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『ワンダフル・ライフ』(丸山正樹 著)は、いままでにない構成で、読む者を飽きさせない。

 短編集かと思いきや、実は全部がつながっていくという、いままでにない構成がおもしろい。いったい、どんなふうに話が展開していくのだろうと思っていると、最後にまたどんでん返しがある。すっかり、騙されたと脱帽する本である。

 目次を見ると「無力の王」「真昼の月」「不肖の子」「仮面の恋」と続き、それが(1)〜(3)まである。 最初は何のことかと思ったが、それぞれの主人公の話が短編を間にはさんで続くのである。
 たまに時間軸が異なることもあり、頭がこんがらがりつつ先に進む。最後には、それぞれの話が収斂していき、実は1つの大きな物語だとわかるしくみだ。

 全体の話に通底しているのが「障害者」と「介助者」の存在である。短編によって主人公が障害者だったり、介助者だったりする。そのどちらの立場にも共感するものがあり、考えさせられる。

 障害者は生きるに値しないのか、それとも命の価値は同じで、尊重されるべきなのか。2016年に起きた相模原障害者殺傷事件を思い出す。犯人の植松聖は「障害者は生きるに値せず」として19人の命を奪った。逮捕後、裁判を通してもその意思は変わらず、反省の弁はなかった。

 本書には、障害を持った子どもの母親が、将来を苦にして子どもを殺すという事件の記事がたくさん出てくる。その論調は、母親の罪は重いとしつつ、子どもに手を掛けざるを得なかった心情は理解できるとする。

 つまり、「障害を持った子どもは殺されてもしかたがない」といっているようなものだ。その意味で、植松死刑囚と子殺しの母親とは同じ土俵に乗っているのではないか。とすると、障害者はやはり生きるに値しないのか。  そう読者に疑問をつきつけてくる。

 自分はどうなのだろう。もちろん、命に上下はなく、生まれた以上、生きる価値はあるといいたい。が、どこかで障害者に対して「かわいそう」という気持ちがあり、自分とは違うという思いがあるのも偽らざる事実だ。
 
 その背景には、日本では健常者と障害者が交わる場所がないということがある。軽度の障害の場合は、普通学級に入学することもあるが、多くは特別支援学校に入学し、健常な子どもたちとの接点がない。
 接点がないから、街で白杖をついている人や車イスの人を見ても、どう声を掛けていいのかわからない。障害者が健常者のことをどう思っているのかもわからない。実際に触れ合うことがなければ、お互いを理解することなどできないのだ。

 あとがきを読むと、著者の配偶者は障害を持つ身である。だからなのだろう、障害についての描写が細かく、障害者の気持ち、介助者の気持ちがよく表現されている。
 きっと、障害の有る無しにかかわらず、だれの人生も「ワンダフル・ライフ」だと著者は言いたいのではないだろうか。「そうだよね?」という問いかけが聞こえてきそうな小説である。

 

 
 
 
 

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