心穏やかな年末

あれは多分 秋季大祭前日のひのきしんだったと思います。
明日は上級の会長様がいらっしゃるので外回りの掃除をしていた時でした。
 会長さんが外出先から戻られて駐車場の掃除をしている私に、『落ち葉も雑草も全部取ってキレイにしてちょうだい』って仰ったので『分かりました』と間髪入れず答えました。
当時の私は まだまだひよっこで、ひのきしんも、特に持ち場もなく探してやるような それこそ参加する事に意義がある、何度同じ場所を拭いても掃いてもいいんですよ と言われ、やっていましたが、実のところ、私の性格上やりがいのない ひのきしんでした。

この日も、せわしない教会内から脱出して外回りをしている時でした。
普通の感覚からしたら 全然キレイなんです。
なので、ひのきしんの時間が終わるまでどこをどうしよう…と思っていた時に会長さんが落ち葉一つ、雑草一つもないように と仰って頂いたので、私はやる事が一気に明確になり、嬉しかったのを覚えています。

けれども、一緒にいた人達の反応は私とは全く違って、無理難題を突きつけられた そんな空気でした。
なぜなら、駐車場に敷き詰められた砂利の下には何日も経っている落ち葉も埋もれているし、砂利の上を竹ぼうきで掃いてもキレイには取れず、頑張って取り除いたそばからも風で落ち葉は舞ってきます…

私のやる気とは裏腹に
『無茶仰るわー』の心の声が周りから感じられました。

私は黙々と熊手を使い駐車場の端から砂利をどかしながら作業しました。

私はどういう訳か、何の文句もなく、会長さんが指示してくださった事に対しての期待に応えたかったし、会長さんが求めた駐車場にしたかった
純粋に ただ、それだけでした。

会長さんは そんな私の様子をご覧になっていたかいないか それは分かりませんが、この日私は 会長さんの掃除の徹底ぶりの度合いを知る事が出来ました。

それからは、適当な ひのきしんはなく、会長さんが求めている以上を心掛けるようになりました。

歳月が流れ、私もひよっこからニワトリになった辺りから、会長さんの普通じゃない無理難題は相変わらずでしたが、それを与えられた相手が どのように応えるか、アホになれるか それを見ていたのだと分かりました。

こんな事がよくありました…

2時間近くもかかる教会なのに、30分後に上級へ出掛けるから◯◯を持って直ぐ来てくださいとか、子供の幼稚園のお迎えがあるのに、夕勤めをして帰りなさいとか、おまけに夕飯用意させといたから食べてって…と…。
主人の怒っている顔とお腹をすかして私を待っている子供達を想像しながら 会長さんが居なくるのを待って、かきこんでご飯を頂いたり

何度 瞬間移動出来たなら と思った事か


話し始めたら山ほど出てくる無茶ぶりですが、首を横にふる事は出来ませんでした。
只々、期待に応えたかった
残念な顔を見たくなかった
それだけでした。


先日、今年最後の御挨拶にと、前会長さんのお墓参りに行ってきました。
(上記の「会長さん」は、私が唯一理の親と慕う前会長さんの事です)

お墓の周りの玉砂利には落ち葉があったので、それを拾いながら 昔のあの日を思い出したという訳です。
前会長さんから教えて頂いた 掃除の徹底ぶりは健在ですよ と話ながら穏やかな時間が持てました。


私は今、教会の行事には一切参加しておりません。
もう一年以上経ちました。
教会の方々は、こんな私を「お休みしている」と例えていますが、今のところ 戻るつもりは一切ありません。

お墓の前に立ち、前会長さんの一年祭を待って教会から離れた私は、改めて思うのです。

果たして私の30年近い信仰は、何信仰だったのだろうか と。
人目標だったのだろうか と。
私が生涯を終えた先のあの世に、両親や前会長さんや大切な人達と逢えるのであれば、我が子と別れるのは辛いけれども、住めば都で悪くないかも なんて思ってしまうのは、そもそも天理教の教えを信じてないって事だよな~って思ってしまうのです。
私は信仰は、人間が逃れられない「死」に対する恐怖を和らげ、どう生きべきるかを説うたものでもあると思うのです。

そうだとすると、私は いわゆる
三途の川の向こうから 逢いたかった人達が迎えにきて安堵して笑顔であの世に行く

この教えの方が怖くない。
(でも、これだとあの世は大混雑になりますけどね)

私が天理教に狂ってしまったのは、

思うに、私にとって教祖も前会長さんも、母親的存在なのだと思います。
私の根底には、子供の頃に逝ってしまった母親恋しさが、ずっとあって、そこに私という人間を理解してくださった前会長さんと出逢い、もう二度と別れる辛さのない存命である教祖(母親)の存在に安心した
そういう事だったのだと思うのです。

だから、前会長さんに喜んで貰いたい、期待に応えたい
そんな親を慕う30年だったのだと思うのです。
そして、必然的に前会長さんのいない教会に居る意味がなくなってしまった。

教祖は、教会に居るのではなく私の心にいらっしゃるのだから
そう思うと

さて、私は一体 ずっと何信仰をしていたのでしょうか

けれども
教祖御在世当時の方々も、私と同じに教祖を慕い、教祖に只々喜んで貰いたい
その一心だったのではないかと

ならば、私の通った信仰は 親孝心信仰とでも言いますか…

前会長さんがおられない今 私にはもう教祖しか おりません。
では、教祖が喜ばれる事とは、なんでしょうと考えます。

教会へ戻る事?
にをいがけに出る事?
信者さんを増やす事?


私は、自慢出来る親では決してありませんが、それでも一応「母親」です。
母親として何が一番嬉しいかと聞かれれば、我が子が幸せで暮らしている事です。

教祖も そう思われているに違いない。

ならば、教祖が安心される私の幸せな姿とは何か

今、教祖が私を御覧になって喜ばれていらっしゃるか
前会長さんも安心しておられるか


残念ながら

そうとは思えません。

教会のストレスから解放されて体調も安定して好きな事が出来て自分の思い通りに生活出来ていますが
これが幸せだとは思えません。

何が足りないか

やりがい
生き甲斐

私の生き甲斐は何か

「必要とされる事」

ワガママですが、若い頃とは違ってガムシャラに人様の事を優先するのではなく、ある時は人様優先、ある時は自分優先
そんな どちらもバランスのよい 残りの人生を歩みたいのですが 

そんな勝手な…
ぬるい!
おたすけは そんな心では神様は受け取って下さいませんよ!

そうなるのでしょうか…

前会長さんは、『生涯現役、おみちには引退もありませんし定年もありません』と仰ってましたが、同じスピードで走りきる事など出来ないので、「生涯現役」の意味をいいように解釈して、教内では三年千日沢山の行事がある中、私もしっかりとした人生の方向性の答えを頂きたく距離を取った上で感じるもの、見えるものを素直に受け入れて進んでいきたいと思うのです。

教会では毎年暮れには来年の心定めを一人一人提出します。
初参拝、初席、修養科、目標何名と。

目標をまず立てないと と言うのは分かりますが ずっと抵抗を感じておりました。

今年も心定めを提出出来ませんが、提出する必要などなく、我が心で定めさえすれば神様は聞き取って下さる

その心定めを受け取られて私の行動を御覧下さり、それに対して良い節も悪い節もお与え下さる

これが、神様と私との会話だと思っております。

なので

それこそ
心して大晦日までに来年に向けての心を定めたいと思います。

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