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【幣原発案説の虚妄(第4回)】『憲法九条論争』「はじめに」第3の引用文

 前回述べたように、笠原氏が「はじめに」で引用した2番目の文章は、昭和天皇が「3人の当事者」であったことを裏付けるどころか、「平野文書」が虚偽文書であることを示すものであった。次いで笠原氏が引用したのは、1993年、平野が亡くなる前年に出版した『平和憲法の水源――昭和天皇の決断』という本の一節である。そこには憲法調査会会長であった高柳賢三が平野に「平野文書」の作成依頼に訪れた際に語ったとされる話が出てくる。その部分を以下に再引用する。

 私はアメリカへ行ってけんもほろろの扱いを受けた。ホイットニーにさえも相手にされなかった。そのとき私は気がつきました。天皇陛下だということです。
 天皇は何度も元帥を訪問されている。恐らく二人の間には不思議な友情が芽生えていた。固いつながりができていた。天皇は提言された。むしろ懇請だったかもしれない。決して日本のためだけでない。世界のため、人類のために、戦争放棄という世界史の扉を開く大宣言を日本にやらせて欲しい。こんな機会はまたとない。今こそ日本をして歴史的使命を果たさせる秋ではないか。天皇のこの熱意が元帥を動かした。もちろん幣原首相を通じて口火を切ったのですが、源泉は天皇から出ています。いくら幣原さんでも、天皇をでくの坊にするといっただいそれたことが一存でできる訳はありませんよ。だから元帥は私から逃げたのです。うっかり話が真実にふれる恐れがある。私たちはそのためだけでアメリカまで行ったのですから。そうなると天皇に及ぶことになる。天皇は政治から超越するということになったのですから、元帥はその御立場を顧慮してのことでしょう。天皇とマッカーサーはそれほどまで深い同志的結合があった。私にはそう思われた。天皇陛下という人は、何も知らないような顔をされているが、実に偉い人ですよ。

 これはすべて高柳が平野に語ったとされる話であるが、冒頭、「私はアメリカへ行ってけんもほろろの扱いを受けた」とは、高柳を団長とする憲法調査会の渡米調査団がマッカーサーに会見を申し入れたが断られたことを指している。平野はその間の事情を、この引用部の少し前のところで、「三十四年(引用者注:昭和三十三年の間違い)、調査会は調査団を編成し、高柳会長自ら団長となって渡米した。ところが、元帥に会見を拒否された。(中略)調査団は何をしに太平洋を渡ったのかわからない結果となり、狐につままれたような恰好で帰ってきた。「憲法調査団の不思議な旅行」と言われたものである」と、揶揄するかのように書いている。
 
 その理由について、平野の描く高柳によれば、マッカーサーと天皇との間の「密約」が明るみに出る(「うっかり話が真実に振れる」)ことを恐れたマッカーサーが会見を拒否したのだと推測した、ということになっている。平野に、「幣原さんから聞いた話」(=「平野文書」)を書いてくれと依頼に来た高柳は、なんと、このあと平野が、幣原が自分にだけ語った話として「平野文書」につづった「密約」のことを、すでに知っていたのか。一体高柳は誰に「密約」のことを聞いたのか? 幣原に聞いたとすれば、平野だけに語ったというのは嘘だったのか? また、高柳が幣原から直接聞いていたのであれば、わざわざ平野に依頼するまでもなかったのではないか? それとも高柳は、マッカーサーから会見を拒否されたという、ただそれだけのことから、天皇とマッカーサーの間に「密約」があったということまで想像したのだろうか? 「気づいた」というのだから、それは単なる推測を超えた確信に近いものだと思うが、会見拒否という事実から「密約」の存在まで確信できるものだろうか?…等、疑問は尽きない。
 
 平野によると、高柳は、天皇とマッカーサーとの間には「不思議な友情が芽生えていた。固いつながりができていた」、「それほどまで深い同志的結合があった」がゆえに、幣原首相を通じて、「世界のため、人類のために、戦争放棄という世界史の扉を開く大宣言を日本にやらせて欲しい」と提言ないし懇請した、というのである。天皇が「幣原首相を通じて」そのような提言もしくは懇請をしたとなると、その日付は46年1月24日(例のペニシリン会談)以外ではありえない。それ以前に天皇とマッカーサーが会ったのは、腰に手を当ててリラックスした姿勢のマッカーサーの隣で、モーニング姿で直立不動の姿勢をとる天皇の写真が撮られた45年9月27日の第1回会見のとき、ただ1回だけである。二人の間に「不思議な友情が芽生えていた」り、「固いつながりができていた」り、「深い同志的結合があった」りするはずはないのである。およそ荒唐無稽な想像だと言わざるを得ない。
 
 また、象徴天皇制における天皇のあり方を「でくの坊」と呼ぶ人はかなり珍しいのではないか。少なくとも東京大学名誉教授であった高柳のようなインテリが他人に向かってこのような表現をするだろうか。実はこれは平野自身が好んだ表現である。現に平野は『世界』1964年4月号に寄稿した「制憲の真実と思想――幣原首相と憲法第九条」の中でも、「シムボルと言えば何の権限もない言わばでくの坊である」と書くなど、「でくの坊」という表現が何度か使われている。ここに引用された高柳の話は平野の創作だと考えるのが妥当であろう。
 
 しかし、これだけでは、単なる推測にすぎないと言われるかもしれない。そこで、この引用が平野の創作であることを示す決定的な証拠を提示する。マッカーサーがなぜ高柳ら渡米調査団との会見を拒否したのか、その理由については高柳自身が『日本国憲法制定の過程Ⅰ 原文と翻訳』の「序にかえて」の中で次のように述べているのである。

 駐米日本大使館では渡米調査団のために、ホイットニー准将と手紙を交換していたのであるが、迎えに来た大使館員からマッカーサー元帥との会見は拒否されたとの報告を受けて吃驚したのであった。何故われわれ渡米調査団に対しマッカーサーが改憲を拒否したのであるか。私は大使館とホイットニーとの往復文書を仔細に検討した結果、その理由を知りえたのである。すなわち、前述のように、日本では、改憲論者によって、マッカーサー草案を日本政府に押しつけたということが改憲論の論拠の一つとしてしきりに主張されており、またウォード博士のこれを支持するような論文が、アメリカでも発表されていた。しかし、マッカーサー草案を日本に示したのは日本政府に対する命令ではなく、勧告であって、日本政府は説得によって、この勧告に従うことになったと考えていた司令部関係者は、マッカーサー草案押しつけ論は心外なことと感じていた。そして彼等は、憲法調査会が渡米調査団を送ってきたのは、この押しつけ論を実証的に裏付けるような証拠を集めにきたものと感じていたため、会見拒否という処置に出たのであることはほぼ明白となった。そこで私はこの誤解をときほぐすために、マッカーサー元帥とホイットニー准将の2人に手紙を送り、渡米調査団は何らそういう政治的意図できたのではなく、どこまでも客観的に、学問的に歴史的事実を究明するためにきたのであることを詳細に説明した。この手紙によって、マッカーサー元帥、ホイットニー准将の誤解がとけ、マッカーサー元帥も自分に知っていることは何でもお話しようという率直な態度に変化し、この2人の重要な証人もいろいろな質問に詳細に答えてくれた。米本国政府内の研究に主役を演じ、かつ極東委員会にも出席した、ボートン博士等、また、多くの司令部関係者も、われわれの歴史的事実を究明しようとする努力に協力して、友好的にかつフランクに質問に答えてくれ、それがため渡米調査の目的も大部分達成できたのである。

 つまり、マッカーサーは、日本の改憲論者の間で唱えられている「押しつけ憲法」論に利用されるのを恐れて会見を拒否したのであるが、誤解が解けてからは率直な態度で質問に答えてくれた、というのが真相なのである。天皇との「密約」が発覚するのを恐れて会見を拒否したなどという荒唐無稽な話ではなかったのである。「何をしに太平洋を渡ったのかわからない」(平野)どころか「渡米調査の目的も大部分達成できたのである」というのが高柳自身の評価なのであった。これにより、先に引用した平野の話が完璧な創作であったことが判明したのである。「事実と思ってよかろう」(笠原2023:20)はずがないのである。笠原氏が「幣原発案説」の最大の論拠とする平野の文書が信頼できないことはこれで明白になったと言えよう(「第5回」に続く)。

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