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歴史修正主義の30年②河野談話

 日本の歴史修正主義者の攻撃対象は、植民地支配やアジア太平洋戦争、南京大虐殺、従軍慰安婦問題、731部隊、徴用工問題、日韓併合条約、日韓請求権協定、東京裁判など多岐にわたるが、安倍政権、ひいては安倍政権時代の歴史修正主義者らが主たる攻撃対象にしたのは、慰安婦問題であり、その中でもとりわけ目の敵にしたのが河野談話であった。そこで、まずこの河野談話が出た経緯から見ておきたい。

 1991年8月14日、日本軍慰安婦の被害者として金学順が初めて名乗りを上げて記者会見を行ったのが、今日に至る慰安婦問題の出発点であった。金学順の勇気ある告発に励まされ、韓国にとどまらず、台湾、フィリピン、中国、インドネシア、オランダなど、各国の被害女性たちが半世紀近くに及ぶ沈黙を破って声を上げ始めたのである。金学順の証言は、その前年、日本政府が国会で、慰安婦は「民間の業者が連れ歩いていた」と答えたニュースに衝撃を受けたことから、真相を明らかにし、日本政府の責任を追及することを決意してとった行動であった。その後、金学順らの提訴や吉見義明らによる日本軍の関与を示す資料の発掘等が日本政府を調査へと動かし、1993年8月4日の「慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話」、いわゆる「河野談話」につながるのである。

 河野談話はまず、「慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれにあたったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった」と認定し、「いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題」であり、「その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる」と謝罪したうえで、「われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視し」、「歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明」したのである。

 つまり、河野談話は、(1)慰安所の設置や管理、慰安婦の移送に軍が直接あるいは間接に関与していること、(2)慰安婦とされた女性は(多くの場合)本人の意思に反して集められ、(3)慰安所における生活は強制的な状況で痛ましいものであったこと――を認めたうえで、(4)お詫びと反省を表明し、(5)再発防止策として、歴史研究、歴史教育を通じて記憶を継承することと誓ったのであった。

 河野談話は軍の関与と強制性を認める一方で、主たる責任の所在をなお曖昧にしており、賠償責任や責任者処罰については全く触れていないなど、限界を有するものであったとはいえ、日本政府として初めて慰安婦問題への一定の責任を認めたものであり、慰安婦問題解決への第一歩となるはずのものであった。実際、河野談話に基づき、1995年、村山内閣の下で「アジア女性基金」が設立されて「償い事業」が実施され、97年には中学校のすべての歴史教科書に慰安婦問題の記述が掲載されるなど、一定の進展はあった。ただし、「アジア女性基金」については、法的責任を認めておらず、被害者に事前の相談がなかったこと、中国や北朝鮮が除外されていたように、限られた国・地域のみを支援対象にしていたことなど、なおいくつかの問題を抱えていたことは否定できない。

 一方、歴史修正主義者にとっては、軍の関与(1)と慰安婦に対する強制的状況(2)(3)を認め、謝罪をし(4)、歴史教育で教えることを約束した(5)点で、河野談話は許しがたいものと映り、以後、河野談話の撤回・修正を悲願とするようになる。その中心人物となっていくのが本稿の主人公・安倍晋三であるが、彼は河野談話が出た時点では、その2週間あまり前に行われた第40回衆議院総選挙で初当選したばかりの新人議員にすぎなかった。そこで、ここではいったん河野談話から離れ、安倍晋三がその後どのような経緯を経て、初当選からわずか13年で首相の座にまで上り詰めたのかを簡単に振り返ってみたい。

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