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【幣原発案説の虚妄(第11回)】幣原発案説の発案者(2)

 1950年の晩秋、金森徳次郎国立国家図書館長は幣原に、「最近アメリカで“日本の政治再編成”という総司令部の報告書が発表せられ、そのうちに当時の幣原首相始め関係者の名前が出て来たり、活動の状態が記述されているのみならず、随分機微に亙ることも書かれている。これに対し、日本側でも一つ正確な記録を作って置かなければならないと考えるが、そのことになると、あなた御自身しか知らないことが随分多いから、此の際是非お話を伺って置きたい」との要望を伝えたが、幣原はその時、「そのことをお話するのはまだ時機が早い。それよりも先づその本をよく読んでからのことにしよう」といって何も語らなかったという(幣原平和財団『幣原喜重郎』)。
 
 こうして時系列で並べてみると、いろいろなことが見えてくる。時期的に見て、金森のこの発言が、前回紹介した同年11月11日付ニッポン・タイムズの記事を読んだことに触発されたものであることは間違いないだろう。同紙の記事を読んで、金森は疑問に思ったはずである。記事には幣原がマッカーサーに9条を進言したと書いてあるが、金森はそんなはずはないと思っていたからである。1955年8月15日の時点においても、毎日新聞からコメントを求められた金森は、「どうも幣原さんがいったという証拠はない。むしろ当時の閣僚にきいてみると閣内の意見は軍備を持つことになっていたという。この件についてマッカーサー元帥はロサンゼルスの講演よりも議会でもっと詳しい証言を行っている。しかしこれは幣原さんの死後の発言で二人の会見に立会ったものもなく、生前幣原さんからこの話をきいたものもないので文書なども残っていない」と語っているのである。ちなみに、笠原十九司氏は『憲法九条論争』の中で、入江俊郎・佐藤達夫・金森徳次郎の3人は幣原の「芝居」(自分が9条の提案者であるにも関わらず、素知らぬ振りをしていたという意味)に気づいていた、と述べているが、いずれも間違いである。これについては、別途述べるつもりである。
 
 一方、幣原の方は、「そのことをお話するのはまだ時機が早い。それよりも先づその本をよく読んでからのことにしよう」と答えている。「その本」というのが民政局報告書の原文を指していることは間違いあるまい。ニッポン・タイムズの記事は読んでいただろう。そこにはマッカーサーから聞かされた幣原発案説がわざわざ注記してある。では果たしてそれは原文にも書いてあったのか。幣原としては、どうしてもそのことをまず確認したい、確認してからでなければ自らの態度を決めることは難しい、と思ったであろう。また、原文の確認は別としても、そもそも幣原発案説を採っているマッカーサーが依然として日本の最高権力者であるその時点では、それと異なる史実をありのままに話すには時期尚早であると幣原が思ったのも無理のないことだったであろう。
 
 幣原はこの年の9月5日から11月14日まで、読売新聞紙上に「外交五十年」という口述筆記を連載していた。それをまとめたものにさらにいくつかのエッセイを加えて単行本としたものが、翌51年4月10日に読売新聞社から刊行されるが、幣原はその1か月前の3月10日に急逝した。序文を書いたのはその8日前の3月2日であった。
 
 単行本『外交五十年』の第一部「外交五十年」の末尾近くに「軍備全廃の決意」と題して、次のような文章が掲載されている。この一節は読売新聞の連載には記載されていない。おそらく金森との会話以後に幣原が書きおろした文章であろう。

私は図らずも内閣組織を命ぜられ、総理の職に就いたとき、すぐに私の頭に浮かんだのは、あの電車の中の光景であった。これは何とかしてあの野に叫ぶ国民の意思を実現すべく努めなくちゃいかんと、堅く決心したのであった。それで憲法の中に、未来永劫そのような戦争をしないようにし、政治のやり方を変えることにした。つまり戦争を放棄し、軍備を全廃して、どこまでも民主主義に徹しなければならんということは、他の人は知らんが、私だけに関する限り、前に述べた信念からであった。それは一種の魔力とでもいうか、見えざる力が私の頭を支配したのであった。よくアメリカの人が日本へやって来て、こんどの新憲法というものは、日本人の意思に反して、総司令部の方から迫られたんじゃありませんかと聞かれるのだが、それは私の関する限りそうじゃない、決して誰からも強いられたんじゃないのである。

「あの電車の中の光景」とは、幣原が敗戦の日、電車に乗っていると、30代ぐらいの男性が、俺たちは知らない間に戦争に引き込まれ、真相を知らされないまま敗戦を迎えたことで政府を批判し、オイオイ泣き出し、車中の群衆もこれに呼応するのを目撃し、深く心を打たれた体験を指している。しかし、そのときに幣原が思ったのは、軍備全廃ではなく、日露戦争のときのような政府と国民の一体感が今度の戦争には欠けていた、ということなのである。軍備全廃を思いつくような経験ではなかったし、組閣直後の幣原が憲法改正に熱心ではなかったこともよく知られている。いずれにせよ、ここ重要なのは、幣原とマッカーサーとの会談の話もなければ、もちろん幣原がマッカーサーに戦争放棄・軍備全廃を提案した、という話も書かれていない。しかし、「戦争を放棄し、軍備を全廃して、どこまでも民主主義に徹しなければならんということは、他の人は知らんが、私だけに関する限り、前に述べた信念からであった」、「日本人の意思に反して、総司令部の方から迫られたんじゃありませんかと聞かれるのだが、それは私の関する限りそうじゃない、決して誰からも強いられたんじゃない」と書かれている。「他の人は知らんが、私だけに関する限り」、「私の関する限り」決して強いられたんじゃない、ということは、暗に他の人は強いられた(と感じる)かもしれないが、ということが含意されている。自分が提案した、とまでは言えないが、少なくとも自分は反対ではなかった、と示唆することで、GHQの幣原発案説に半ば歩み寄ったと言えるだろうか。ただ、「外交五十年」の末尾には、意味深長な次の一節が書き加えられている。

本篇、公人としての私の回顧の記録は、ここで一応打ち切ることとする。それは前に述べたように、昭和20年に隠棲の宿志を果たすことが出来ず、引き続き現在に至るまで、公人生活を続けているが回顧録としては余りに生々しいので、それは後の機会に譲ることとし、以下本文に漏れた数篇を、余談として追記する。

 幣原としては、自分もまだ公人生活を続けており、日本も依然として占領下にあり、マッカーサーが最高権力者の地位にとどまっている現状では、ありのままを語ることは「余りに生々しいので、それは後の機会に譲」らざるを得ないが、例えば占領終了後などには、真実を明らかにしたいという気持ちを持っていたことが窺える。しかしこの文書を書いてからほどなく急死してしまったがために、それは叶わぬ夢となってしまった。むしろ、GHQに半歩歩み寄って書かれたこの文章が、後に幣原発案説論者によって、幣原発案説の根拠であるかのように使われるようになるとは、この時の幣原は予想もしていなかったのではないだろうか。
 
 読売新聞社から『外交五十年』が出版された翌日(51年4月11日)、マッカーサーがトルーマンによって最高司令官を解任された。戦時中、「現人神」であった天皇を上回る権力者のマッカーサーを“神”のごとく崇めていた多くの日本人にとっては驚天動地の出来事だった。帰国したマッカーサーは翌5月5日、米上院の軍事・外交合同委員会で次のような証言を行った。

 日本国民は、世界中の他のいかなる国民にもまして、原子戦争がどんなものであるかを理解しております。かれらにとっては、それは理論上のものではありませんでした。かれらは、現実に死者の数を数え、死者を葬ったのであります。かれらは、かれら自身の発意で、戦争を禁止する旨の規定を憲法に書き込んだのであります。
 日本の内閣総理大臣幣原氏――この人は大へん賢明な老人でありましたが最近(注:3月10日)亡くなられました――この幣原氏がわたくしのところへやって来てこう申しました。
 「これはわたくしが長い間考え、信じてきたことですが、この問題を解決する道は唯一つ、戦争をなくすことです。」
 かれはまた言いました。「軍人であるあなたにわたくしがこういうことを申し上げてもとうていとり上げていただくわけにまいらないことはわたくしも十分に分かっておりますので、はなはだ申し上げにくい次第ですが、とにかく、わたくしは、現在われわれが起草している憲法の中にこのような規定を入れるように努力したいのです。」
 わたくしは、これを聞いて思わず立ち上がり、この老人と握手しながら、これこそ最大の建設的な歩みの一つであると思うと言わないではいられなかったのであります。
 さらにわたくしはそのとき申しました。あるいは世の人々はあなたをあざけるであろう。――諸君の御承知のように現在は暴露の時代であり、皮肉の時代であります。――世人はそれを受け入れないであろう。それはあざけりの種になろう――本当にそうなったのでありますが――。それを貫きとおすには強い道徳的勇気を要するであろう。そして最後にはその線を保持することができないかも知れないというようなことを申したのであります。しかしながら、わたくしは、この老人を激励いたしました。そして、かれらは、あの規定を書き込むことになったのであります

 以前に決めた幣原発案説の筋書きに沿ったものだが、ここでは幣原の提案内容として戦争放棄には触れているが戦力放棄(軍備全廃)には触れていない点と、「世の人々はあなたをあざけるであろう」「最後にはその線を保持することができないかも知れない」とマッカーサーが幣原に語ったことになっている点に注意しておこう。「最後にはその線を保持することができない」という言葉には、憲法制定以後、日本非武装化方針を掲げてきたマッカーサーが、再軍備を求める米本国の圧力に屈し、1950年1月1日には自衛権容認路線に転換したという、自らの経験が込められているのかもしれない。
 
 次いでマッカーサーは、1955年1月26日、ロサンゼルス市で開かれた自身の75歳の誕生日を祝うアメリカ在郷軍人会主催の午餐会で、次のように演説している。

 わたくしは、日本人が新しい憲法の制定に当たってこの問題(注:戦争禁止を可能とみるか)に直面したときのことを、まざまざと思いだします。日本人は、現実主義者であります。そして戦慄すべき経験を通じて、大量殺人のものすごい結果を知っている唯一の国民であります。二つの大きなイデオロギーの間にはさまった一種の国境無人地帯のような運命を負わされている限定された地域のうちにあって、日本人は、もう一度戦争に参加することは、勝つにしても負けるにしても、おそらく、かれらの民族の滅亡を招くであろうということを、実感として知っているのです。
 そこで日本の賢明な幣原老首相がわたくしのところに来られて、日本人自身を救うには、日本人は、国際的手段としての戦争を放棄すべきであるということを強く主張されました。わたくしが賛成すると、首相は、わたくしに向かって、「世界はわれわれを嘲笑し、非現実的な空想家であるといって、ばかにするでしょうけれども、今から百年後には、われわれは予言者とよばれるに至るでありましょう」と言われました。
 世界は、生き延びようと考えるなら、おそかれ早かれ、この決断に到達しなければなりません。ただ一つの問は「いつ?」ということです。われわれは、もう一度戦わなければ、わからないのでありましょうか? いつの日に権力の座にある大人物のうちのだれかが、この人類共通の望み――しかも急速に人類共通の必要事となってきたこの望み――を実現するに十分な想像力と道徳的な結城とを持つに至るのでありましょうか。

 大枠においては、4年前の上院での証言とほぼ等しいが、「世界は嘲笑するだろう」と言ったのは、4年前とは異なり、ここではマッカーサーではなく幣原の発言となっている。また、1950年にはマッカーサーが日本で、「30年早い」とか「50年間早すぎる」と語っていたが、今回は、「100年後にはわれわれは予言者と呼ばれるだろう」と幣原が語ったことになっている。幣原発案説の基本線は踏襲しつつも、細かなところが微妙に変わってくるのは、創作ゆえに起こった変化と考えるならば納得できることである。(第12回に続く)

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