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オーストラリア日本語教師奮戦記139カウラの大脱走!

イマニュエルカレッジ日本語教師2年目。Year 11 日本語クラス。大学受験学年1年目の生徒たちは大学入試の語学科目を日本語で受ける。イマニュエルカレッジで日本語の勉強を始めてから、前任の先生の指導を含めて今年で4年目になる。ひらがな、カタカナはもちろん漢字の読み書きもかなりのレベルのものをマスターしている。

今年から授業の初めの10分間、自分たちの身の回りのことを題材にして質疑応答をすることにした。私の方から話題を振ることもあれば、生徒の方から問いかけてくることもある。その中で出てくる難しい言い回しや単語の確認などが、生徒たちの日本学習の進み行きにプラス効果をもたらすことを期待していた。話題は3週間連続で「コアラ」。そしてその後2週間は「カンガルー」。そして「ウォンバット」、「クオッカ」、「エミュー」。その後はオーストラリアの州、都市談議。次はオーストラリアと日本の間にあった第二次世界大戦時の、私も知らなかった「カウラ事件」のことを説明してくれることになり、先週が一回目。今日は2回目の説明になる。

生徒:S 私:K
S: ARAISENSEIWA KAURANOKOTO SHIRINAKATADESUKA
(アライ先生は カウラのこと 知りなかたですか)
K: HAI SHIRIMASENDESHITA MINNO SETUMEIDE HAJIMETE SHIRIMASHITA
(はい 知りませんでした みんなの せつめいで 初めて 知りました」
S: KAURANO concentration camp WA SENKYUUHYAKUYONJYUUICHINEN TUKURIMASHITA concentration camp WA NIHOINGODE MOOICHIDO NANIDESUKA
(カウラの concentration camp は 1941年 つくりました concentration camp は 日本語で もういちど 何ですか)
K: HORYOSHUUYOOJYODESU IYANA KOTOBADESUNE
(ほりょしゅうようじょです いやな ことばですね)
S: HAJIME ITARIAJINTO INDONESHIAJINGA IMASHITA
(初め イタリア人と インドネシア人が いました)
K: SOODESUKA NIHONJINWA ITUKARADESUKA
(そうですか 日本人は いつからですか)
S: HAI SENKYUUHYAKUYONNJYUUSANNENKARAIMASHITA
(はい 1943年から いました)
K: NANNINNKURAI IMASHITAKA
(何人くらい いましたか)
S: NIHONJINWA little by little FUEMASHITA little by little WA NIHONGODE NANIDESUKA
(日本人は little by little ふえました little by little は 日本語で 何ですか)
K: HAI little by little WA SUKOSHIZUTU DESU
(はい little by little は すこしずつ です)
S: SUKOSHIZUTU FUEMASHITA SENKYUUHYAKUYONJYUUYONENNI SENHYAKUNIN IMASHITA
(すこしずつ ふえました 1944年に 1100人 いました)
K: SONOATO DASSOOGA OKOTTANODESUKA
(そのあと だっそうが おこったのですか)
S: ARAISENSEIWA NIHONNO HEITAI KANGAE SHIRIMASUKA
(アライ先生は 日本の へいたい 考え 知りますか)
K: HORYOWA ZETTAIDAME TOIU KANGAEDESUKA
(ほりょは ぜったいだめ という 考えですか)
S: HORYOWA EIGODE NANIDESUKA
(ほりょは 英語で 何ですか)
K: HORYOWA prisoner DESU
(ほりょは prisoner です)
S: HAI NIHON HEITAI HORYO HAZUKASHIDESU
(はい 日本 へいたい ほりょ はずかしです)
K: SONOKANGAEWA MACHIGAIDESUNE
(その考えは まちがいですね)
S: HAI WATASHIMO SOOOMOIMASU DEMO NIHON HEITAI DASOODESU
(はい 私も そう思います でも 日本 へいたい だっそうです)
K: SOREWA ITUDESUKA
(それは いつですか)
S: SENKYUUHYAKUYONJYUUYONEN HACHIGATUGONICHIDESU
(1944年 8月5日です)
K: SOSHITE DOONARIMASHITAKA
(そして どうなりましたか)
S: TATAKAINI NARIMASHITA gun fight DESU gun fight WA NIHONGODE NANIDESUKA
(たたかいに なりました gun fight です gun fight は 日本語で 何ですか)
K: gun fight WA JYUUGEKISENDESU 
(gun fight は じゅうげきせんです)
S: JYUUGEKISENDE OOSUTORARIAJINMO NIHONJINMO SHINIMASHITA
OOSUTORARIAJIN YONIN NIHONJIN NIHYAKUSANJYUUYONINDESU
(じゅうげきせんで オーストラリア人も 日本人も しにました オーストラリア人 4人 日本人 234人です)
K: SOODESUKA KANASHIIREKISHIDESUNE SENSOOWA HONTOONI IYADESUNE
(そうですか かなしいれきしですね せんそうは 本当に いやですね)
S: HAI SENSOOWA IYADESU ZETTAIDAMEDESU
(はい せんそうは いやです ぜったいだめです)

「生きて捕虜の辱めを受けず」という言葉は戦争小説の中で何度も目にしたが、イマニュエルの自分の日本語クラスの生徒たちから聞くとは夢にも思わなかった。このような歴史が日豪の間にあったことを、前もって調べてもいなかった自分の不勉強が恥ずかしかった。発表する生徒たちの真剣な表情に感動させられた。

「捕虜になるのは恥である」という日本軍の教えは、日本人兵たちの心に1930年代ごろから刻みこまれていた。1941年1月に、当時の陸軍大臣、後の首相、東条英機は次のような戦陣訓を発表した。

恥を知るものは強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈々奮励してその期待に答ふべし。生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ。

オーストラリア当局はジュネーブ条約を順守し、捕虜たちは収容所での日常生活には不満はなかった。しかし多くはその状況に甘んじてはいけないと感じていた。脱走を実行するべきかどうかの投票では、賛成票が大多数になったという。

1944年8月5日の未明、突撃ラッパとともに脱走が始まり、宿舎に火が放たれ、大勢が収容所を囲む鉄条網柵に向かって殺到。オーストラリア人監視兵は銃撃で対抗し、多くの捕虜が射殺された。この結果、4名のオーストラリア兵と234名の日本人捕虜が死亡した。

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