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【幣原発案説の虚妄(第6回)】堀尾輝久氏の幣原発案説批判(1)

 堀尾輝久氏は『地球時代と平和への思想』(本の泉社、2023年)に収録した論稿のいくつかにおいて幣原発案説を繰り返しているが、その中でも最も詳細に論じているのが『世界』2016年5月号に掲載された論文「憲法九条と幣原喜重郎――憲法調査会会長高柳賢三・マッカーサー元帥の往復書簡を中心に」なので、今回はこの論文を検証してみたい。この論文では、堀尾氏が2016年に国会図書館憲政資料室で見つけた高柳賢三・憲法調査会会長とマッカーサーとの往復書簡の紹介が中心となっている。この史料について、東京新聞が同年8月12日の一面トップで、「「押しつけ憲法」否定の新史料」という大見出しで報じたことは前回(「幣原発案説の虚妄(第5回)」)述べたが、これは「新史料」どころか、1964年7月発行の憲法調査会『憲法制定の経過に関する小委員会報告書』においてすでに紹介されているものである。さらに、憲法学者の佐々木高雄氏は1997年に出版した『戦争放棄条項の成立経緯』(成文堂)の中でもこの書簡について緻密な分析を加えている。
 堀尾氏自身は「新史料」という言葉を使っていないので、こうした誇張表現(というか誤報)の責めは東京新聞に帰せられるべきものだが、堀尾氏自身も東京新聞のインタビューに答えて、「この書簡で、幣原発案を否定する理由はなくなった」と述べているのは大きな間違いだと言わざるを得ない。
 
 堀尾氏がこの論文で紹介している史料とは、憲法調査会の渡米調査団(高柳会長が団長)が1958年12月にマッカーサーとの間で交わした往復書簡である。以下、佐々木書からの引用を交えつつ、往復書簡の内容を紹介する。
 
 まず12月1日に高柳会長はホイットニーを通じてマッカーサーに次のような質問をしている。
 「多くの議論が行われている第9条については、わたくしは、マッカーサー元帥も幣原男爵も、日本の基本政策という観点からのみならず、世界全体に実現すべき性質の事態という観点から考えていたものと思う。日本国憲法第9条は、世界各国の将来の憲法の模範となるべきものであった。さもなければ、人類は、原子力時代において死滅してしまうかも知れない。わたくしは、ロスアンゼルスにおける元帥の雄弁な演説に大いに感動詞、元帥が日本政府に対して本条を憲法に入れるように勧めたとき、元帥の心中には他の考慮もあったかもしれないが、これが元帥の支配的な考えてあったと思うようになった」
 「わたくしは、(……)わたくしの印象が誤っていないかどうかを元帥にお尋ねしたいのです」
 
 これに対してマッカーサーは、12月5日付の書簡で次のように回答した。
「貴下の印象は正しいものであります。第9条のいかなる規定も、国の安全を保持するのに必要なすべての措置をとることを妨げるものではありません。わたくしは、このことを憲法制定の当時述べましたが、その後(中略)自衛隊を設けるよう勧告いたしました。本条は、専ら外国への侵略を対象としたものであって、世界に対して精神的な指導力を与えようと意図したものであります。本条は、幣原男爵の先見の明と経国の才と英知の記念塔として、永存することでありましょう」
 
 しかし高柳会長にはまだ疑問が残ったため、12月10日付でマッカーサーに次のような再度の質問を送っている。
 「幣原首相は、新憲法起草の際に戦争と武力の保持を禁止する条文をいれるように提案しましたか。それとも、首相は、このような考えを単に日本の将来の政策として貴下に伝え、貴下が日本政府に対して、このような考えを憲法に入れるよう勧告されたのですか」
 
これに対してマッカーサーは、12月15日付で次のように回答した。
 「戦争を禁止する条項を憲法に入れるようにという提案は、幣原首相が行ったのです。首相は、わたくしの職業軍人としての経歴を考えると、このような条項を憲法に入れることに対してわたくしがどんな態度をとるか不安であったので、憲法に関しておそるおそるわたくしに会見の申込をしたと言っておられました。わたくしは、首相の提案に驚きましたが、首相にわたくしも心から賛成であると言うと、首相は、明らかに安どの表情を示され、わたくしを感動させました
 
 以上の往復書簡を基に、堀尾氏は、「この回答は、1951年5月5日の上院軍事外交合同委員会での証言と変わらず、その信憑性を裏付けるものであり、しかも文書によるものである」、「よく準備され、焦点のはっきりした質問と明快な回答は貴重な証拠資料であり、憲法九条の成立史研究にとって、そして憲法九条の捉え方にとっても意義深いものがある」と述べている。
 
 マッカーサーはそれ以前から戦争放棄条項を提案したのは幣原であるという主張を行っていた。公式の発言としては、堀尾氏の挙げる1951年5月5日の米上院軍事外交合同委員会での証言のほか、1955年1月26日、ロサンゼルス市内でのアメリカ在郷軍人会主催の午餐会での演説が知られている。しかし、これらのマッカーサー証言については、これを疑問視する人が多くいたため、渡米調査団の目的のひとつは、この証言の真偽について調べることにあったはずである。しかし、マッカーサーから会見を拒否されたため、やむなく書簡での質問ということになったわけだが、そうであれば、佐々木氏の説くように、「高柳は、その点を解明できるような工夫を凝らして質問すべきであったが、マッカーサー宛の書簡に、そうした努力の跡を認めることができない」と言わざるを得ない。結論として佐々木氏の言う通り、「高柳の質問は、不適切であり、(……)高柳の聞き方では、マッカーサーに従来の主張を再確認する機会を提供し、(……)調査団が「嘘の上塗り」に手を貸す結果にもなりかねない」ものであった。
 
 しかも、高柳の2度目の質問は、「幣原首相は、新憲法起草の際に戦争と武力の保持を禁止する条文をいれるように提案しましたか」というものであったのに対して、マッカーサーの回答は、「戦争を禁止する条項を憲法に入れるようにという提案は、幣原首相が行ったのです」というものであり、明らかに「武力の保持を禁止する条文」を入れるよう提案したのは誰か、という質問に答えていない。これほど短い質問に対して、うっかり回答し忘れたということは考えられないから、これは明らかに意図的な回答逸らしである。そのことは12月5日付の第1回の回答からも明らかである。そこではマッカーサーは、「第9条のいかなる規定も、国の安全を保持するのに必要なすべての措置をとることを妨げるものではありません。わたくしは、このことを憲法制定の当時述べました」と述べている。この引用の後半部分は明らかな嘘である。実はマッカーサーは憲法9条の解釈を、自衛権の否定から肯定へと、1949年のいずれかの時点で変更しているのである。そのことが明白になるのは1950年の元旦である。この日、マッカーサーは、年頭の辞において、「この憲法の規定はたといどのような理屈をならべようとも、対手側から仕掛けてきた攻撃に対する自己防衛の冒しがたい権利を全然否定したものとは絶対に解釈できない」と述べ、9条が自衛権・自衛戦争を認めたものであるとの解釈を打ち出したのである。(実はマッカーサーが幣原発案説を唱えだすのもこの前後からなのであるが、これについては、別途論じることにする。)
 
 1946年2月3日、マッカーサーがホイットニーに対して3原則を示し、民政局に憲法改正案の作成を指示した際の、第2原則には、「国権の発動たる戦争は、廃止する。日本は、紛争解決のための手段としての戦争、さらに自己の安全を保持するための手段としての戦争をも、放棄する」と書かれており、自衛戦争の放棄が明確に定められていた。その後、民政局で作成されたGHQ草案においてはここまで露骨な自衛戦争放棄条項は削除されたものの、GHQ草案を基にした日本案でも、帝国議会で採択された現行9条にしても、2項ですべての戦力放棄が規定されたため、当初は日本政府もマッカーサーも、憲法9条は自衛戦争を放棄したものと解釈していた。そのことは、1946年3月6日の「憲法改正草案要綱」公表時のマッカーサー声明からも、同年4月5日の対日理事会におけるマッカーサーの挨拶からも明らかに読み取れるのである。
 
 その後、冷戦の深まりとともに、米本国の対日占領政策に変化が生じ、1948年1月にはケネス・ロイヤル米陸軍長官が「日本を反共の防壁とする」と演説したのをはじめ、同年10月には米国家安全保障会議が「対日政策に関する勧告(NSC13/2)」を採択し、日本の占領政策を初期の民主化・非軍事化から経済復興と再軍備へと正式に転換した。しかし、マッカーサーはこのころまではまだ日本の再軍備に反対して、本国政府と対立していたのである。しかし、1950年元旦に自衛権容認へと公然と転換して以降、マッカーサーにとっては9条は軍備を否定したものではなくなっていたのである。だからこそ、「武力の保持を禁止する条文」を入れるように提案したのは誰かという高柳の質問に回答しなかったのである。
 
 このような、明白な嘘まで含まれたマッカーサーの回答をもって、幣原発案説が証明されたなどと言えないことは明らかであろう。(第7回へ続く)

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