世界は経営でできている 著)岩尾俊兵
ー感想ー
最初は、言葉の比喩が多すぎて、作者の意図がわからなかった。
最終的には、人間が人間として生きられるのは価値創造ゆえだ。
人生の究極の目的は幸せ(=価値)創造にある。
人類は価値創造によって都市や国家を形成し、それがさらなる価値創造を生んだ。価値創造をするための経営を行う必要がある。自分にとっての価値(=幸せ)創造とはどんなことを、意味しているのか改めて考えさせられた。
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そで
結論を先取りすれば、本来の経営は「価値創造(=他者と自分を同時に幸せにすること)という研究の目的に向かい、中間目標と手段の本質・有効性を問い直し、究極の目的の実現を妨げる対立を解消して、豊かな共同体を創り上げること」だ。この経営理念の下では誰もが人生を経営する当事者となる。
幸せを求めない人間も、生まれてから死ぬまで一切他者と関わらない人間も存在しないからだ。他者から何かを奪って自分だけが幸せになることも、自分を疲弊させながら他者のために生きるのも、どちらも間違いである。「倫」理的な間違いではなく「論」理的な間違いだ。
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当世真面目気質:勉強いおける「つながり」と「ばらつき」の経営
勉強においてこうした徒労が起こる理由は、知識の「つながり」と「ばらつき」から説明できる。
前提として、英語に限らず全ての知識は全体を部分に分けることができる。英語力の場合には単語力と文法力と長文読解力と…とう具合である。しかし、部分的な能力の総和がそのまま全体的な能力になるわけではない。複数の部分がつながった時に初めて全体になるためだ。
しかも、部分的な知識の理解度には、ばらつきが生じる。
そのため、部分的な知識のうち理解度が最も低いところが、確率論的に必ず1カ所存在する。そして、部分んは別の部分との繋がりを持つため、上記の「最も低い所」が制約(ボトルネック)となって全体の理解度を決定するのである。
例えば、単語力がどんなに突出していても文法力が皆無ならば英語は読めるようにならない。あるいは、確率の概念を理解していないと統計学の結果を誤読してしまう。語彙力が乏しければ、鋭い感性があっても長文を書くことはできない。歴史の大きな流れが分かっていなければ史実の背景事情を説明できない。学問分野での議論の展開が分かっていなければ理論の面白さは十分には理解できない。このように、勉強においては「初めに全体観を把握してから最も弱い部分を補強していく」必要がある。さらに、最も弱い部分を補強した後には別の部分んが最も弱い部分となる。こうして次々に補強する部分を変化させることで全体の理解が進む。
勉強であれ、仕事であれ、何事にも「本当に取り組んでいる時間」と「取組むための準備の時間」がある。
人間は本当の取り組みの準備のために時間を浪費することがあまりにも多い。例えば、勉強の計画を1日中立てている人がいる。毎日のように、教師に、質問するでもなくひたすら勉強計画の相談にいく人がいる。具体例を挙げればキリがない。そして「はあ、今日の勉強したなあ」「でも、成績が上がらないなあ」とため息をつくのである。
そもそも怒っている人は脳という「人間が持つ最も有力な器官」を「怒りという何も生み出さない活動」に浪費してしまっている損な人だ。
悪法の栄え:社会制度には耐用年数がある
このように、政権が「国民が生き生きとして幸せになれる共同体を作る」という本来の目的を忘れると、一時的に権力を握った勢力も徐々に民心を失っていく。
政治的腐敗が進み、民心を得られない政権下では、市民も真面目に働くのがバカらしくなる。
こうして、一時期に権勢を誇った王国や文明は軍事力と経済力の両方を自ら手放す。その結果として、常日頃から存在していた危機に対処できなくなり、国家は崩壊するのだ。
国家が崩壊するときの非喜劇は世界中で同じである。
特定の王国や文明が稚拙な国家経営によって弱体化した時、まるで狙ったかのように危機(異民族の侵略、大災害と飢饉、内乱と革命など)がやってくる。声は当たり前の話である。常に危機は存在していて、政権が弱体化しないと危機は危機にならないだけだ。
こうした特徴から、「この国は外圧がないと変わらない」などと言い出す人も世界中で見られる。全ての国にとって外圧は今この瞬間も存在しているのにである。
弱体化した末期症状の政権は、さまざまな危機に対する無為無策無能ぶりを曝け出す。それもそのはずで、世の中が変化し続けていて、危機への適切な対処法喪変化しているのに、政権内で権力を得る人を選抜する方法は変わっていないためだ。
日本の幕末においても儒学・朱子学を究めた幕僚たちは黒船来航に右往左往するばかりだった。むしろ黒船来航から続く外圧の危機に対処できたのは、当時最高の教養を誇っていた旗本・御家人ではなく、伝統的教養から比較的自由だった下級武士たちだった。
こうしたことから分かるように、制度と行政には耐用年数がある。
例えば共和政ローマにおける元老院制度は、各氏族の意向を反映できるという意味で部分的に民主政治を実現していた。しかし、元老院制度は国内での絶えざる政治闘争を生み出すため、外征が頻繁になる時代には向かなかった。だからこそ、カエサル、オクタウィアヌス(アウグストゥス)といった独裁者が台頭し、徐々に訂正に移行していった。
現代では江戸時代の愚策の代表のように扱われる鎖国体制も同様である。
当時の江戸幕府に取っては、戦国時代を終結させて太平の世を実現することが最優先だった。そのため、キリスト教の流入と国際政治の影響による内政の混乱を避け、再び戦国の世に戻ってしまわないために、鎖国を決めたと考えられる。
しかし、鎖国による太平の世は、同時に、日本が外交に疎くなる原因を作った。
経営を忘れた人間はサルの群れと大差はない。人間が人間として生きられるのは価値創造ゆえだ。人生の究極の目的は幸せ(=価値)創造にある。
人類は価値創造によって都市や国家を形成し、それがさらなる価値創造を生んだ。
end
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