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絵を一からやり直すなら

要旨

  • 機械学習を触っていると「学習」の過程についてのノウハウがついてきた

  • すでに特定のデータセットで強く学習済みのモデル(以下A)は、そうでないまっさらなモデル(以下B)と比較して新たなデータへの覚えが格段に悪い。スタート時点ではAの方が圧倒的に優秀でも、学習が進めば進むほどBがあっさりとそれを追い抜く。絵界隈で「画力のインフレ」が起きている理由はこれ

    • 恐ろしい才能……!おそらくあたしがあの域に到達したのは20代の後半……!

      • ↑才能ではなく、ただデータセットの質が上がっただけ

  • そもそも今の自分の絵柄が好きになれない

生気がない

プランニング

  • まっさらな状態からやり直す(やり直せる)と仮定して、どのように進めるか?

  • 今まで「成長率不足で出来ない」と断定していたことに手を付ける

    • パース学習など

  • 絵柄を革新する

    • モデルをマージするようなイメージで考える

    • 天野シロ、植芝理一、衛藤ヒロユキ、新井隆広などをマージしたい

      • 頭身低めの絵柄にしたいので新井先生はミスマッチかもしれない。そのへんのバランスも考える

絵柄に関する恐怖の払拭

  • 今まで「特徴的な絵柄は絵画としては映えるが、多用途性が減少するので漫画などのストーリーテリング向きではない」という持論があった

  • 結論から言うとこれは破棄する。

  • 超デフォルメの効いた絵柄であってもシリアスで陰惨な物語を展開することは可能。(例: 魔法少女まどか☆マギカ, OMORI, タオルケットをもう一度)

    • そもそも漫画の王・手塚治虫の絵柄もそこまでニュートラルではない。かなりデフォルメが効いているがあらゆるジャンルの物語をこなしている

  • 逆に超リアル調の漫画でも軽いノリやギャグをやることは可能。こっちは例取るまでもなく直感的だと思う

  • とはいえおそらく汎用性はデフォルメ>フォトジェニックとなる。デフォルメは多分すべてを演じられるが劇画調の場合は「ユメカワ」とかカワイイ系特化にどうしても適性がない[要検証]

重要な要素

客観

  • 大前提:継続>>>>>>その他すべて

    • 継続が最大の力。full stop。period。一にも二にも継続がままならなければどんな高尚な手段も意味はない

  • 立体

    • 立体立体立体立体立体立体!!!

    • 直感的にもこれは正しそうに感じられる

    • 立体がマジで描けないのでこれはきちんと学習する

  • 構図

    • 絵は構図が10割。これは理屈ではなく直感

    • 引きで見た時の良さ」の印象が大部分を占めるというのはobjectiveな事実である。うろこ氏等もここを意識している

    • 魅力的に映る構図を理論立てて学習する

    • 写真学的には実際に「構図がすべて」らしい

      • 「写真に限らずデザインにしろ映画にしろ絵画にしろ、全ては配列と構図に有る」アンリ・カルティエ=ブレッソン 瞬間の記憶

  • 色彩

    • 絵は色彩が10割

    • 如何せんモノクロという完全な逃げの手が存在する(+そのやり方で描いている人々の絵が結構魅力的)のでサボりがち

    • どのみち「影」の学習は必要なので何とかして覚える

  • パース

    • 難しく考えすぎている節がある。パーフェクトな線である必要性はない。パースがやっていることは人を描く時の下書きの人形とほとんど変わらない

主観


理屈を伴わない、技術的というよりは印象的な魅力バフ

    • 今まで目を軽視しすぎていた。虹彩や瞳孔の書き込み方は絵の印象をかなり大きく左右する

    • 魅力的な絵は軒並み目が良い

    • smallなpartなら絵への影響力も低いという考えは早急に棄てるべき。パーツの大きさはほぼ関係なく、各々のパーツに各个の重要度がある

    • これはうろこ氏が完璧に描けるので覚えよう。現状もそこまで大きな問題はない部分

    • 『進撃の巨人』の原作絵が魅力的なのは9割型構図と影の力

    • とにかくフォトジェニックになる

思索

非互換性と選択の誤謬

  • 絵画においていくつかの要素はincomplatibleである

  • 例えば超デフォルメの効いた、ベタ塗り以外介在しない絵柄にとって「影」という要素は無意味である

  • 同様にモノクロの漫画において色彩学は無意味

  • ”しかし「使わない」からといって「覚えなくていい」わけではない。使えるという選択肢をもった上で使わない事を選ぶのと、そもそも使えないのでは訳が違う”

    • というのが今までの私の主流言論だった

  • しかしこれには落とし穴がある

  • 人間は、特にアートのようなファジーな存在において必ずしも自由に”選択”ができるわけではない

  • 例えば「絵柄」は意識的なものではない。学習過程において刷り込まれた”癖”の集合体である

  • 何かを学習したということは、たとえ意識的にそれを「使わない」ようにしたとしても、発現に対する影響力をゼロにすることは絶対にできない

  • ある特定の用途や絵柄において不要なエレメントを強力に学習してしまうと、意図せぬネガティブな副作用を及ぼす可能性がある

  • 学習は基本的に不可逆である。ゆめゆめ忘れぬよう

    • ならこの計画そのものが頓挫するのでは……

      • ……


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