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プリキュアとウルトラの母

もうすぐ七夕ですね。
子ども達が短冊を持って帰ってきました。
「お菓子がほしい」
「オモチャがほしい」と書く、と言うので、それでもいいけど、七夕とサンタさんは違うんだよ。って話をして。

「ジージとバーバがいつまでも元気にすごせますように」とか書くと、好感度があがるんだよ。って伝えると、
「なんでお母さんがきめるの!」って怒られました。
順調に育っているなぁ…と、嬉しい限りです。


私は「自分」というものが、希薄な幼少期を過ごしたと思います。

待望の(?)女の子で、チヤホヤされ、母には叶えたい「憧れ」がたくさんありました。
母お手製のヒラヒラで、レースのいっぱいついた服を着せられていました。
「自分で選べるもの」は少なく、「大人の言う通りにしておけば、間違いない」「おとなしくていい子でいなければいけない」と思っていました。

大人の望む理想の娘であろうと、していました。

反論したり、言い返したり、自分の想いを伝えるというのは、とても労力のいることで、言い負かされたり、「躾」という暴力で抑えられたりしている内に、そんな気力も湧かなくなりました。

いつしか、私は母のオママゴト人形であることを当然だと、思うようになっていました。


娘達が、素直に疑問を口にすることが、私には嬉しいです。

「ひらがな、どっちからよむの?」とか。
「虫には耳がないの?」とか。


同じ年頃の私は、こんなことを聞いたら、大人に馬鹿にされる。大人にからかわれる。大人に笑われる。と思って、口に出せない疑問が沢山ありました。(そして、30年以上経っても尚、未就学児の頃の過ちを未だに話しに出されて、笑われるのです)

娘達には、知らないことは「知らない」と言って良いし、出来ないことは「出来ない」と素直に言って、できる人に助けて貰ったらいい、と伝えています。

大人だって間違えるし、大人だって出来ないことがあるし、大人だって分からないこともいっぱいあるんだから。と。


大人を馬鹿にする子どもにも、子どもを馬鹿にする大人にも、なって欲しくはない。


結局、長女は「ぷりきゅあになりたい」と短冊に書き、次女は「うるとらまんになるよー」と書いて飾りました。

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