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【幣原発案説の虚妄(第9回)】高柳賢三の幣原発案説批判(2)

 高柳はまた、『天皇・憲法第九条』の、前回のシリーズ第8回で引用した部分の少し後で、次のように述べている。

第9条の発祥地が東京であり、1月24日のマッカーサー・幣原会談に起因する点は疑われていないが、その提案者が幣原かマッカーサーかについて、日本でもアメリカでも疑問とされていた。調査会における大多数の参考人は、幣原ではなかろうマ元帥だろうと陳述したが、青木得三、長谷部忠など少数の参考人は幣原だと陳述した。そこで念のため、わたくしからマ元帥にこの点をたしかめたが、マ元帥は従来の言明どおり、幣原だとハッキリと述べ、かつ右に述べたようなそのときの情況をつけ加えた。しからば、幣原はどうかというと、1946年4月以降多くの内外人に向ってしばしば、あれは自分の提案だという趣旨を語っているので、この点についてマ元帥の陳述を裏書していることになる。

 つまり、高柳は、憲法調査会における「大多数の参考人」の「幣原ではなかろう」という証言を採用せず、「青木得三、長谷部忠など少数の参考人」と高柳宛マッカーサー書簡および幣原自身の話を基に、幣原発案説を主張しているのであるが、すでに述べたように、マッカーサーの高柳宛書簡とは、マッカーサーがすでに1951年に上院で証言した以上の事実は何も書かれていないので、新たな価値は何もない。では、「青木得三、長谷部忠など少数の参考人」に「大多数の参考人」の証言を覆す価値はあるのだろうか。
まず、青木得三が憲法調査会で行った証言とは次のようなものである(佐々木高雄『戦争放棄条項の成立経緯』より再引用)。

 1948年5月13日、幣原衆議院議長から電話で呼び出され、「口裏合わせ」を依頼された逸話を以下のように紹介した(注:幣原の議長就任は49年2月11日なので、幣原の肩書か電話の日付のどちらかは不正確)。
 「先日(連合国最高司令部・法務局イギリス課長のニコラス・リード・コリンズ)中佐が幣原さんに、新憲法の中の戦争放棄の条項をだれが思いついたのであるか、と訪ねたので、幣原さんはそれに答えて、あれは全く自分たちの思い付きである、と答えた。」
 「ところが中佐は幣原さんに対して世間では、あの新憲法の戦争放棄の条項は、日本人自身の発意ではなく、外国から押しつけられたものであるといううわさがあるが事実はどうか、と…(畳みかけて)聞いたんです。」
 「幣原さんは、絶対にそんなことはない。一体あなたは軍服などを着ておるが、いまの世の中で軍服など着ているのは時代錯誤である。いまに日本にならって、世界中の国に戦争放棄の条項が入るようになるであろうと答えた」
 幣原は「中佐が……私に同じことを尋ねるであろう、注意をして返事をしてくれ、君の言うこととぼくの言うことが違っておったんでは、具合が悪いということをあらかじめ注意せられまして……衆議院の副議長応接室でレフテナント・カーネル・リード・コリンズに会いまし」た。

 果たしてこれを、幣原が発案したという証言として受け取ってよいのだろうか。幣原がコリンズ中佐に語ったことが真実であれば「口裏合わせ」を頼んだりしないだろう。青木が知らない事実を語ったのだとしても、それを「口裏合わせ」とは通常言わない。むしろこの証言は、幣原による「戦争放棄条項は自分たちの思い付きだ」という証言が真実ではないことを強く窺わせる証言だといっていいだろう。佐々木も、「青木の紹介した逸話は、「押しつけ憲法論」の引き起こす様々な問題を回避するために、幣原がついた「方便としての嘘」であった。だからこそ、幣原が青木に何の衒いもなく「日本人発案説」への「口裏合わせ」を求めた、と捉えておくべきである」と述べているが、これが日本語として普通の解釈であろう。
 
 次に長谷部忠の証言を紹介しよう。長谷部は1958年7月10日、憲法調査会で次のような証言を行った。
 
 1946年3月22日、幣原首相官邸に各新聞社の編集局長が招待された際、当時朝日新聞社編集局次長であった長谷部は局長の代理として出席し、幣原から「あの戦争放棄の規定はマッカーサーから押しつけられたものではない……、そういうように世間では考えているようだけれどもぜんぜんそうではないのだ。あれはまったく自分の発意によって入れることにしたものだ」と語ったという。ただし、長谷部はこのことをすっかり忘れていたのだが、マッカーサーがロサンゼルスの演説(1955年)で幣原発案説を証言したとのニュースを聞いて、このときの話を思い出したというのである。しかも長谷部がつけていた日記には、この日「午後4時に招かれてこういう会があった」ということだけで他には何も書かれていなかったということで、「どういうきっかけで幣原さんがそれをいいだしたかということはぜんぜん記憶にありません」と語っており、しかもこの証言を始めるに当たり、「私のお話することは、全く非常に漠然とした記憶でありまして、こういう権威のある調査会で資料になさるということにはあまりにもあいまいだと思いますけれども、呼ばれましたので御参考までに申し上げます」とわざわざ前置きしているのである。
 長谷部の記憶は果して事実なのか。それを裏付ける証拠・証言は何もない。しかし、この話が事実だとすれば、この日幣原の話を聞いた人物はほかにも複数いたはずである。憲法調査会はそれらの証人を呼ばなかったのであろうか。少なくとも長谷部と同じ証言をする人物がいなかったことは確かである。もしほかにどうようの証言をした人物がいたとすれば、これほど貴重な証言を憲法調査会が資料として残していないはずがないからだ。長谷部の証言はどう見ても信頼性の高いものではないと言えるだろう。
 
 では、幣原自身が「1946年4月以降多くの内外人に向ってしばしば、あれは自分の提案だという趣旨を語っているという点についてはどうだろう。これについては、そもそも、幣原がいつ誰にどのような話をしたのかが1件たりとも具体的に示されていないので、それが、「マ元帥の陳述を裏書している」と言われたところで、なんの説得力もない。ひょっとして「内外人」のうち日本人の証言には、上記の青木や長谷部の証言も含めてしまっているのだろうか。それ以外に日本人の証言があるのであれば、示すべきである。外国人の証言とは何か。佐々木『戦争放棄条項の成立経緯』の中に、それらしきものが1件見つかる。憲法調査会事務局作成資料「高柳会長とビナック教授との間にかわされた書かん」(1961年6月)の中に、シンシナチ大学政治学部長ハロルド・M・ビナック教授が、「1950年の1月下旬か2月上旬」、幣原議長に会見した際、ホイットニーから事前に聴いていた「幣原提案・マッカーサー賛同」説をもち出して幣原に尋ねたところ、幣原が「ホイットニー将軍の言明はまちがいないと確認されました」と述べたとある。ビナックが幣原に対してホイットニーの「幣原提案・マッカーサー賛同」説が正しいかと聞いたところ、幣原が間違いないと確認した、と、ビナックが高柳に書簡で述べた、という話である。幣原が自ら幣原発案説を語ったわけでもなければ、高柳会長が直接幣原から聞き取ったわけでもない。いわば二重の間接話法とでも呼べばいいのだろうか。「こうした状況下の幣原発言を重視する要は、ない」と佐々木は評しているが、妥当だろう。
 
 憲法調査会が集めた証言の中には、むしろ幣原が幣原発案説を否定するかのような証言がある。例えば、1959年2月12日、髙田元三郎委員が憲法制定経緯小委員会で行った海外調査報告によると、元GHQ民政局員のハッシーは、1950年4月、「吉田首相主催のガーデン・パーティで幣原さんに会ったとき」、マッカーサーが第9条のオーサーは幣原であると述べたことに「迷惑している」と言ったと証言している。
 
 また、稲葉修衆議院議員は1958年7月10日の憲法制定小委員会で、次のような証言をした。
 1950年11月23日、予算委員会のあと、仲間と飲みに出かけ、首相官邸付近でアメリカ人3人に襲われた。その際、仲間は無抵抗で無傷だったが、敢然と立ち向かった稲葉は4,5針も縫う大怪我をした。その翌日、幣原が見舞いに来た際、「無抵抗でへたばったやつは何も被害がなかったけれども、私は抵抗したものだからえらり目に合っちゃって、これは憲法9条第2項を忘れておったですかなあ……といったのです。そうしたらそれっきり嫌な顔をされたですね、むしろ。そしていやあお大事にといって帰っちゃいましたね」。
 
 この証言は、幣原発案を明確に否定するものではないとは言え、やはり幣原発案説には不利な証言だろう。結局、高柳の論証とは、幣原発案説に不利な証拠・証言はすべて無視したうえで、幣原発案説を主張する証拠・証言をつまみ食い的に引用したにすぎず、説得力のあるものとはおよそ言えないことは明らかである。そもそもマッカーサーやホイットニーの証言をそのまま信用してよいのだろうか。(第10回へ続く)

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