オーストラリア日本語教師奮戦記138戦争の悲劇 捕虜収容所
イマニュエルカレッジ日本語教師2年目。Year 11 日本語クラス。大学受験学年1年目の生徒たちは大学入試の語学科目を日本語で受ける。イマニュエルカレッジで日本語の勉強を始めてから、前任の先生の指導を含めて今年で4年目になる。ひらがな、カタカナはもちろん漢字の読み書きもかなりのレベルのものをマスターしている。
今年から授業の初めの10分間、自分たちの身の回りのことを題材にして質疑応答をすることにした。私の方から話題を振ることもあれば、生徒の方から問いかけてくることもある。その中で出てくる難しい言い回しや単語の確認などが、生徒たちの日本学習の進み行きにプラス効果をもたらすことを期待していた。話題は3週間連続で「コアラ」。そしてその後2週間は「カンガルー」。そして「ウォンバット」、「クオッカ」、「エミュー」。その後はオーストラリアの州、都市談議。今週からはオーストラリアと日本の間にあった第二次世界大戦時の、私も知らなかった「カウラ事件」のことを説明してくれることになった。5人が一人ずつ5週間かけて説明するという。難しい話題に挑戦しようとするその意欲に驚かされた。
生徒:S 私:K
S: ARAISENSEI KAURANONAMAEO SHIRIMASUKA
(アライ先生 カウラの名前を 知りますか)
K: IIE SHIRIMASEN KAURADESUKA
(いいえ 知りません カウラですか)
S: HAI SOODESU KAURADESU
(はい そうです カウラです)
K: KAURAWA DOKONI ARIMASUKA
(カウラは どこに ありますか)
S: NYUUSAUSUUEERUZUDESU SHIDONIINONISHIDESU SHIDONIIKARA SANBYAKUNIJYUUKIRO KURAIDESU
(ニューサウスウエールズ州です シドニーの西です シドニーから 320キロ くらいです)
K: SOODESUKA KAURANONAMAEWA HAJIMETEKIKIMASHITA OOKIIMACHI DESUKA
(そうですか カウラの名前は 初めて聞きました 大きい町ですか)
S: JINKOOGA ICHIMANSANZEN KURAIDESU agriculture TO sheep farming TO WAINNO MACHIDESU agriculture TO sheep farming WA NIHONGIO NANIDESUKA
(人口が 13000 くらいです agriculture と sheep farming と ワインの 町です agriculture と sheep farming は 日本語 何ですか)
K: agriculture WA NOOGYOO sheep farming WA BOKUYOO DESU
(agriculture は のうぎょう sheep farming は ぼくよう です)
S: NOOGYOOTO BOKOYO DESUKA
(のうぎょうと ぼこよ ですか)
K: BOKOYODEWAARIMASEN BOKUYOODESU
(ぼこよではありません ぼくようです)
S: BOKUYOODESUKA MUZUKASHIIDESUNE
(ぼくようですか むずかしいですね)
K: OBOETEKUDASAINE
(覚えてくださいね)
S: HAI GANBARIMASU
(はい がんばります)
K: KAURADE NANIGA ARIMASHITAKA
(カウラで 何が ありましたか)
S: HAI SEKAINIBANSENSOO NOHANASHIDESU SEKAINIBANSENSOODE IIDESUKA
(はい 世界2ばんせんそう の話です 世界2ばんせんそうで いいですか)
K: world war two NOKOTODESUNE DAINIJISEKAITAISEN TOIIMASU
(world war two のことですね だい2じ世界たいせん といいます)
S: NAGAINAMAEDESUNE DEMO OBOEMASU SENSOONOATO KAURANI concentration camp OTUKURIMASHITA concentration camp WA NIHONGO NANIDESUKA
(長い名前ですね でも 覚えます せんそうのあと カウラに concentration camp をつくりました concentration camp は 日本語 何ですか)
K: concentration camp WA HORYOSHUUYOOJYODESU NANIKA SOKODE OKORIMASHITAKA
(concentration camp は ほりょしゅうようじょです 何か そこで おこりましたか)
S: HAI NIHONNO soldier HA TAKUSAN escaped SHIMASSHITA soldier TO escape WA NIHONGO NANIDESUKA
(はい 日本の soldier は たくさん escaped しました soldier と escape は 日本語 何ですか)
K: HAI soldier WA HEITAI escape WA DASSOODESU SOODESUKA NANIMO SHIRIMASENDESHITA SONOATO NANIGA OKORIMASHITAKA
(はい soldier は へいたい escape は だっそうです そうですか 何も 知りませんでした そのあと 何が おこりましたか)
S: HAI TAKUSAN NIHONTO OOSUTORARIANO HEITAIWA SHINIMASHITA
(はい たくさん 日本と オーストラリアの へいたいは しにました)
K: SOODESUKA KANASHIIREKISHIGA ATTANODESUNE
(そうですか かなしいれきしが あったのですね)
S: HAI HIHON HEITAIGA NIHYAKUYORI TAKUSAN SHINIMASHITA
(はい 日本 へいたいが 200より たくさん しにました)
K: SUGOI HANASHIDESUNE
(すごい 話ですね)
S: HAI WATASHINOSETUMEIWA OWARIMASU
(はい 私のせつめいは 終わります)
K: HAI ARIGATOO GOZAIMASHITA
(はい ありがとう ございました)
S: DOOTASHIMASHITE
(どうたしまして)
NSW州のカウラ市でそんな「すさまじい」歴史があったことを知らなかったことを大いに反省した。第二次世界大戦後にそこの捕虜収容所で脱走事件があって、200名以上の日本の兵隊が亡くなったという衝撃的な話が始まった。生徒たちも一生懸命調べたようで、メモ用紙を机の上に置いて一生懸命説明してくれた。これからさらに詳しい話を順番にしてくれることなっている。少し気が滅入るが歴史の真実を知る事も大切なので、来週もしっかり気を張って聞いていこうと思った。
オーストラリア・ニューサウスウェールズ州カウラ市には、第2次世界大戦時、捕虜収容所が置かれ、そこで大勢の兵士が亡くなったという。カウラ市は日本人戦没者を手厚く葬り、慰霊していることから、「日豪友好礎のまち」と言われている。人口は約13,000人、面積は約2,752キロ平方メートル、産業・経済は遊牧(主に羊)、農業、ワイン、シドニーから西に約320kmのところに位置している。
カウラ市では、日豪関係修復の機運が高まり、日豪の永遠の平和と友好のシンボルとして、日本庭園の建設が計画され、日豪両国政府、民間企業等からの資金援助や多くのカウラ市民の惜しみない協力により完成し、園内には、茶室、梵鐘、実演も兼ねた陶器製作所、あずまや、藤棚、盆栽鑑賞室などがあり、様々な趣向の水の風景や枯山水、中庭や畳の部屋、江戸様式の建物などが見学できる。
カウラ戦没者墓地のオーストラリア人と日本人の両者の区域と、捕虜収容所跡地、日本庭園、文化センターを結ぶ全長5kmにわたるサクラの並木が続いている。1988年、カウラと日本の文化関係を強調し、国際理解を進めていくことを目的に、サクラの木が植えられ、それ以来、何百本ものサクラの木が、個人や学校、団体、日豪両国の組織によって寄付されてきた。サクラ通りは将来にわたる友情を築くために、過去が大切であることを象徴している。
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