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【消息不明】ウマ娘化できるのに、できないであろう名馬たち

こんにちは、こんばんは。印度孔雀です。

ウマ娘界隈で日々絶えない議論、それは「ウマ娘化される競走馬議論」ではないでしょうか(偏見)。
あれがいないこれがいない、あの馬が欲しいしこの馬も欲しい。カノープス(アニメ版のG1未勝利馬のチーム)枠にあのG1未勝利馬も欲しい。
といった具合で、次期新規ウマ娘についてはいつも話題の中心になっていますよね。

そんなウマ娘ですが、ウマ娘化される基準について、「元馬が行方不明になっていないか」という暗黙のルールがあるのではないかと言われています。

お察しの通り、行方不明になってしまっている馬については、権利の所在が不明瞭なため(オーナーが自分の意思で手にかけたなら別ですが...)ウマ娘化は難しいと考えられます。ですが、そんな馬たちにも、ウマ娘として登場していてもおかしくない馬たちがそこそこ居るんですよね。

という訳で今回の記事では、消息不明になっており、ウマ娘化して欲しいけど難しいであろう競走馬たちを何頭か紹介していこうと思います。なお、今回については、基本的に「同馬主の競走馬がウマ娘化されている」競走馬に限って紹介していきます。説明を省いていることもありますが、基本冠名を見てもらって、〇〇と同じオーナーさんなんだなと思ってもらえれば大丈夫です。

ダイタクヤマト

ダイタクヤマトは、1994年生まれの競走馬で、父親はあのダイタクヘリオスです。ウマ娘になっていますからお馴染みでしょう。バリバリのマイラーであった父に似て、彼はマイル・スプリント路線で活躍し、2000年のG1・スプリンターズステークスを優勝しました。この勝利、実は16頭立て16番人気という評価からの優勝となり、単勝25,750円という高額の払い戻しを記録しました。最低人気によるG1制覇は、1989年のエリザベス女王杯を制したサンドピアリスとこのダイタクヤマトの例しかありません(2022/3/25追記:2014フェブラリーSのコパノリッキーを忘れていました)。

また、このスプリンターズステークスは、既に海外で短距離G1を2勝していたアグネスワールド、前年覇者ブラックホーク、鬼脚使いブロードアピール、98年にあのタイキシャトルを破り同レースを制したマイネルラヴ、短距離で覚醒したキングヘイロー、他にもマイネルマックス、マサラッキ、シンボリインディといったG1馬たちが出走しているかなり高レベルのレースでした。さらに前走を見ても、セントウルSでビハインドザマスク、ブラックホークらの7着で、「この馬は買えなかった」という方も大変多いのではないでしょうか。

そんなヤマトですが、引退後は種牡馬入りしましたが、目立った活躍馬を出すことが出来ず、2010年8月23日付で転売不明となってしまいました。一時は乗馬クラブに供用されたとも言われていますが(記憶違いかも)、残念ながらその消息はわかっていません。

アドマイヤホープ

武豊を鞍上にG3北海道2歳優駿、そしてG1全日本2歳優駿を優勝した馬です。
...しかしその後はイマイチ活躍できず生涯通して33戦6勝というなかなか微妙な戦績となってしまいました。
アドマイヤ冠のG1馬としてウマ娘化出来そうではあるのですが、ゲーム版には全日本2歳優駿が未実装、さらに障害レース概念も現時点ではないのでそのあたりが難しそうです。

この馬は、最終的に佐賀競馬へ移籍したものの1戦し9着。その後登録を抹消され、そのまま行方不明となってしまいました。いやしくもG1馬の扱いではありません...

ヌエボトウショウ

カノープス候補その1。1987年生まれのメジロマックイーン世代の牝馬で、重賞を5勝しているにも関わらず、G1タイトルには手が届きませんでした。1番惜しかったのは92年のマイルCSの4着。ちなみに優勝はダイタクヘリオス、3着ナイスネイチャ、5着ヤマニンゼファーとなかなかのウマ娘的決着となっております。ちなみに冠名は「ヌエボ」ではなく「トウショウ」。スイープと同じです。

そんな彼女は、あの「鉄の女」イクノディクタスのライバルであったとも言われています。生涯26戦のうち、11回も対戦しており、91年の朝日チャレンジCではヌエボとイクノのワンツーフィニッシュ、小倉日経OPではヌエボとイクノのツースリー、北九州記念ではイクノとヌエボのツースリーとなかなか並ぶことが多かったのです。イクノディクタスはご存知の通りウマ娘化されており、ウマ娘屈指の脳筋頭脳派キャラですよね。そんなヌエボトウショウのウマ娘としての姿も見てみたいところなのですが...

引退後に繁殖牝馬として繋養していたビッグレッドファームより、2005年12月5日付で転売不明となってしまいました。
ちなみに、ビッグレッドファームに繋養されていた繁殖牝馬は、他にもスプライトパッサー(関屋記念など)、ノーザンドライバー(デイリー杯3歳Sなど)、ヴィーヴァヴォドカ(フラワーカップなど)、マイネサマンサ(中山牝馬S)などの重賞勝ち馬が転売不明となってます。繁殖牝馬は安泰とは言いますが、そんな事はないという現実を教えてくれています。というかヌエボはなぜトウショウ牧場に戻らなかったのでしょうか...? 
2022/5/30追記:BRFで繁殖入りしたのではなく、トウショウ牧場で繁殖入りしたものの、そこから売られたようです。悲しひ。

オースミタイクーン

ん...?オースミとは?と思った方もいらっしゃるかもしれません。「オースミ」の冠名は、以下に紹介するナリタキングオーや、ウマ娘化されている三冠馬ナリタブライアンや皐月賞馬ナリタタイシンと同じ山路秀則オーナーの使用していたものです。というか現在も残っているのは、この「オースミ」の方だったりします。

オースミタイクーンはマイラーズC、セントウルSなど重賞2勝の競走馬で、1994年クラシック世代ですが、初重賞制覇となるマイラーズCは1997年、年齢にして7歳(現6歳)という遅咲きの名馬です。さらに、そのマイラーズカップで騎乗していた騎手はあの名手・武豊騎手の弟、武幸四郎騎手(現調教師)で、なんとデビューして2日目で重賞への騎乗で、さらになんとデビュー初勝利を初重賞制覇で飾ったのです。これは幸四郎騎手の前にも後にもない記録です。ちなみに兄の豊騎手も同日の弥生賞を制しており、東西重賞を武兄弟が制覇した凄まじい日になりました。

オースミタイクーンはまた、武幸四郎とセントウルSを制したあと、11番人気の低評価で、本来なら適性が無いであろう有馬記念に出走しました。しかし、なんとここで激走し、掲示板入りの5着に入りました。圧倒的3番人気のメジロドーベルやタイキブリザードらのG1馬に先着する素晴らしい結果を出してくれました。

そんな彼は引退後は種牡馬入りし38頭の産駒を残しました。しかし活躍した産駒はおらず、2007年10月1日付で用途変更となり、その後の消息はわかっていません。牝馬の産駒が2頭繁殖入りしましたが、その産駒は誰も繁殖入りすることなく、オースミタイクーンの血は途絶えました。

ナリタキングオー

ナリタキングオーは、ウマ娘ではちょっと馴染みの薄い1995年クラシック世代の馬です。主な同期はマヤノトップガン。名前の破壊力。

しかし、そんな彼の戦績、意外と凄いのです。新馬を2戦して勝利すると、デイリー杯3歳S、京都3歳S(OP)、そしてラジオたんぱ杯3歳Sと3戦して2着。最初の新馬戦は2着なので、ここまで連対率100%。そして、共同通信杯4歳Sではラジオたんぱ杯で敗れたタヤスツヨシ(後のダービー馬)を相手に勝利。そしてスプリングSも勝利し重賞2連勝を果たします。この時点でもう、つよい(確信)

そして迎えた大一番・皐月賞。大本命のフジキセキが引退したこともあり、有力馬の1頭であったナリタキングオー。ナリタ冠の皐月賞3連覇もかかっていました。
...しかし、なんと前日に出走を取り消してしまいました。結果、毎日杯を制していたダイタクテイオーが1番人気になるも8着に敗れ、勝ったのは古馬になってからマイルCSも制す3番人気のジェニュインでした。その後ダービー、神戸新聞杯と高評価で臨むも2桁着順の惨敗。続いて4番人気で臨んだ京都新聞杯ですが、1番人気は前回も同人気を裏切ったダービー馬タヤスツヨシ、2番人気に前レースより重賞に参戦し、5番人気ながらその強さを遺憾無く発揮し2着となったマヤノトップガン、3番人気は前走の道新杯1着のイブキタモンヤグラといった具合でした。しかし、ここで彼は激走。猛追するマヤノトップガンを差し切らせず、クビ差でこのレースを制しました。ちなみにタヤスツヨシは7着。ツヨシしっかりしなさい

しかし、ナリタキングオーの勢いは菊花賞まで持つことはありませんでした。菊花賞では、2番人気を裏切る7着に敗れてしまいました。ちなみに1番人気は優勝したマヤノトップガン...ではなく牝馬のダンスパートナーでした。

その後、重賞では馬券に絡むことはなく、オープンの1998年大阪城Sで3年ぶりの勝利を掴みましたが、次走の中京記念と新潟大賞典では惨敗。そのまま地方移籍となりましたが、4戦4敗でついに競走馬を引退しました。

引退後は地方競馬の教養センターで乗馬となりましたが、2002年頃よりその消息は掴めていません。死亡したのか、退厩してどこかに行ったのか。20年経った今、一般人の私たちが彼の消息を知る術はないでしょう。

アイルトンシンボリ

カノープス候補その2。シンボリルドルフ産駒、G3時代のステイヤーズステークス2連覇のアイルトンシンボリ。

重賞勝ちこそ2度のステイヤーズSのみであるものの、その戦績は凄まじく、93年の七夕賞でツインターボの2着、94年の宝塚記念でビワハヤヒデの2着、京都大賞典でマーベラスクラウンの2着、アルゼンチン共和国杯でマチカネアレグロの2着と圧倒的なシルバーコレクターなのです。また、ツインターボとビワハヤヒデはウマ娘になっていますので皆さんご存知の通りだと思いますが、マーベラスクラウン・マチカネアレグロもオーナーの壁を越えている馬なのでいずれもウマ娘化の希望があります。もっと言うと、マーベラスクラウンは次走のジャパンカップを制しG1馬になっているのでウマ娘化も時間の問題かもしれません。

そして、翌年の天皇賞・秋ではサクラチトセオーとジェニュインの3着、そして有馬記念6着を最後に彼は競走馬を引退しました。生涯通算25戦6勝。決して勝利数が多いわけではありませんが、強い馬であったことは間違いないでしょう。

その後はシンボリ牧場で種牡馬入り。しかし、門別競馬場の重賞で1度3着に入ったビービートマホーク以外はオープン入りした産駒を出すことが出来ず、2004年3月に転売不明となってしまいました。11頭の産駒のうち牝馬は僅か3頭、1頭は繁殖入りしたものの2頭の仔を生み用途変更。彼の血は血統表から消えてしまいました。ふるさとに帰ってきたからといって、幸せに過ごせるとは限らないという競走馬の悲しい運命を体現していると思います。

マチカネキンノホシ

マチカネ軍団3番目の稼ぎ頭で、主な重賞勝ちはAJCCとアルゼンチン共和国杯の2つですが、他4つの重賞で2着となっており、コンスタントに賞金を稼ぎました。世代としては1999年オペラオー世代ですが、クラシック三冠レースには出走せずマイルのレースに出走し、NHKマイルカップではシンボリインディの4着となりました(このシンボリインディも悲劇的な最期を迎えていますが、また別の機会に。)。

G1にもたびたび出走しており、2歳時の朝日杯FSではアドマイヤコジーンの4着、00年のジャパンカップではテイエムオペラオーの6着、02年の宝塚記念ではダンツフレームの5着と1桁着順となっています。ただし、かなりムラがあったようで、00年の宝塚記念は11着、有馬記念(これは相手が悪いですが)は12着、01年の安田記念ではブービーの17着と惨敗も多かったです。

そんな不安定な成績ながらも、引退後は良血を評価され種牡馬入り。23頭の産駒を残し、唯一の重賞馬のキンノライチョウは、地方重賞である平和賞で後にJpn1を6勝するフリオーソを破っています。しかし、2012年に用途変更となるとその後の消息は分からなくなってしまいました。キンノライチョウも平和賞以後は重賞を勝つことができず、2009年に引退するとその後については何も情報がありません、

ハイアーゲーム

「ハイアー」?そんな冠名あった?と思われるかもしれませんが、この馬のオーナーである臼田浩義氏は冠名を使っていないことで知られており、代表的な所有馬にはスペシャルウィークがいます。(冠名は)ありません!

なお、この馬を出したのは良いのですが、先に断っておくと、彼の世代のクラシック三冠を分け合ったダイワメジャー、キングカメハメハ、デルタブルースはいずれもウマ娘化されていません。ですのでハイアーゲームもウマ娘化されるかといわれると、行方不明以前に同期不足ゆえに難しい可能性が高いです。

前置きが少し長くなりました。ハイアーゲームは04年の青葉賞、07年の鳴尾記念の2つの重賞を制しており、8歳となる2009年まで現役を続けました。青葉賞後までの日本ダービーまでは、弥生賞4着以外は全て3着に入る走りを見せており、ダービーも3番人気での参戦となりました。

...しかし、そこには強力過ぎるライバル、キングカメハメハが参戦していました。キングカメハメハは、デビュー3戦目の京成杯3着以外は全て1着。さらに前走のNHKマイルカップも5馬身差の圧勝で、所謂「松国ローテ」を使った馬でした。2番人気には「道営の星」コスモバルクがおり、前哨戦の弥生賞を制しています。果たして、一体どんなレースになるのか。

蓋を開けると、キングカメハメハが1馬身以上付け、レコードを叩き出しての勝利。2着はコスモバルク...ではなく、5番人気のハーツクライ。ハイアーゲームは人気通りの3着に収まりました。ちなみにこの日本ダービーは通称「死のダービー」と呼ばれており、出走した馬に色々と不幸が起こったレースとして知られるようになってしまいました。ハイアーゲーム自身もダービー後は勝てなくなり、次に勝利したのは06年のオープン戦、メトロポリタンS。さらに休養を挟み1年後の07年の鳴尾記念にて3年7ヶ月振りとなる重賞制覇を挙げました。その後は09年の毎日王冠での8歳にしての3着(優勝したカンパニーも8歳)を除き馬券内は0。同年の鳴尾記念6着を最後に引退しました。

引退後は種牡馬となり、牧場を何ヶ所か転々としたあと、2017年に在厩していた橋本牧場を最後に転売不明となってしまいました。産駒で唯一の中央OP馬、ダービー出走経験もあるコスモナインボールは、10歳にして現在は高知競馬場で頑張っています。16日のレースでは2着になっており、まだまだその実力は衰えていないようです。

タイキシャーロック

皆さんご存知タイキシャトルなどでおなじみ大樹ファームの馬です。ダート路線で活躍し、1997年のマイルCS南部杯を制しました。生涯通してダートのみを走り、全て1桁着順という優秀な成績を残しました。

そんなタイキシャーロックは2000年より種牡馬として日高スタリオンにて繋養されました。地方ではそこそこ活躍した産駒を出せましたが、中央で活躍するような産駒は出すことができず、2008年に種牡馬を引退しました。その後は同所で功労馬として繋養されていました。

...ここまでは良かったのですが、2015年に日高スタリオンが閉鎖されてしまうと、種牡馬たちはほとんど別な牧場に移動しましたが、功労馬であったシャーロックは、その後どうなったのかが知られていません。功労馬とはいえども引退名馬繋養展示事業の対象馬ではなかったのが大きかったのでしょうか。1992年生まれなので、一応まだ生きている希望はあります。

マヤノペトリュース

この馬はWikipediaもないので情報自体は少ないですが、1989年生まれのミホノブルボン・ライスシャワー世代の馬です。「マヤノ」冠でトップガン以外の数少ない重賞馬の1頭です。重賞勝ちは92年のシンザン記念のみですが、同年の日本ダービーで3着に入りました。前走の皐月賞でも5着で、92年上半期ではライスシャワーよりもクラシック有力馬としての評価が高かった馬なのではと思います。

彼は引退後はその芦毛の馬体から、京都競馬場で誘導馬となりました。日本ダービーの直後に引退したのですから、間にリトレーニング期間などを挟んでも、最後に誘導をやっている事が確認されている2005年まででも10年以上はその仕事を勤めあげてくれたのだと思います。

現在は、正月に亡くなったキョウエイボーガンが89年生まれの最後の生き残りなので、恐らく生きていないでしょう。誘導馬は、基本的に亡くなっても競馬場から声明が出ることが少ないので正確なところは分かりません。京都競馬場に在厩中に亡くなったのか、引退後にどこかに行きそこで亡くなったのか。JRAの施設が変なところに馬を渡すとは思いませんので、形としては行方不明ですが、どこかで天寿を全うできたと思いたいです。

ちなみに、個人的にはJRAに「誘導馬名鑑」みたいなものを発売して欲しいと思っています。笑。

ヒカリデユール

G1ホースで始まったこの記事。最後もG1(厳密には違いますが)、それもグランプリホースで締めくくらせていただきます。ちょっとポエムっぽくなりますがご了承ください。なお、ヒカリデユールのオーナーはマルゼンスキーと同じ橋本善吉氏です。

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栄光の数よりも、
栄光への道のりが、人生を語る。

君は、ヒカリデユール。

いつか。いつか。父の名でここへ帰ってこい。

JRAより

主な勝ち鞍...すべて格付け以前の有馬記念、サンケイ大阪杯、朝日チャレンジカップ、東海桜花賞。

大井の地から中央へ足を踏み入れた彼は、初戦で朝日チャレンジカップを制す。2戦目の天皇賞・秋ではメジロティターンの2着。さらにジャパンカップでは日本馬最先着の5着に入る。そして、勢いそのままに臨んだ年末の大一番、有馬記念。3番人気に支持された彼は、前年の覇者、そして後の天皇賞馬であるアンバーシャダイをアタマ差で差し切る。見事に八大競走を制したのだ。その後サンケイ大阪杯を制し、骨折で天皇賞・春を競走中止すると、彼は引退し種牡馬入りした。

しかし、これがグランプリホースの末路と言って良いのだろうか。サラ系(サラブレッドと断定できない血統)であった彼は、あまり種付けする事ができなかった。そして良い産駒に恵まれなかった彼は、1992年にあっさりと用途変更となってしまった。その後の彼の消息は、私たちには分からない。

グランプリホースでは、他にもカネミノブやオサイチジョージも行方不明となっている。死因は判明し墓標もあるが、ダンツフレームもなかなか哀しい最期だ。

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おわりに

今回の記事はいかがだったでしょうか。

記事の最初の方で、消息の分からない馬はウマ娘化できない「暗黙のルール」と記載させていただきましたが、個人的にはそのルールは撤廃されてほしいなと思います。ウマ娘の世界だけでも幸せにしてあげたいからです。

それでは、次の記事でお会いしましょう。印度孔雀でした。

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