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「小説 その十月の朝に」について

 『現代思想』2月号は「パレスチナから問う」という特集号で、収録された論文の大半はいずれも力作ぞろいですので、いずれ機会をみてご紹介できればと思います。
 
 今日はその中でも異色の作品、岡真理さんの「小説 その十月の朝に」というちょっと奇妙な小説を紹介したいと思います。岡さんが現代アラブ文学の研究者で、パレスチナ問題の専門家として縦横無尽の活躍をされていることは周知の通りです。その岡さんが小説???と、不思議に思ったのは私だけではないでしょう。
 
 その小説は、「1 訳者前書き」「2 その十月の朝に」「3 訳者解題」の3部から構成されており、真ん中の「その十月の朝に」というのは、「アフラーム・ガッザーウィー」と名乗るイスラエルのパレスチナ人が書いた作品で、イスラエルから日本に帰国直前のMに託されたものを、岡さんがMから受け取り、邦訳したうえで、前書きと解題を付けて公表したもの、という体裁をとっています。そのため、「その十月の朝に」という部分はアフラーム・ガッザーウィーというパレスチナ人が書いた作品で、それを岡さんが訳して解説をつけて発表した、と文字通り受け取る読者もいるかと思います。しかし、よく読めばわかりますが、これはすべて岡さんの創作です。これが、「2」の部分も含めてすべて岡さんの創作であるとわかるのは、内容的には、「2」の主人公の青年(あるいは少年かもしれませんが)の語っていることが岡さんが講演や著書において常々語っていることとほとんど同じだからであり、形式的には、この作品全体の作者が「岡真理」と明示してあるだけで、(作品の中以外)どこにもアフラーム・ガッザーウィー著(岡真理訳・解題)とは示していないからです。その意味で、この作品(小説)のタイトルは「小説 その十月の朝に」であって、決して「その十月の朝に」ではないのです。「1 訳者前書き」「3 訳者解題」を含めた全体が小説だからです。
 
 この小説の中の小説「その十月の朝に」という作品(元は「川から海まで」というタイトルだったが、“訳者”である岡さんの判断で、タイトルだけ変更した、ということになっています)は、10月7日の奇襲攻撃に、自らの死を覚悟して出撃するパレスチナ人の青年の心象風景をつづった作品、ということになっています。主人公は、最初の部分だけ「彼」という3人称ですが、途中から最後までは「ぼく」という1人称で書かれています。「ガッザーウィー」が「ぼく」自身であるはずはないので、「ガッザーウィー」という、イスラエルに住むパレスチナ人が10月7日の奇襲攻撃にインスピレーションを受け、その「解放戦士」の青年の心象を想像しつつ描いた小説、ということになっています。
 
 岡さんは「訳者解題」の中で、「ハマスの残忍なテロ」なるものはイスラエル当局の捏造であると断言したのに続き、
 
<10月7日の出来事をめぐって、イスラエル政府・軍が、人間の下劣な想像能う限り最低最悪の解釈を世界に提示したとすれば、本テクストは、この出来事に内在する理念の、もっとも理想化された解釈を提示していると言える。>
 
と述べています。さらに、それは「著者の単なる個人的空想」ではないとも続けています。
 
 つまり、岡さんがこの小説を書いたのは、日本でも世界でも「ハマスの残忍なテロ」とされる10月7日の事件に対し、それに参加したパレスチナ戦士の心象風景を描いたパレスチナ人の小説という形を借りて、オールターナティブな解釈を提示するためであった、といえるでしょう。でもなぜそれを小説という形で?と疑問に思う人もいるでしょう。実際、岡さんはこれまでも講演や著書において、「残忍なテロ」というイスラエル当局の発表(とそれをそのまま垂れ流す欧米メディアの報道)の誤りを指摘してきましたし、この小説中の「訳者解題」の中でもそれは行っています。しかし、それだけでは、ガザから奇襲攻撃に打って出た若者たちが何を思い、どんな考えで、そのような行動に出たのか、ということは伝わりません。彼らの多くは遺書など遺していないでしょうし、仮に遺した者がいたとしても、それを家族が公表できるような状況ではとてもありません。したがって、彼らの心情や心境は想像するほかありませんが、これまで数多のガザの若者たちと触れ合ってきた岡さんなら、彼らの心境を想像することは十分に可能だ、と岡さんは思ったでしょう。しかし、それを岡さんの「想像」として語っただけでは、どうしても説得力に欠ける、とも思ったでしょう。「所詮、それはあなたの想像でしょ」と冷淡に受け止められる恐れは否定できない、とも考えたでしょう。
 
 そこで出てきたのが小説、それも日本人よりもガザの若者たちの心情に感情移入しやすいと一般に思われるであろうパレスチナ人の書いた小説を「翻訳」して紹介する、という形を思いついたのでしょう。さらに、この小説にはいくつかの工夫がなされています。まず第一に、この小説の主人公の「ぼく」はハマスではなくPFLP(パレスチナ人民解放戦線)というマルクス・レーニン主義組織のメンバーであるとされています。これは一般メディアにおいては、10月7日の奇襲攻撃を仕掛けたのは「ハマス」という「イスラム組織」であるとの定型化した報道が繰り返されているなか、岡さんは繰り返し、攻撃に参加したのはハマスだけではない、イスラム聖戦やPFLPのメンバーもいたのだということを指摘していますが、ここでもそうしたメディアによる刷り込みを剝がすために、あえてPFLPの若者を主人公に設定したと思われます。また、そこには、この攻撃がイスラム教の信仰とは必ずしも関係はない、ということを示す狙いも込められているでしょう。
 
 次に、主人公は、自分たちは75年前の「ナクバ」の際にシオニストの民兵たちがやったような市民に対する残虐行為やレイプは決してしないと誓っています。と同時に、なぜキブツを襲撃するのか、住民を人質にとるのか、ということについても説明しています。これについては、「解放戦士」の間でも異論はあったものの、ガザ周辺のキブツはイスラエル軍のガザ侵攻の際の前哨基地として使われる準軍事施設であり、そこの住民たちは戦闘訓練を受けた予備役の兵士たちで武装しているからだ、という説明が加えられています。いうまでもなく、この箇所は、「ハマスのテロ行為は市民を無差別に狙った残虐なものだ」というメディアで流されるイメージに対する反論となっているわけで、いわばこの小説の肝ともいうべき部分です。
 
 また、この主人公の弟と妹の名前はそれぞれ「ガッサーン」と「ラミース」となっていますが、ガッサーンとは、岡さんが学生時代に『太陽の男たち』などの作品を読んで影響を受けたパレスチナの作家ガッサーン・カナファーニーの名前であり、ラミースはその妹の名前なので、この作品全体がカナファーニーに捧げるオマージュとなっています。
 
 最後に、この小説の主人公は、「白人国家だった南アフリカが虹の国になったように、川から海まで、パレスチナも虹の国になる」と述べていますが、これはマーティン・ルーサー・キング牧師の「私には夢がある」演説を彷彿とさせるもので、破綻したオスロ合意の「二国家解決策」ではなく、ユダヤ人とパレスチナ人が平等に共生する「二民族共生多文化国家」を未来に思い描いていることがわかります。最後に主人公は「この土地の上に、ぼくたちは未来を植える」と述べていますが、岡さんの「訳者解題」によると、この言葉は昨年11月4日、ワシントンDCで開かれたパレスチナ連帯集会でパレスチナ系アメリカ人の弁護士ヌーラ・エラーカート氏が発した言葉と同じだそうです。つまり、エラーカート氏の言葉を岡さんが自分の書いた主人公の最後の言葉として使ったということがこれでわかります。
 
 この小説が成功しているか否か、は微妙なところかもしれません。岡さんとしてはこの小説を、あくまでパレスチナ人の書いた小説の(訳者による解説つきの)翻訳として読んでほしかったのではないでしょうか? いわば「誤読」されることを願った小説と言えるかもしれません。「誤読」させられれば成功だと。しかし、「誤読」するのが難しいことも反面の事実です。この小説の評価は読者一人ひとりに委ねられている、としておきましょう。
 

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