『「社会正義」はいつも正しい』での引用がひどい
本記事の目的
ヘレン・プラックローズ、ジェームズ・リンゼイ『「社会正義」はいつも正しい』では各種の本や論文、実際の事件を多数引用していますが、引用している事柄についての内容紹介や論評が適切と言い難いものが多く見受けられます。本記事では、その中の幾つかについて具体的に述べます。
『「社会正義」はいつも正しい』について
この本がどういう本かを紹介するのは正直苦痛ですので、出版社の早川書房による紹介文を貼るだけに留めます。
また、早川書房は訳者の山形浩生による巻末解説をウェブ上で無料掲載していましたが、突如これを公開停止しました。これによりこの本は(悪い意味で)一躍、注目を集めることになります。
(公開停止された巻末解説はインターネットアーカイブで読むことができます)
記事の公開を停止した理由について、早川書房はきちんとした説明をいまだに行っていません。
第2章 応用ポストモダニズムへの転回
『アメリカ人には人種差別ととられるジョーク』?
では、この本での引用について具体的に見ていきましょう。最初は第2章のこの文章です。
(本をぱらぱらめくって、目にとまった部分について調べるというやり方をしていますので、「第2章から始まるということは、第1章には問題がないんだな」ということは意味していません。ご注意ください)
注44はイギリスのイブニングスタンダード紙の記事へのリンクですが、会員登録しないと読めない記事ですので、BBC自体および、朝日新聞の同内容の記事にもリンクを貼っておきます。なお、中身を確認するために私は会員登録しました。かわいそう。
(BBC) Danny Baker fired by BBC over royal baby chimp tweet
(朝日新聞デジタル) BBCの名物司会者が降板 ロイヤルベビーの投稿に批判
朝日新聞の記事を見てみましょう。
この「ジョーク」ですが、もちろんアメリカだけでなくイギリスでも、あるいは他の国でも問題でしょう。実際、BBCの記事を読むとイギリス人も問題視していることがわかります。『アメリカ人には人種差別ととられるジョーク』という表現はとても変です。
(念のため書いておきますが、降板させたBBCの判断自体については、この項目の本題ではないです。また、ベイカー氏が行った表現が差別的であるということと、実際に彼が差別的な意図を持っていたかどうかは関係しないのは当然の話です)
付け加えると、『「社会正義」はいつも正しい』の原著では『イギリスのコメディアン』は "comedians" と複数になっていますが、BBCを降板させられたダニー・ベイカー以外の誰を指すのかわかりませんし、『ジョークを繰り返した』の『繰り返した』も何を指しているのかわからない。
こういった変な引用が、この本には他にもいくつもあります。この本は引用や注釈が不必要に多いので正直追い切れないのですが(注釈を数えたところ、合計540個もありました)、こういった変な引用は全体のごく一部というわけではなく、むしろその大半を疑うべきではないかと感じています。
第3章 ポストコロニアル理論
続いて行きましょう。第3章の最後に置かれているこの文章です。いかにも馬鹿げた内容だというように4本の論文が挙げられています。紙面の都合もあるため、この中の注49の論文について実際の内容を調べてみます。
(注48の論文も、注51の論文もなかなか面白いです。注50の論文はまだ読んでません)
『アルファベット識字能力は植民地の技法でポストコロニアルな収奪だとか見なしたり』
まず、この部分の翻訳について。日本語版では原文および論文の題名にある "appropriation" を「収奪」と訳していますが、おそらくこれはポストコロニアリズムにおける重要概念のことで「流用」などと訳すのが適切ではないでしょうか。
植民地支配の過程で押し付けられた文字の読み書き能力(アルファベット・リテラシー)を、被支配側が自分たちのものとして「流用」して活用するという意味であって、これを「ポストコロニアルな収奪」と訳してしまうと意味が逆になってしまいます。
(この "appropriation" ですが、訳者だけでなく、そもそも原著者自体が理解していないようにも見受けられます)
さて、この Donaldson の論文(というかエッセイ)を眺めた感じですが、以下のような内容のようです。グーグル検索したところ論文の全文らしきやつが出てきたのでそれを読みましたが、著作権的に怪しく見えるのでリンクは示しません。
前提知識として、この論文の内容は、カナダにおける先住民族に対する苛烈な同化政策に関わるものである。カナダ政府は先住民族に対して、子どもたちを寄宿学校に収容して親から切り離すことを義務化した。学校内では英語を強制され、自らの言語を用いることが禁止された。これに違反した場合には体罰が課せられた。寄宿学校から出たときに母国語をほとんど喋ることができなくなっていたという経験を語る元生徒もいる。学校の制服は囚人服と同様の縞の模様であり、生徒は名前ではなく番号で呼ばれた。体罰や虐待、性的暴行などに加え、劣悪な衛生環境のため亡くなる子どもたちも多かった。亡くなった子どもたちは墓碑なしに学校の敷地内に埋められた。生き残った子どもたちも、PTSDなどの精神疾患により成人後も長期にわたり苦しむことになった。先住民寄宿学校での虐待については、たとえば、ウィキペディアの「カナダの先住民寄宿学校」や「遺体は“1000人以上” 暴行、レイプ…先住民の子どもを大規模虐待~カナダ寄宿学校の闇〜」(TBS NEWS DIG)が詳しい。また、Netflixの「赤毛のアン」を原作にしたドラマ「アンという名の少女」でも先住民寄宿学校の問題が取り上げられていたようだ。
先住民族のミクマク族(「赤毛のアン」のプリンス・エドワード島の先住民がミクマク族だ)に生まれ育った Isabelle Knockwood が寄宿学校での生存者としての自らの経験や、他の42名の元生徒へのインタビューに基づいて書いた回想録、 "Out of the Depths" を論文では取り上げている。彼女は寄宿学校に1936年から1947年の10年以上も収容されていたようだ。
文字を持たない口承文化の民族が文字の読み書き能力を得ることによって、その文化のありかたや文化の伝承に大きな悪影響が生じるという意見がある一方で、著者の Donaldson は、文字というものの性質それ自体が問題なのではなく、どのように文字が教えられたか、なぜ文字を用いる必要があるのかという点が、文字の読み書き能力が暴力的かどうか──その民族の文化を破壊するのか、それとも、文字を用いて自らの文化を活性化するのか──を定めるのだと主張する。
その上で、先住民寄宿学校での母語の禁止と英語の強制という、文字の読み書き能力を教えられる上で最悪の物理的条件においても、物理的条件と「書く主体」との関係は必然的に決定されるものではなく、書くことによる抵抗の可能性が残されていると Donaldson は主張する。
Donaldson は、"Out of the Depths" の筆者 Knockwood が、文字を書くためのペンをミクマク族の「トーキング・スティック」(部族内での話し合いに用いられる木の棒。車座になり、棒を持った参加者が1人ずつ話しては左側の参加者にその棒を渡す。棒を持っている間はその参加者に発言権があり好きな時間だけ喋ることができる。その間、他の参加者は反論することはできず傾聴することに努める)になぞらえている箇所に着目する。Knockwood はこのように書く。「私はトーキング・スティックを手にしている。私はシュベナカディの先住民寄宿学校について何年も語ってきたが、虐待を受けたミクマク族の子どもたち──その多くは孤児である──の叫びを見聞きしたときの痛みや恥の感覚が消え失せること、癒されるとことがないのは何故なのか、いまだに理解できないでいる。書き記すという行為が、私や他の人々が何らかの答えを見つけ出す上での手助けとなってくれることを私は望んでいる」しかしながら、このペンは「書く行為」を植民地主義の枠組みから置き換え、ミクマク族の知識体系の内側で流用(appropriate)するものだと Donaldson は主張する。
トーキング・スティックとしてのペンはミクマク族の口承文化や社会の伝統と深く繋がっている。"Out of the Depths" においては Knockwood 自身の回想に引き続いて、学校の他の住人たちの証言が短く言い換えられることがなく長いままで抜粋されることが続くが、 Donaldson はこれを「トーキング・スティックを他者に渡し」他者が語るための空間を作るものだと解釈する。1つの文章の中に多数の他者の声が含まれているのである。
一方で Donaldson は、Knockwood や彼女と同世代の詩人 Rita Joe にとっては、書くという訓練によって自らの言葉を奪われる一方で、抑圧による沈黙から自らのこの喪失の経験を取り戻し、癒しを始めることを可能としたのもまた、書くという訓練であったという「矛盾」について指摘する。Joe は詩でこのように書く。「私は自らの声を失った。あなたが持ち去った声だ」("I lost my talk⏎ The talk you took away")「あなたは声を奪い去った。私はあなたのように喋り、考え、創作する。私の単語についての、混ぜこぜになった詩を」("You snatched it away:⏎ I speak like you⏎ I think like you⏎ I create like you⏎ The scrambled ballad, about my word.")
Donaldson は、Knockwood の経験を「書くということが、どのように彼女のミクマク族としての伝統を規律化し、ネガティブに変えてしまったか」と「どのように彼女や他の犠牲者たちが、逆境を乗り越えて勝利したのか」のどちらかであるという二項対立だと考えるべきではないと注意する。「どちらでもないし、どちらでもある」のだと。ネイティブ・アメリカンの文化に深いルーツを持つ者にとって、トーキング・スティックとしてのペンは過去を書き換えることは出来ない。このペンは植民地主義のテクノロジーであると同時に、ポストコロニアルにおいての流用(appropriation)でもあり、常に両刃の印を刻み続けるのだ。Knockwood のペンは、私たちは植民地主義の支配下にあるが、完全に服従してしまったわけではないというメッセージを記している。そして、もしかすると、そう遠くはない未来において、この「流用」は本格的な解放へと繋がるかもしれないのである。著者 Donaldson はこのように論文を結んでいる。
で、『旧植民地の人々に少しでも役に立つと考えるべき理由などまったくない』かどうかですが……その……それ以前に、そもそも、何を意図してこの論文を選んだんですか?といいますか。プラックローズとリンゼイは、本当にこの論文を読んであの文章を書いたんですか?
まず、先住民寄宿学校における強制的な英語教育と母語の禁止が、植民地主義における同化主義のための技法であったのは歴史的な事実なわけです。その事実について理解を深めることは「役立つかどうか」以前に、まさしく正義の問題であり、被害者救済の問題でしょう。
(この論文が書かれた1998年当時、先住民寄宿学校の被害者でもっとも若い世代の年齢はまだ40代、『「社会正義」はいつも正しい』が書かれた2020年でも60代です)
一方で著者は、文字を持たない先住民が文字の読み書き能力を得ることが悪影響をもたらすかどうかは、文字それ自体の性質ではなく、どのように文字が教えられるかなど物理的社会的な状況に依存すると主張するわけです。そして、たとえ劣悪な状況であったとしても、その文字を利用することによる抵抗の可能性が(二律背反ではあるものの)残されていると。
このことは、同化政策によって植民地支配の社会システムに強制的に組み込まれ、民族固有の言語をほぼ失いつつある各地の人々が「言葉」とどのように向き合うかという意味で、大いに資するところがあるのではないでしょうか。
(追記というか。"Out of the Depths" の筆者 Knockwood は、彼女が子育てを始めたころに、自分の子ども時代について思い出せる限りのことを夜中にこっそり書き留め、書き終えると破り捨てたと本の中で書いているようです。
その秘密のメモの多くは彼女の先住民寄宿学校での経験について記したものでしたが、メモの内容だけでなく様式すらも彼女が寄宿学校で行っていた課題を模したもので、学校の課題と同じく、メモの最初の行には自分の名前と住所を毎回きちんと書き込んだとあります。
先住民寄宿学校での強制的な英語教育の「訓練」と、それが人の精神にもたらした影響について深く考え込まずにはいられません)
第9章 行動する社会正義
ブルース・ギリーの論文撤回について
最後は第9章のこの文章を取り上げます。ブルース・ギリーという研究者の論文が「キャンセル」されたことについて書かれているようです。
この部分、「『細やかな牽制』(原文では "nuanced counterweight")かあ。植民地主義には部分的には良い面もあった」というダメ主張かな?」と思うじゃないですか。
ではここで、ブルース・ギリーの「論文」にどのようなことが書かれていたかを見てみましょう。2017年に Third World Quarterly 誌に掲載されたあと取り下げられたギリーの「論文」はその後、右派・保守派の学術団体が発行する雑誌に再掲載されました。
Bruce Gilley "The Case for Colonialism"
(「論文」のようにカッコ書きしているのは、実際は通常の論文ではなく "Viewpoint" という区分の意見記事、エッセイとして雑誌に当初掲載されたからです。この点については後ほど述べます)
……どうみても『細やかな牽制』などではないのでは?「アジアやアフリカの貧しい国は、先進国が植民地として統治したほうが幸せじゃん?」と思いきり言ってますよね?
これは「論文」の主張自体の是非や、掲載誌から取り下げられた(リトラクション)こと、筆者個人への抗議についての是非とは別の問題です。『「社会正義」はいつも正しい』の筆者たちは現実認識が激しく歪んでいるか、あるいは、そもそもこの「論文」をまったく読んでいないとしか思えません。すごく変。
余談
ギリーの論文については「査読を通過して雑誌に掲載された」と書かれることが多いのですが、実際の査読プロセスがどのようなものだったかについてはいろいろと不透明な点があるようです。
論文出版後、掲載誌 Third World Quarterly のエディトリアルボード(編集委員会)の多数のメンバーが抗議のため辞任することになります。エディトリアルボードの34名中15名が連名で辞表を公開しましたが、その中で雑誌の査読プロセスに疑問を呈しています。
LETTER OF RESIGNATION FROM MEMBERS OF THE EDITORIAL BOARD OF THIRD WORLD QUARTERLY
これによると、ギリーの論文は当初、特集号に載せるための論文として、特集号のゲストエディター2名に提供されたようです。彼らはこの論文に違和感を覚えたため、査読に回すことを拒否(リジェクト)しました。
その後、この論文は通常の投稿論文として査読されることになりましたが、少なくとも査読者のうち1名がこの論文をリジェクトしました。そこで、通常の論文ではなく意見記事として再投稿されましたが、意見記事としても査読者にリジェクトされたようです。つまり、この論文は雑誌内で3回リジェクトされたことになります。
Third World Quarterly 誌の編集長 Shahid Qadir はギリーの論文が "double-blind peer review" (論文の著者と査読者が、互いに相手の身元がわからない状態で査読を行うこと)を通過したと主張しますが、実際のところは論文がリジェクトされたにもかかわらず(おそらくは編集長の独断によって)掲載されたということのようです。
Third World Quarterly 誌の運営体制に問題があると指摘する意見もあります。
Academic Neocolonialism: Clickbait and the Perils of Commercial Publishing
スウェーデンの研究者によるこのブログ記事によると、Third World Quarterly 誌は大手学術出版社のテイラー・アンド・フランシス・グループによって発行されていますが、実態としては別の営利企業によって運営されていて大きな利益を得ているそうな。その企業の唯一のオーナーが編集長 Shahid Qadir なのだとか。つまり、編集長 Shahid Qadir は議論を巻き起こすような記事を彼の雑誌に掲載して世間の注目を集めることで、金銭的な利益を得る立場にあるということになります。
感想
『「社会正義」はいつも正しい』ひどくないですか。
おまけ
時間の関係と元論文が入手できなかったので深く追えませんでしたが、『「社会正義」はいつも正しい』の第3章には、こういうことも書かれていたりします。
マジかよ。何が『あらゆるものを脱植民地化』だよ。「毛髪」も「英文学カリキュラム」もめっちゃ重要度が高いよ!ほとんど本丸だよ!
たとえば、注46の「毛髪」の論文(アブストラクトしか読んでないけど)には、アメリカの黒人女性が化学薬品による縮毛矯正ではなくノンケミカルのヘアケア製品による「自然にカールした髪」を選ぶことが増えていて、ヘアケアの方法を教える黒人女性のコミュニティが活発になっていると書かれています。
メディアに満ちあふれている「ストレートでさらさらな髪こそが『自然な』美しさである」という美意識によって、黒人女性に対して縮毛矯正を行うよう求める社会的圧力が生じるだけではなく、黒人女性自らがそのような美意識に深く侵され、生来の髪を劣ったものだとみなしてしまうというのがあります。そこから脱して「自分の髪を自分自身のものとして取り戻す」試みなわけです。
(これとは別の話として、アジア人女性が髪を染めたり脱色したりすると、白人男性が「キミの生来の美しい黒髪を自ら傷つけるのは間違っている」と説教してくるという問題があるようです。「オリエンタリズム」ですね)