アイテム

一息つくのにコーヒーは欠かせない。
慌ただしい一日の中に、一息つく時間を作り、それが日中なら、リビングから庭に出るサッシに腰をおろしてマグカップに入れたカフェ.オ.レを床に置き、外に解放された愛猫がモンシロチョウを追いかける姿を癒しのプラスαにして、床に置いたマグカップを持ち、フーッと冷ます程の熱さだからこそ、一息つく時間を長く取れる。
実は それは よくよく考えてみると、カフェ.オ.レを飲みたいのが一番の欲求ではない。
一息つく為の必須アイテムがカフェ.オ.レなのです。
これがないと、「一息つく」の完成形には ならない。

これと同様に、タバコもそうだった。(若い頃は吸ってました)
本当はタバコなんか吸ってる場合じゃないのに、吸う欲求に駆られる 否 駆られた。
これも考えてみると、忙しいからこそ一息ついて、忙しさを止め充電する、そして、落ち着く。
そんな役目がタバコにはあったのだと思う。

コーヒーでもタバコでも、これらアイテムなしに ただボーッと休む光景を想像すると、それは変だし、第三者が見れば、おかしな人だと誤解されそうだ。

そう、
飲まなくても吸わなくても手にコーヒーカップやタバコがセットになっていれば それで一息ついている人が完成されるのです。


セットと言えば、にをいがけを 思い出しました。
リーフレットを鞄に入れてると安心します。
周囲からは怪しい人でも、リーフレットを持つだけで自分自身は目的を持って、困っている人を救けるんだぐらいの高尚?な心で歩いているのですから、人の目があっても大丈夫なんです。
弱い人間かもしれませんが、私にとって にをいがけリーフレットは、使命感を保つ為のアイテムなんです。


ここで脱線。
にをいがけは住宅街を歩きますよね
にをいがけの歩き方って目的地があるわけではないので、まず歩くスピードが違いますよね
で、キョロキョロあちこち見ながら歩いてしまいます
何も考えずに建ち並ぶ家を順番にピンポンすればいいのでしょうが、残念ながら私には それが出来ません。
つい、選んでしまいます。
豪邸は パス。
チャイムが門に無くて、庭を通って玄関の脇にあるお宅もパス。
犬が吠えるお宅もパス。
シャッターが閉まっているお宅もパス。
郵便受けに新聞が入っているお宅もパス。(寝ているかもしれないから)
中から子供を叱っているお宅もパス。(マックス怒っているのを聞かれた相手が体裁悪いだろうから)

じゃあ、どこをするんじゃって話しですよね

洗濯物を見ます
それで、家族構成を想像します。なんなら干し方で 性格なんかも想像します。
幼い子供の洗濯物や、玄関先に子供のオモチャや自転車があるとピンポンします。

したところで、今はほとんどインターホン越しで終わってしまいます。
最初は真っ向勝負で『天理教の◯◯と申します。お忙しいところ申し訳ございません。天理教って御存知ですか?少しお時間頂けたらありがたいのですが』
『結構です』
『お忙しいところ、出て頂いてありがとうございます。すみませんが、ポストにリーフレットだけでも入れさせて頂いても宜しいですか』
『どうぞ』
『ありがとうございます』

が、ありきたりなパターンですけど、それでも ここまでたどり着けたら大したものです…
『天理教の…』のくだりでブチッ。(インターホンが切れる音)
それでもめげずに
いや、逆に 負けてたまるか精神がこみ上げて、あえて深々と頭を下げて
インターホンに『ありがとうございました』と言って次の家を探す。
こういう時にはすぐ次を押さないと、引きずって次を押せなくなるので、要注意。

けれども 件数目的でやっているなら こんなにをいがけでも達成感はあるけれども、この流れに慣れてしまうと『家の事もしないで、なにやってんだろう私…』が、やって来ます。
「成らんが理」「無駄はない」「神は見ている気をしずめ」「たんのう たんのう」等と自分に言い聞かせ、教会に戻れば 別の信者さんが初参拝をお連れしている。

何が足りないんだろう
私という人を知ったなら親しくなれる自信はあるし、おたすけ心は人一倍ある。
けれども 「天理教」を出した時点で警戒され話しにならない
そんな事も考えて、
『子育ての勉強をしているものですが、何かお困りの事はございませんか?」と失礼ながら親の名前(天理教)を出さなかったり…
ようやく 話しに漕ぎ着けて いい感じになっても、実は…と天理教を出せば 相手の顔色は一気に変わります。

それも傷つきますが、こういうやり方は逆に不信感を持たれそうだし、第一私らしくない。なので 止めました。

天理教に限らず、宗教に対するイメージが日本は悪すぎますし、世間一般は「なんだか分からないけれども、関わらないのが一番」なんだと思います。
そりゃそうだ
だって、関わって お布施だ、寄付だと、お金がかかるかもしれないのですから
というのが、本音で、
『間に合ってます!』って断られる。
何が『間に合ってるのかな』と思いつつも、仕方がないですよね

なので、リーフレットだけでも手に取って、その時だけでも そこに書いてある文章に何かを感じて貰えたら と、道友社からリーフレットを購入し、ただただ、ポスティングした事もありますが、それが道に捨ててあったのを見た時には、ならば と、ポケットティッシュ(路上で配る用は広告を入れるポケットがついている)を10000個購入し、せっせとリーフレットを折り込み、これなら手渡しでも断る人は殆どいないんです。

ただただ、天理教がどんな宗教なのか、その時だけでも『ふ~ん』と読んで貰えるだけでも と、宗教に対するハードル、イメージを変えて貰えたら…そして その方が何かのきっかけで将来天理教と関わる時に、この私の小さな「にをいがけ」が役に立てたなら それで十分。
と、私は思うんです。

世の中、どんな場面でも、人 其々には役割があって、
土を耕す人、種を蒔く人、水をあげる人、収穫する人、次を見据える人。
若い頃は、一人で全部やって鼻高々になりたかったけれども、歳を重ねるうちに、成っていた事は沢山の目に見えないものがあってのお陰様を感じるので「若かったな~」と恥ずかしくなるのです。
だから、若い人の無謀は、今は その時期だから仕方がないと許せるのです。
誰もがスポットライトを浴びたいけれども、残念ながらそうはいかない。

だから私は、浴びる人は、ライトを自分に照らしてくれる人がいるからこそ自分が浴びられているんだと思える人間であればいいと思うし、スポットライトを浴びたくても万年照明係の人間でも、自分が照らすから成り立っているんだと自分の役割に誇りを持てばいいし、どちらもなくては成り立たない。目指す目標は同じでも持ち場が違うだけ。お互いを尊重する、これが「一手ひとつ」
……そういう考え方を心から持てる教会を私は目指したかった……

(つい、愚痴になってしまいました)

役割の話しに、もとい!!

例えば私の日常では、主人の実家に行けば、「嫁」ですから、何でも聞いて甲斐甲斐しく動き回りますが、我が家に子供の家族が集えば、私は「姑」「母」「妻」ですから動き回るのは同じでも立ち位置が違いますから、指示もします。
お教会にいれば、30年選手ですから、それなりの見方もされ、それなりの行動もしなければなりません。

自分の役割が 一日ずっと同じなんて事は、赤ちゃんか、社会から孤立している人以外ないと思うし、 人と関わる以上はその場その場で自分の立ち位置、役割分担を一瞬で読んで対処していく
それが社会性なんじゃないでしょうか

そんな毎日で人と関わりながら、忙しく動いた日には、お風呂に入り、深く身体を沈めフーッと一息ついて「極楽 極楽」と目を閉じて 頑張った自分と、頑張った身体を労って、
『今日も一日 ありがとうございます』とお風呂では何のアイテムも必要なくリセット出来る時間を楽しむのです。

でもこれ、シャワーでは成り立ちませんから、浴槽がアイテムなんですかね




目標を持って一心に突き進むのも大事ですけど、一日のどこかに動きを止めて一息つく時間を持って、周りを見る時間も必要だと思います。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?