見出し画像

【幣原発案説の虚妄(第10回)】幣原発案説の発案者(1)

 幣原発案説は多くの人が唱えているようであるが、その出所を辿ると、ホイットニーとマッカーサーの2人に絞られる。(ほかに平野文書を上げる人もいるが、これが偽書であることは拙著で論証したので、ここでは取り上げない。)
 
 そして、私が調べ得た史料で確認できる限り、最も早いのは、1950年1月1日の読売新聞に掲載されたAP東京支局長ラッセル・ブラインズ記者によるホイットニー民政局長へのインタビューである。これは、この日出されたマッカーサーの年頭声明に対する解説のような形をとっている。マッカーサーはこの日初めて、憲法9条が自衛権を否定したものではないと公式に発言したのであるが、マッカーサーのこの発言について、ホイットニーは、「マ元帥が自衛権について言及したのは今回がはじめてではない、元帥はいままでも日本を訪問した多くのアメリカ人に“いかなるものでも攻撃を受けたら防衛する権利がある”と語った、また防衛問題の考えも決して新しいものでなく前にも“非武装化された日本は外国軍隊に依存せざるを得ず、いまのところアメリカが日本にこの保障を与え得る唯一の国である”との言葉をのべたことがある」と述べ、マッカーサーが急に意見を変えたという印象を与えないようなフォローを行っている。さらに重要なのは、ホイットニーがこの直前に、「日本の憲法における戦争と軍備の放棄を規定した条項は当時の首相幣原氏が進言しこれをマッカーサー元帥が承認したものである」と述べたのである。
 
 確認できる限り、これが時期的に最も早い幣原発案説であるので、私は、ホイットニーが幣原発案説の発案者であり、この説を広めることをマッカーサーやGHQの関係者に説いていたのではないかと推測している。これは私の独創ではなく、佐々木高雄氏の研究(『戦争放棄条項の成立経緯』)から示唆を得たものである。佐々木氏は、「ホイットニーが幣原発案説を強調する司令塔となり、マッカーサーに対しても機会あるごとに、幣原発案を説くことの重要性を伝え、「それを強調するように」と助言していた、と仮定すると、納得のいくことが少なくない」(佐々木135頁)と述べているが、私も同感である。
 
 後に述べることになると思うが、マッカーサーに憲法改正案をGHQ側で作成して日本に押しつけることを進言した(1946年2月2日)のはホイットニーである。ホイットニーはGHQの中でも唯一アポなしでマッカーサーの執務室を訪れることのできる人物で、ホイットニーの妻が「あなたは誰と結婚したの?」と皮肉を言うほど、2人は毎日のように会って相談していたので、幣原発案説の流布もホイットニーがマッカーサーに提案したとしても不思議ではない。ではなぜ、ホイットニーはこの時期に、幣原発案説を主張するようになったのか。それはマッカーサーが9条解釈を自衛権の否定から自衛権の保有へと180度変えたことに示されるように、憲法9条の存在がGHQにとって邪魔なものになり始めていたからである。
 
 米政府は1948年に「対日政策に関する勧告(NSC13/2)」を採択して日本占領政策を初期の民主化・非軍事化から経済復興と再軍備に転換することを決め、GHQにも伝達していたが、マッカーサーは経済復興を優先する方針は受け容れたものの、再軍備には反対して、ワシントンと対立していた。1949年になっても、マッカーサーは3月3日、「戦争が起こった場合、米国は日本が戦うことを欲しない。日本の役割は太平洋におけるスイスとなることである」と述べ、この時点までは日本の再軍備に反対していた。ところがその後、ソ連が原爆開発に成功し(8月29日)、中華人民共和国が成立する(10月1日)など国際情勢の変化の中、11月 2日にワシントンで行われた講和条約に関する関係者の会議で、マッカーサーはそれまでの日本非武装化政策から日本の再軍備と講和後の在日米軍基地存続へと方針を転換しており、そのことが翌50年元日の年頭声明における自衛権保有発言へとつながっていったのである。つまりこのころにはすでに、マッカーサーにとって憲法9条が邪魔なものとなり始めていたのである。その後、この年(50年)の6月25日に朝鮮戦争が勃発し、駐留米軍がすべて朝鮮半島へと出撃した後の「空白」を埋めるため、マッカーサーが警察予備隊の創設を日本政府(吉田内閣)に命じたことはよく知られている。このときマッカーサーは、すでに自衛権保有解釈へと転換していたことに胸を撫で下ろしたであろう。
 
 なお、前回(シリーズ第9回)紹介したように、1946年3月22日に首相官邸で開かれた新聞各社編集局長との懇談の席上、幣原が「あの戦争放棄の規定はマッカーサーから押しつけられたものではない……、そういうように世間では考えているようだけれどもぜんぜんそうではないのだ。あれはまったく自分の発意によって入れることにしたものだ」と語ったという長谷部忠の証言(1958年7月10日、憲法調査会)があるが、これは全く信を置くに値しない。なぜなら長谷部はこの話を1955年1月26日にマッカーサーがロサンゼルスで行った演説を聞いて「思い出した」と述べているが、長谷部の証言が事実であれば、当然この幣原発言を聞いた他の出席者から裏が取れるはずであるにも関わらず、憲法調査会では裏が取れていないからである。
 
 次に幣原発案説が出てくるのは、先のマッカーサー声明とホイットニーによるその解説記事が出たすぐ後である。1950年1月14日から3月14日の日程で実施された国会議員団の訪米研修旅行に先立ち(正確な日付はわからないが、いずれにせよ同年1月前半である)、議員団がマッカーサーに挨拶した際、マッカーサーは「戦争放棄は幣原氏の主張であって、自分はその条項を入れることは30年早いと思った」と語ったということを、入江俊郎が議員団の一人だった島静一衆議院渉外課長から1952年2月14日に直接聞き取ったということである(入江俊郎『日本国憲法成立の経緯』)。
 
 次に(これも前回紹介したことだが)、同年1月下旬から2月上旬の間に、「シンシナチ大学政治学部長ハロルド・M・ビナック教授」が幣原議長に会見した際、ホイットニーから事前に聴いていた「幣原提案・マッカーサー賛同」説をもち出して幣原に尋ねたところ、幣原が「ホイットニー将軍の言明はまちがいないと確認」した、ということである(憲法調査会事務局作成資料「高柳会長とビナック教授との間にかわされた書簡」1961年6月)。
 
 さらに、同年4月、吉田茂首相主催のガーデン・パーティでアルフレッド・ハッシーGHQ民政局員が幣原元首相に会ったとき、幣原はハッシーに対し、1949年末の記者会見で、マ元帥が第9条のオーサーは幣原であると述べたことに迷惑していると語ったという(憲法調査会「憲法制定の経緯に関する小委員会第17回議事録」1959年2月12日。髙田元三郎委員による憲法調査会の海外調査の報告)。「1949年末のマッカーサーの記者会見」とは何か。朝日新聞、読売新聞、毎日新聞の同年12月の記事を検索してみたが、それらしい記事は見つからなかった。佐々木は、「憲法調査会では、幣原の迷惑発言の源を、マッカーサーの新聞記者会見と捉えたらしいが、具体的には掌握していない様子である。しかし、ホイットニーが記者会見して、マッカーサーの意向を伝えた右の(注:1950年1月1日の読売新聞の)記事こそ、それとすべきではなかろうか」と推測している。AP通信記者がホイットニーにインタビューしたのは49年末であることは間違いなかろうし、マッカーサー声明を解説したホイットニーの言葉をマッカーサー自身の発言だと幣原が解釈したとしても不思議ではない。いずれにせよ、この時点の幣原は、マッカーサーが9条の発案者は幣原だと言っているのを聞いて迷惑に感じていた、ということである。幣原が実際に9条の発案者であったならば、あり得ない発言である。
 
 次にこの年の5月3日、憲法記念日の出来事について、大池眞・衆議院事務総長の手記が幣原平和財団による伝記『幣原喜重郎』に掲載されている(683~684頁)。以下、引用する。

第7回国会(昭和25年5月2日)の最終日に、「未帰還同胞の引揚促進並に実態調査」等を国際連合を通じて行うことを懇請するという決議をしたので、翌(1950年)5月3日憲法記念日式典終了後午後6時半、幣原(集医院)議長は議会報告を兼ねて右決議文を手交するためにGHQにマックアーサー元帥を訪問した。この時にマックアーサー元帥から次のような発言が出たことを記憶している。
 「自分は日本進駐まで武力による破壊行為だけ続けてきたが、これkらは平和の建設に全力を捧げるつもりである。而して日本憲法制定にあたり幣原君は日本は一切の戦力を放棄すると言われたが、私はそれは約50年間早過ぎる議論ではないかというような気がした。然しこの高邁な理想こそ世界に範を示すものと思って深い敬意を払ったのであるが、今日の世界情勢からみると、何としても早すぎたような感じがする。」
 マックアーサー元帥の前記発言に対し、幣原議長はニガ笑いをして聞いておられただけであった。その後間もなく朝鮮事変が起った。

 先ほどの島証言にあった「30年早い」がここでは「約50年間早過ぎる」となっているが(表現が徐々に大袈裟になるのはマッカーサーの特徴である)内容はほぼ同じである。しかし島が証言した場面には幣原が同席していなかったのに対し、今回は幣原が同席している点が大きな違いである。マッカーサーとしては、あえて幣原の前で自らの幣原発案説を披露することで、自分たちの意向を伝え、幣原にもその線で了解しておいてほしいと伝えようとしたのであろう。一方、先日「迷惑」発言をしたばかりの幣原にとっては、公衆の面前でマッカーサーの発言を否定して、最高司令官のメンツをつぶすわけにはいかないが、かと言って調子よく肯定する気持ちにもなれない。確かに「幣原発案説」は「押しつけ論」をかわすうえでは有効ではあるが、自分一人がその責任を負わされるのは納得がいかない、等々の複雑な気持ちが「ニガ笑い」となって表れたのであろう。
 
 それから2カ月も経たない同年6月25日には朝鮮戦争が勃発し、翌7月8日にはマッカーサーが警察予備隊の創設を吉田首相に指令したのは周知の通りである。後に佐藤達夫が憲法制定に関する小委員会で行った「マクネリーによるフランク・リゾー(ホイットニーの後任の民政局長)へのインタヴューの紹介」によると、リゾーは、「朝鮮事変が発生した後までの間、この(戦争放棄)条項がマッカーサー以外の人のアイデアであったということは、ささやきすらも聞かなかった」と語ったという。また、作家の児島襄が1970年頃に行ったインタビューに、リゾーは、「マッカーサー元帥と幣原首相との会談には、誰も同席しなかったはずだ。私はホイットニー将軍から聞いたが、そのときは、ホイットニー将軍はこれはマッカーサー元帥のアイデアだといっていた。ところが、1950年には、幣原首相のアイデアであり、元帥はそれを喜んでうけいれた、と聞かされた」と語ったという(児島『史録・日本国憲法』文春文庫、1986年、229頁)。さらに、憲法学者の西修が1986年3月に行ったインタビューでは、「リゾー氏は筆者に面白い話をしてくれた。それは、ホイットニーが第9条の発案者に関し、当初、「アウアー・オールドマン」(マッカーサー元帥を指す)と言っていたが、朝鮮戦争勃発以降「ユア・オールドマン」(幣原首相を指す)と言い出した」というのである(西『ドキュメント・日本国憲法』1986年)。
 
 こうしてみると、1950年1月1日から始まったホイットニーやマッカーサーによる幣原発案説の提唱は、朝鮮戦争勃発以後は明確にGHQの公式見解へと昇格した、ということであろう。警察予備隊創設指令から4カ月ほど経った同年11月11日、ニッポン・タイムズ(ジャパン・タイムズの前身)に興味深い記事が載ることになる。同紙では、憲法公布4周年(1950年11月3日)記念として、その前年(1949年)に公表された民政局報告書(Political Reorientation of Japan, September 1945 to September 1948.)の一部を転載し、憲法制定経緯を紹介する計画を立て、民政局に転載許可を求めたところ、2,3日経ってから条件付きの許可が出たという。その条件とは、9条の元になったマッカーサー・ノート第2項の直後に、原文にはなかった、「この考えは、当時の首相幣原氏が最高司令官に進言し、即刻、その全面的な支持を得たものである」との文章を括弧書きで入れること、というものだった。その条件に従った記事が11月11日付の誌面に掲載されたというわけである。

 このとき、GHQの関係者の間で、9条は幣原=マッカーサー会談で幣原が提案したことにしようという意志統一が図られたのではないかと思われる。ホイットニーの後任として民政局長になったフランク・リゾーという人物がいるが、様々な人がリゾーにインタビューを行っている。佐藤達夫によってなされた「マクネリーによるリゾーへのインタヴューの紹介」(憲法調査会「憲法制定の経緯に関する小委員会第35回議事録」)によると、リゾーは、「朝鮮事変が発生した後までの間、この(戦争放棄)条項がマッカーサー以外の人のアイデアであったということは、ささやきすらも聞かなかった」と答えたという。また、児島襄が行ったインタビューでは、リゾーは、「私はホイットニー将軍から聞いたが、そのときは、ホイットニー将軍はこれはマッカーサー元帥のアイデアだといっていた。ところが、1950年には、幣原首相のアイデアであり、元帥はそれを喜んでうけいれた、と聞かされた」と答えたと言う(児島『史録・日本国憲法』文春文庫、1986年、229頁)(インタビューが行われたのは1971年3月以前)。さらに、西修が1986年3月26日に行ったインタビューでは、「ホイットニーが第9条の発案者に関し、当初、「アウアー・オールドマン」(マッカーサー元帥を指す)と言っていたが、朝鮮戦争勃発以降「ユア・オールドマン」(幣原首相を指す)と言い出した」ということである(西『ドキュメント・日本国憲法』1986年、191頁~)(以上3つの引用は佐々木書からの再引用)。
 
 以上の証言から、朝鮮戦争勃発(1950年6月25日)を境としているかどうかははっきりしないものの、1950年1月1日のマッカーサー声明とホイットニーの解釈以後、遅くとも同年11月のニッポン・タイムズへの注記要求の頃までには、幣原発案説はホイットニーを中心とするGHQの公式見解となったと思われ、その発案者がホイットニーであることが強く推定されるのである。(第11回へ続く)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?