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【幣原発案説の虚妄(第12回)】幣原発案説の発案者(3)

 ここまで幣原発案説が1950年1月1日以降、マッカーサーやホイットニーにより、あるいはGHQの公式見解として出されてきた経緯を見た。これがあたかも歴史の事実であるかのように、日本の新聞によって報道される日が来た。
 
 1955年8月15日、毎日新聞は「戦争放棄は押しつけでない」「憲法第九条・マ元帥の書簡でわかる」「主唱者は故幣原首相」「元帥に条文の挿入を訴う」との見出しの下、以下のように報じた。

 憲法第九条の“戦争放棄”は平和を願う日本人自身の手によってつくられたものだ――。戦後十年、占領軍の“押しつけ憲法”と一般国民の間で理解され再軍備をめぐって憲法改正がやかましく論議されているとき、ニューヨーク市在住の元国連軍司令官マッカーサー元帥からこの間の事情を説明する書簡が世田谷区松原町4の448日米文化振興会会長笠井重治氏(65)のもとに届けられた。きょうの終戦記念日にあたり平和への祈念をこめてこの手紙を紹介しよう。
 マ元帥からこの手紙がおくられるまでには次のようないきさつがある。
 日本外交協会会長宇治田道義氏が故重原喜重郎氏の伝記を現在編さん中だが、幣原氏の生前の業績のうち、もっとも大きい憲法改正の仕事にゆきあたった。ところがこの憲法は昭和21年マッカーサー元帥が草案をつくって日本側に押しつけたものと伝えられてきた。とくに第九条の“戦争放棄”は人類の恒久平和を目ざす理想論として憲法公布当時から国内でも相当に反対意見があり“日本の弱体化を図る占領軍の謀略”とさえいわれた。宇治田氏は果して第九条が占領軍の一方的な意思によるものかどうかを当時衆議院の憲法委員であった笠井氏に質問した。笠井氏は故重原氏の秘書官をつとめていた岸倉松氏=世田谷区深沢町4の1193=を訪ねその当時のいきさつをただした。岸氏は“戦争放棄”をマッカーサー元帥に進言、日本国民の総意として憲法のなかに条文として明記してほしいと願い出たのは故幣原氏(当時総理大臣)であったことを証言した。そこで宇治田、笠井両氏は去月(=7月)22日、笠井氏がニューヨークのワルドルフ・アストリア・ホテルのマッカーサー元帥に問合せの手紙を送った。これに対し同元帥から8月5日付で同元帥の代理役、元GHQ民政局長コートニー・ホイットニー少将が代筆した返信が笠井氏に届けられた。
 それには「マ元帥と故幣原氏との1946年(昭和21年)1月24日の会合に関する岸氏の了解事項は全く正確である」と前置きされ当時の様子が説明してあった。

 マッカーサーに出した書簡の返信が、ホイットニーの代筆でホイットニーから返って来たという。それだけマッカーサーがホイットニーを信頼していた証ともとれるし、ホイットニーに任せきっていた、とも言えよう。マッカーサーの返信の内容自体は何の意外性もないものだが、ここで興味深いのは、幣原の秘書官だった岸倉松が、「“戦争放棄”をマッカーサー元帥に進言、日本国民の総意として憲法のなかに条文として明記してほしいと願い出たのは故幣原氏」だったと証言したことだ。実はこの年の10月、幣原平和財団から『幣原喜重郎』という伝記が出版されたのだが、その編集実務を担ったのが、この記事にも登場する宇治田直義である。岸はこの伝記の中では次のように語っている。

 マックアーサー元帥が米国上院の軍事外交共同委員会で証言されたことは、恐らく事実だと思うのであります。そのことに就いて思い出されることは、昭和21年の1月元旦に「人間天皇」に関する御詔勅が下されましたが、あの御詔勅の原案は幣原首相が永田町の首相官邸の事務室で自ら英文でお書きになったものであります。その時首相はお風(ママ)を召して肺炎を起されましたが、幸いマックアーサー元帥からペニシリンを寄贈せられ、そのおかげで間もなく全快されたのであります。そこで1月24日の将吾幣原首相はお礼のためにマ元帥を訪問され、約3時間ばかりゆっくりとマ元帥と差し向かいで懇談されたことがありました。その時の会談内容に関しては、首相からは何もお話はありませんでしたが、其の後総司令部側の人々から伺ったところを総合致しますと、その時幣原首相は「今度病気をして寝ているうちに種々様々なことを考えたが、原子爆弾のようなものが出来た今日、日本は今後再び戦争を起さないよう戦争を廃棄する決心をしなければならない」ということを衷心から披歴された。これに対し、マ元帥も大いに共鳴し、満腔の賛意を表し、その実現方を激励されたということでありました。少くとも幣原首相はこの病気を境として、心境に大きな変化があったように思われるのであります。だからそれから以後、首相は段々戦争放棄と言う大理想を実際に実現しなければならないというお考えに変って行ったようであります。而してこの心境の変化が実現の問題とぶっつかったのは昭和21年2月中旬総司令部からマックアーサー憲法草案が提示せられた時であります。当時幣原首相のお考えは理想は理想として、現実に戦力を放棄するということを憲法に規定するというところまで割り切っての決心はまだできていなかった上に、実際政治の運営という面からこれを表面に出すことに就いては大いに苦しまれていたように思うのであります。然し2月21日マックアーサー元帥と会見せられ、マ元帥及び総司令部側の意図するところがはっきり認識せらるるに及んで、幣原首相の決意は愈々堅められ、理想と現実を一体として具現せねばならぬ事態に当面した以上、従来からの一切の行懸りを放棄せねばならぬという考えから、茲に断乎決意をせられたと推測される節があるのであります。現にその頃反対意見を持つ閣僚を自ら説得せられていた事実がありますのみならず、爾来幣原首相の戦争放棄に関する主張は、漸次理路整然として外部に提唱声明せらるるようになったのであります。この心境の変化と事態の推移を究めずして、ただ表面的の事実からマックアーサー元帥の着想発案説をとって、彼れ是れ批判論議することは大きな間違いではなかろうかと思うのであります。

 ここでは毎日新聞の記事とは異なり、幣原は日本が戦争を廃棄するという考えをマッカーサーに語ったものの、「理想は理想として、現実に戦力を放棄するということを憲法に規定する」ことまでは考えていなかったのであるから、「憲法の中に条文として明記してほしい」などと語るはずはなかったのである。しかし、2月21日のマッカーサーとの会見により、総司令部側の意図をはっきり認識するに及び、憲法条文化の決意を固めた、というのである。これは、後に紹介する羽室メモの記述と同じである。岸はまた、1956年に設置された憲法調査会での参考人質問に対し、「幣原首相は第九条の条項にはなんら関係していなかったのであり、同条項を憲法の草案にそう入するということは幣原首相の関知せざるところであったことは明瞭である。しかし、幣原首相の戦争放棄の悲願はマッカーサー元帥を深く感動させ、それが動機となって第九条が総司令部案に規定されることとなったと確信する。幣原首相がこの悲願をマッカーサーに述べたのは昭和21年1月24日の3時間にわたる会談においてであった」と述べている(第6回憲法調査会総会議事録、42-45頁)。やはりこれが真相に近いと言えよう。幣原は、憲法放棄の理想をマッカーサーに語ったが、それを憲法に入れることまでは考えてもいなかったのである(第13回に続く)。

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