって批判を回避しようとする「事なかれ主義」的体質が現われているように思われる。
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