見えなくなってしまう原因

あらきとうりようvol.293、若松英輔氏×中山大亮様の対談を読みました。

若松氏は、私の長年悶々としている原因の答えを明確に答えられ、ホントにその通り!と。
自分の中で思っても表だって言えない(言ったところで危険人物とみなされてしまう現状)そんな気持ちを代弁して貰ったようで、私の考えが異端ではなく肯定して貰えたようで、なんだか痛快時代劇を見終えたように、仇をバッサバッサと倒してくれたような そんなスッキリした気分にさせてもらいました。

勿論 仇は大亮様ではありませんよ

大亮様は、聞き手として、若松氏に本音を出して貰う為に御自身が踏み台となって質問をされたように感じます。

天理世界の常識の悪い部分を変えていく上で、読者に何かしらの変化を望むべく 外部からのお話を引き出した そんな感に思えます。

このような内容の記事なら、そもそも却下される時代はあったはず
それを思えば、まだまだ道半ば、希望はある
そんな風にも思えるのです。

変えてはならないものと、変えなければ逆に変わってしまうもの

維持する事に必死で本当に守らなければならないものが何なのか 

そんな事を思いながら読みました。

振り返れば実働中は、とにかく 行事行事で忙しい毎日でした。
迎える側は、参拝した人全員を喜ばさずには帰されん精神でおりますから、あの人この人 と、声をかけ ご機嫌を損なわせぬよう気を遣います。
そんな低姿勢なもんですから、信仰の浅い人は「また、来てやるか」みたいな態度にもなります。
『私は旅館の女将かい!』

けれども そんな事をしてでも、教会に運んでいるうちにいづれ信仰心が沸いて高かった自分に気付き反省し、ご恩報じに目覚める日が来るだろう…と たんのうする日々でした。

しかし、そんなご機嫌とりをしなければならなかった当時も反発心はありました。
必要以上に参拝者を誉める教会長
正直、見ていて引いていました。
繋がって欲しい
また来て欲しい
そんな見え見えが、営業にしか見えなかったのです

もちろん、私は教会長の立場を知りませんから おべっかも繋ぎのひとつで阿呆になりきってるのかもしれませんが

しかし、若松氏は
『最も大事なのは神が何を望んでいるかだと思います。教団や教会をどう動かすべきか、というのは非常に企業経営的な考えです。教団は信仰共同体ですから、企業経営とは一緒にしないほうがいい。仮にそれでうまくいったとしても数年間でしょうし、それをしたことでとても大きなものを失うかもしれません。ですから、神が最も望んでいることをなさるのが一番だと思います。』と。

そうなんです。

そうなんですけど、問題は、神が最も望んでらっしゃる事が、信者を増やす事だと思っていたなら どうにもなりません。

私は教会の動員人数の目標達成の為に信者さんが、その場しのぎでお連れした方が、『二度と来るか!』という気持ちになって帰ったという話をよく聞いています。

信者は、親(教会長)に喜んで貰う為に口八丁手八丁ででも連れてきて その場の頭数にします
私からすれば「サクラ」です

そんなでも 『来て良かった』と帰って貰えばいいですが、大概は、誘った信者も その場限りですから それは相手に伝わります

その場を一杯にした喜びは、教会側だけで、実際は大切な『1』を失くし、そして『天理教』の残念なイメージをその人からその人へと伝わるのです

拝殿いっぱいにして御巡教先生をお迎えしましょう
というのは、教会側の見栄なんじゃないでしょうか
御巡教講師は、講演台から私達を見て中身が分かるのではないでしょうか

お迎えするにあたり、多くの参拝者を…と目標に掲げるのはいいと思いますが、ノルマを立て、達成した達成出来なかったと評価し合う会話に「腐ってる」と呟いてしまうのです。
結果ではなく、目標に向かって頑張った事を評価すべきです。



あー、変な方向で つい熱くなってしまいました。

もとい。


我が家は当然のように、私がどこに何があるか知っています。
その点主人は さっぱりです。
当然です
我が家は私が取り仕切っている家だからです
家族も文句は言いません(言えません)
それは、
私からすれば、私がこの家の専業主婦としての責任上、全てを把握し家族の住みやすい環境を作る立場だと思っているので一切を責任持って引き受けているのです。

まぁ、家族も 『ん?』 と思う事があっても、平和主義でスルーしている事も多々あるとも思っていますが。

要は、波風立てずに 細かい事は 「尊重」という言葉にして 家族は成り立っています。
しかし、最近 ゴミ箱の位置が私は「ここ」の方がスッキリしてるので その場所に置いてますが、翌朝には必ず動いているのです(花粉症時期という事もありで)
そして私は掃除機をかけながら定位置へと戻します。
この繰り返しが 暫く続いています。

リビングにゴミ箱は絶対的に必要です
これは変えられません
けれども、何故 移動するのか…、その方が使い勝手がいいからなんだと思うのですが、私は花粉症ではないので、邪魔にならない隅に納めて置きたかったのです。(要は見栄えですね)
でも、『しょっちゅう鼻をかむから、足元にゴミ箱を置いときたいんだ』と言ってくれたら 『あぁ、そういう事?』と意図も簡単にゴミ箱の位置は使いやすい場所へと変わるはず。

私は 家の隅々まで知っているあまりに、当たり前にあるそれらを不思議に思わなくなっているでしょうし、逆に変化には敏感に違和感として感じとります。
慣れが落ち着くのです。
慣れが安心なのです。

傲慢にも それが一番家族の為になっているとさえ思っているかも。です。

ところが、ある時、友人が我が家に来て、トイレから出てくるなり、『ねぇ、トイレットペーパー袋ごとトイレに置いとくのって変だよ』って言うんです

この友人は、ホントに遠慮なしの人で思った事を口にします

私は、初めて その「変」を知りました。
我が家のトイレには、棚がなく、トイレットペーパーがなくなりそうになったら、別な場所の物入れから補充しなければならず、それが面倒で ある時からトイレの隅にどーんと1袋置きっぱなんです。

それが何か?とは思いつつ、私を含めて家族は見慣れたもんで、「変」とは思ってないと思いますが、部外者からすれば、それは「変」らしい事を新鮮に受け止めました。

指摘されても 我が家はそのままですが、要するに、家族内では変にも思わない事が、外部には変に感じる事があるのだと気づいたのです。


私なんぞが言うのもなんですが、
天理教の現在は、過去の歴史からしても形の上では衰退しているとしか思えず心配にもなりますが、それこそ内々でどんなに将来を談じあったとしても、何が変なのかが、気づけないように思います。
ましてや、生まれながらにして、天理教の環境で育っている人達には、外部からの違和感が理解出来ないのではないでしょうか

第三者の意見を真摯に受け止め、または、にをいがけ等で、初めて天理教を信仰してみようとする人が どのように天理教が見えるのか、そういう貴重な人達を同じ色に染めようとするのではなく、疑問に抱く声を神様からの言葉と受け止める
そんな心を持つ人を 神は喜ぶのではないでしょうか

若松氏が最後に述べた言葉に、
『キリスト教が始まった頃のことを原始キリスト教団という言い方をします。天理教はこれから1千年続くと皆さんが真剣に信じるのであれば、今は教祖の時代から150年もたっていないのですから、原始天理教団と言えるでしょう。ぜひ皆さんには、その熱をよみがえらせて頂きたいと思います。』と。
そうですよね
天理教は、まだまだ、始まったばかりで、私達のこの時代も荒々の道中、もしかしたら 歴史の中での転換期に私は生きているのかも…
天理教が不動の宗教となるにあたり、私もその原始天理教団の一員なのだと思うと
すごいぞ 私!って気になりました
v(o´ з`o)♪

至って 単純

いえ、素直。

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