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歴史修正主義の30年⑥河野談話修正への執念

 こうして日本社会において歴史修正主義が強まる中で、従軍慰安婦に関する記述が中学校の歴史教科書から一斉に姿を消した2006年の9月26日、第1次安倍内閣が発足したが、その10日後の10月6日、安倍首相は衆院予算委で慰安婦問題について、「狭義の強制性については事実を裏づけるものは出てきていなかったのではないか」と発言し、早くも強制連行否定論を披歴している。この否認論は翌07年3月5日には、「官憲が家に押し入って人さらいのごとく連れて行く狭義の強制性はなかった」という安倍首相の国会発言となり、同月16日には、「政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示す記述は見当たらなかった」とする閣議決定に至る。これは、強制性を「狭義」と「広義」に分けたうえで、「狭義の強制性」すなわち「官憲が人さらいのごとく連れて行く強制連行」のみを問題とし、これを裏付ける公文書が存在しない限り、日本軍や日本政府に責任はない、とする「論理」である。

 これが何重にも破綻した「論理」であることは明らかである。第1に、連行や徴募の形態のみが問題なのではなく、「慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいもの」(河野談話)であり、犠牲者たちは「居住の自由」「外出の自由」「廃業の自由」「軍人の姓の相手を拒否する自由」などを奪われており、現代の奴隷制の一形態である「性奴隷制」に該当することこそが問題だからである。仮に「狭義の強制性」(暴力的連行・拉致)がなかったとしても、「広義の強制性」が否定できない以上、明白な犯罪であることに疑問の余地はないからだ。第2に、慰安婦の徴募の形態には、暴力的な文字通りの強制連行(いわゆる拉致。当時の法律用語では略取)のほか、いい仕事があるなどと騙して連れてくるケース(誘拐)や、親などに身売りされて連れられてくるケース(売買)もあったが、当時の刑法では、国外に移送する目的で「略取」もしくは「誘拐」または「売買」することは全く同罪であって、「略取」(狭義の強制連行)でさえなければ、「誘拐」や「売買」は問題ないかのごとき議論は全く無意味である。第3に、歴史の資料を公文書に限定しなければならない根拠はなく、連行の場面においても強制があったことを示す被害者の証言や元軍人の証言は多数存在しており、その一部は日本の裁判所においても事実認定されている。第4に、極東国際軍事裁判判決のほか、アメリカ軍が作成した資料やオランダ政府が調査・公表した資料など、狭義の強制連行の事実を認定した外国の公文書が存在しており、「公文書は存在しない」という言明自体が事実に反しているからである。

 このように河野談話の修正に執念を燃やす第1次安倍政権であったが、2007年参院選で惨敗すると、一度は退陣を拒否したものの、国会で所信表明演説を行った2日後、政権を投げ出すように辞職を表明した。その後、福田・麻生政権が1年ずつで交代した後、民主党への政権交代が起こるが、ここでも鳩山・菅・野田政権へとめまぐるしい内閣交代が続いた後の2012年9月、自民党総裁選への立候補を表明した安倍晋三は記者会見で、河野談話につき、「強制性を証明するものがなかったというのは安倍政権で閣議決定した。強制性があるという誤解を解くべく、新たな談話を出す必要がある」と語り、同月15日の立候補者立ち合い討論会でも、「河野談話によって、強制的に軍が家に入り込み、女性を人さらいのように連れて行って慰安婦にした、という不名誉を日本は背負っている。……孫の代までこの不名誉を背負わせるわけにはいかない」と語るなど、河野談話への強い憎しみと、その修正への意欲を繰り返し表明した。その安倍晋三は第1次政権崩壊からちょうど5年後の9月26日、自民党総裁に選ばれると、その3か月後の12月26日には第2次安倍政権が成立した。すると、その翌日には菅義偉官房長官が河野談話の見直しに言及し、さらにその3日後、安倍首相も産経新聞とのインタビューで、河野談話の見直しを表明した。いかに安倍政権が河野談話の修正に執念を抱いていたかがよくわかる。実際、2013年秋から産経新聞が始めた河野談話つぶしキャンペーンの追い風を受けて、2014年2月28日には菅義偉官房長官が河野談話作成過程の検証チームを作る考えを表明、6月20日にこの検証チームが、「慰安婦問題を巡る日韓間のやりとりの経緯」と題する検証報告を公表した。しかし、この検証報告をもってしても、河野談話を修正するという当初の目論見は果たせなかった。

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