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嘘日記 5月1日

先日、近所の田んぼに水が張ったという話をしたが早速どこからともなく蛙がやってきたらしい。その水田から3分ほど歩いた場所に我が家はあるのだが、窓を開けると蛙の合唱は今日も轟いている。

蛙というものは基本的にオスしか鳴かないらしい。この聞こえる鳴き声が全てオスのものであるとするならば、そこにいる蛙は今聞こえている数の倍近くはいるのであろうか。

こんな数の蛙たちはいったいどこからやってきたのだろうと考えてみる。その間ずっと蛙の鳴き声は小生の耳に大きく木霊していた。

小生、雨の日にはよくひしゃげた蛙をみる。そのどれもが脚を真っすぐにして死んでいた。どうやら蛙は死にたくなかったようだ。

なぜなら死にたい蛙は脚を曲げたまま潰れるからである。生きようとしたから脚は伸びていた。そう考えなければ蛙はまぬけであるように思われるのであった。

日常生活を送っていると、たいていの人は”死”と疎遠である。

轢かれた猫はいつの間にか道路から忽然と姿を消し、死んだ祖母は気が付いたら骨になっている。

今どきの幼稚園児に鮭の絵を描かせるとスーパーに売っている切り身の絵を描くらしい。がそれを馬鹿にするほとんどの大人達は食卓に並んだ牛肉が「牛肉」になる過程を見たことが無い。

そんな不思議なことが今は当たり前である。

生を慕うあまり死に対して疎む。

そんな世の中だからこそ今夜は、死というものを少しばかり考えてみることにしよう。

蛙の鳴き声はもう小生の耳には聞こえなかった。

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