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【幣原発案説の虚妄(第15回)】幣原「芝居」説の虚妄(1)

 笠原十九司氏は『憲法九条論争』の第8章第1節「幣原の「芝居」に気づいた閣僚――幣原発案説」で、幣原は「閣議において、あるいは閣僚にたいしては(マッカーサーとの「秘密合意」のことを―引用者注)秘密にして、素知らぬ態度を示して「芝居」を打っていた」が、幣原内閣の閣僚は、「幣原首相の「芝居」に(……)気づいていた者と気づかなかった者とに分かれた」として、「芝居に気づいた」閣僚として入江俊郎法制局長官、佐藤達夫法政局次長、金森徳次郎吉田内閣国務大臣の3名を挙げている。ただし、「幣原首相の「芝居」に感づいて、幣原が憲法九条を発案したことに気づいていた者」と書いた直後に、「気づいていた、あるいは後から思い当たって気づいた閣僚」という言い方をしている。しかし、「気づいていた」というのと、「後から思い当たって気づいた」というのとでは、大きく意味が異なっている。「芝居に気づいていた」というのは、幣原が(笠原氏が言うところの)「芝居」をしているまさにその最中に「これは芝居だ」と気づいていた、という意味だが、「後から思い当たって気づいた」となると、後から振り返って考えると、「あれは芝居だったのだな」と思い当たった、という意味になる。
 
 では、笠原氏が挙げる3人のうち、同時代的に「これは芝居だと気づいていた」閣僚はいたのだろうか。これが誰もいないのである。3人とも、マッカーサーが1951年5月5日に米上院で幣原発案説の証言するのを聞いた後で、「そういえば、実際は幣原が発案したのに、知らぬふりをして芝居をしていたのかもしれないな」と推測した、というだけなのである。普通、「幣原の「芝居」に気づいた閣僚」がいた、と聞くと、幣原が「芝居」をしていたその最中に、「これは幣原の芝居だな」と気づいていた閣僚がいた、という意味だと思いがちだが、そうではなく、ここでは、(幣原が亡くなった後の)マッカーサーの証言を聞いて、「そういえば幣原は芝居をしていたのかもしれない」と思った閣僚がいた、という意味にすぎないのである。笠原氏が「幣原の「芝居」に気づいていた閣僚」とは書かず、「幣原の「芝居」に気づいた閣僚」と表記したのはそのためなのである。しかも、幣原が芝居をしていたという客観的な証拠は当時も今もどこにも存在しない。「マッカーサー証言が正しい」と仮定したうえで、それならあれは幣原の芝居だったのだな、と推測しているだけなのである。
 
 言うまでもないことではあるが、ある証言が正しいか否かは、その証言を正しいと仮定したうえでなされた推測によって、(証言の正しさが)裏付けられる、などということはない。少しでも論理的に考えれば、誰にでもわかることである。しかし、笠原氏はちょっとした言葉の操作の積み重ねによってそうした印象を生み出そうとしているのである。
 
 笠原氏は第8章第1節の結論部で、「入江俊郎・佐藤達夫と(……)金森徳次郎がともに、憲法9条幣原発案説を証言していたことは、幣原発案説を証明する確証になっている」と述べている。しかし、入江ら3氏が述べているのは、マッカーサー証言が正しいと仮定したうえでの推測にすぎず、仮定に基づく推測が何かを「確証」するなどということは論理的にあり得ないのである。
 
しかもここで3氏が「証言」(実際は「推測」)したとされる「幣原発案説」とは、単に幣原が戦争放棄の提案をした、という話にすぎず、戦争放棄条項(や戦力放棄条項)を憲法規定化する提案を行った、という話ではない。シリーズ第7回「幣原発案説とは何か」でも述べたが、下の①から④の4パターンのうち、広い意味でも9条発案説と呼びうるのは③と④であり、厳密な意味では④だけである。なぜなら戦争放棄や戦力放棄が第9条として憲法に規定されることがなければ、9条に関する論争など起こり得なかったのであり、憲法の条文として規定されたことによって初めて、重大な政治的意味を持つ論争が巻き起こることになったからである。また、仮に9条が第1項の戦争放棄条項だけであったとしたら、やはり重大な政治的論争にはならなかったであろう。1項だけなら侵略戦争だけを否定したのであって、自衛戦争は否定していないと解されることになったであろうから、それなら現代国際法上当たり前のことを規定したにすぎず、やはり深刻な9条論争など起こりようもなかったであろう。
 
①    憲法には触れず、戦争放棄についてのみ語った
②    憲法には触れず、戦争放棄と戦力放棄について語った
③    戦争放棄を憲法条項に入れたいと語った
④    戦争放棄と戦力放棄を憲法条項に入れたいと語った
 
 私自身、①は否定していない。というか、①を否定する説などほとんど存在しないのではないか。1946年1月24日のマッカーサーとの会談で、幣原は戦争放棄について語ったであろう。しかし、問題は③や④(とりわけ④)のようなことを幣原が語ったか否かである。これを肯定するのが幣原発案説(特に④は厳密な=狭義の幣原発案説と呼べるだろう)であり、否定するのが幣原発案否定説である。①や②を発案説と呼んではならない。そのようなことをすれば、もはや何を論じているのかさえ意味不明となり、議論が意味を持たなくなるからである。
 
 それでは以下、入江氏から順に、実際に何を証言したのか見てみよう(第16回へ続く)。

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