『パレスチナの民族浄化』(1)

  岡真理さんの『ガザに地下鉄が走る日』や『ガザとは何か』で紹介されていたイラン・パぺの『パレスチナの民族浄化』を読み、圧倒された。
 
 イスラエルという国が建国以来、虐殺に次ぐ虐殺、追放に次ぐ追放、破壊に次ぐ破壊により成り立ってきた国だということがよくわかった。こうした事実が克明に記されているため、長時間連続して読み進めるのは心理的に困難で、読了までにかなり時間を要した。
 
 著者のイラン・パぺはハイファ(地中海沿岸のイスラエル北部の都市)出身のユダヤ系イスラエル人の歴史家で、1980年代以降、機密解除されたイスラエルの外交文書などを基に、パレスチナ難民は、第1次中東戦争の開始に伴い、自発的に移住した人々だという、それまでのイスラエルの公式の歴史像に異議を唱え始めた「新しい歴史家」と呼ばれる一群の歴史家の中の代表的研究者であるが、それだけにイスラエルでは「非国民」という人身攻撃にさらされ、イギリスへの移住を余儀なくされた。
 
 本書を読んで、イスラエルが現在ガザで行っている常軌を逸したような大虐殺が、実は規模の大小こそあれ、イスラエルが建国以来一貫してパレスチナ人に行ってきた人道的犯罪の延長線上に位置するものであり、シオニズム国家=イスラエルの本質に属するものであることがよくわかった。
 
 アラビア語で「ナクバ」(大災厄)と呼ばれる1948年のイスラエル建国前後に起きたパレスチナ人に対する追放や虐殺が、第1次中東戦争に伴うものだという、これまで漠然と抱いていたイメージが根本的な誤りであることを知った。それは1947年11月29日の国連総会決議181号、いわゆるパレスチナ分割決議の採択直後から、すなわちイスラエル建国宣言(48年5月14日)と第1次中東戦争勃発(同年5月15日~)より半年も前から始まっていたのであり、中東戦争勃発以後も、さらに半年余り続いたのである。つまり、中東戦争勃発以後は、イスラエルはアラブ諸国軍との戦争と、パレスチナ人の追放・民族浄化という2つの作戦を並行して行っていたわけだが、後者は前者の妨げにはならずアラブ軍は民族浄化の歯止めにはならなかった。驚くべきは、イスラエルの建国までパレスチナの統治と治安に責任を持っていたイギリスは、自軍の目の前で起こる民族浄化を傍観するだけであり、イスラエル建国以後はパレスチナ領土の保全に責任を有する国連も、民族浄化を目撃しつつ、報告する以上のことは何もしなかったということだ。
 
 この民族浄化を新生イスラエル国家の正式な目標と定めたのが、1948年3月10日のダレット計画である。実際の民族浄化は、パレスチナ分割決議採択直後から始まっており、ダレット計画が策定された時点で、すでにパレスチナ人の住む30の村が消えていたというが、ダレット計画に基づく命令が現場の部隊に発令されてから半年の間に、パレスチナに住んでいた人の半数以上、約80万人が追放され、531の村と11の都市が破壊されたという。建国宣言の3日前の同年5月11日、ベングリオンはアラブ諸国軍の進攻を目前に控え、「パレスチナの浄化は依然、ダレット計画の第一の目的である」と述べて、本来の任務(民族浄化)が疎かにならないよう戒めている。まさにパぺの言う通り、シオニスト運動の最大の目的はパレスチナ全土の民族浄化であり、それこそが新国家建設の最大の目標だったのである。
 
 それにしてもなぜ、ベングリオンはアラブ軍の進攻を前にこれほどの余裕があったのだろうか。実は、当時アラブ最強の軍隊を持っていると言われたヨルダンの、アラブ諸国軍指揮官にも指名されたアブドゥッラー国王は、ヨルダン川西岸地区を手に入れるため、ユダヤ人指導部と秘密交渉を行い、西岸地区併合の見返りとして、ユダヤ国家に対する攻撃には一切加わらないとの密約を結んでいたのである。実際、アラブ諸国軍は、イスラエル軍がパレスチナの村や町を破壊し浄化しているのを目撃しながら何もしなかったのであり、ヨルダン軍が反撃したのは、イスラエル軍が密約に反して西岸地区に進攻してきたときだけであった。そのため、アラブ軍団のイギリス人最高司令官グラブ・パシャは、第1次中東戦争を「まやかしの戦争」と呼んだという。その結果、第1次中東戦争終結時には、イスラエルは、国連決議によって与えられた(旧イギリス委任統治領パレスチナの)56%ではなく、ヨルダンとの密約によってヨルダンが手に入れた2割(西岸地区)を除く8割近い領域を支配下に置くことになったのである。(続く) 

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