7 嘘つき自伝

第二章

数日後には、僕はニースにいるはずだ。ジェンキンスがウォッカマティーニに夢中になっているのを脇目に、プールサイドで太陽を全身に浴びる…。
「おい!どこ行くんだ!」
誰かが叫んだ。いったい誰の叫び声だ?確認しようと声のする方に目をやったその時…。
目に映るすべてがベージュ色になり、視界の端には紫の点々が見えた。鼻をつんざく焼けたゴムの匂いと、肩を刺す鋭い痛み。水しぶきが目を覆い、遠くに聞こえる波の砕ける音が突然止んだ。

「サンドイッチ、もうひとつどう?」
母が僕に言った。
「え?」
「好きでしょ?このサンドイッチ」
「ここがニースか…」
辺りを見渡す。ここがニース?僕と両親は道の端に止められたフォードアングリアのシートに座っていた。窓の外は雨。空は灰色の雲に覆われ、灰色の海では灰色の波が灰色の防波堤に打ちつけていた。
「なにがニースなんだ?ここはスカボローだぞ。お前は本の読みすぎだ」
父がそう言うと、母も共感するようにうなづいた。
「おやつももっと食べなさい」
「その通りだ、一度読みだすと絶対に本を手放さないからな。ところで、何をそんなに熱心に読んでるんだ?」
「何も読んでない」
「じゃあなんなんだそれは」
父は僕の方に身体を向け、手の中に開かれた本の数行を目で追った。運の悪いことに、父が読んだのは2人のローマ兵がベッドの中でイチャついているシーンだった。(こういうコンテンツはこの時代の警察にバレると確実に面倒なことになる。)☆この時代のイギリスだと、同性愛は違法です。
僕はギョッとして本を閉じた。
「歴史の本だよ」
「歴史の本にしてはずいぶんおかしなことが書いてあるな?よこしなさい」
「なんなの?」
母が聞いてくる。
「なんでもない。グレアム、その本をよこしなさい。母さんに見せるんじゃない」
「だからなんなの??」
「ロバートグレーヴズの『神、クラウディウスとその妻メッサリーナ』。ローマ皇帝のクラウディスの人生についての歴史の本だよ、バカみたいな時代の本。グレーヴズさんは大真面目に書いてるけど。」
気にする母に僕はそう説明した。
「本当か??」
父は疑り深くそう言うと本を取り上げ、車のグローブボックスに入れて鍵をかけた。
「グレーヴズね…グレーヴズ…、ウィンブルドン生まれの人よね?」
「それはティムグレーヴズでしょ」
「違うわよ、ほら覚えてない?あの可愛いアマリー・フォン・ランケと結婚した人、確か薬局の二階に住んでた人よ、ガントレッツの反対側の」
「ガントレッツは嫌いなんだ…コーギーが臭うだろ。手放せばいいのに…。」
「ほんとね。可哀そうに、後ろ足が不自由なのよね。まあいいわ、もうおやつはおしまいよ。リッチ夫人にタラを買って持って行かなきゃ」
「まだ時間はいくらでもあるさ」
「でもタラが届くのを待ってるんですよ」
「カレイでも食べてるだろ」
「どうしてもタラがいいんですって」
「タラだのカレイだの…何が違うんだ?全部魚だろ。もう少しここで景色を楽しもう」
「でも雨だよ」
「天の恵みじゃないか!ほら、窓を開けなさいグレアム。新鮮なオゾンを肺に送るんだ」
「オゾンは凝集状態になった酸素のことだよ、ここにあるのは腐った海藻の匂いがする空気だけ…」
「そりゃよかったな」
「よくない」
「ちょっと、お父さんに口ごたえしないの!」
「だから言っただろ、本ばかり読むなって。本にこの世の全てが書いてあるわけじゃないんだぞ」
「口ごたえなんてしてないよ、事実を言っただけだ」
「やめなさい、ほら、魚を買いに行きましょう」
「いや行かん。窓を開けるんだ、空気を入れ替えよう。」
父はパイプに火をつけた。嗅ぎなれたゴムの焼けたような匂いが車内を覆う。小さな咳をしつつ窓を開けると、顔いっぱいに雨風と冷たい海水が吹き付けた。
「もうはやく魚屋さんに行こうよ…。」
「あの船を見てみろ!ノルウェーから木材を運んでるんだ、針葉樹は15世紀の後半からずっと製紙産業に使われてきたからな。製紙の工程は元をたどると中国で105年頃に発明されたものだが、イギリスで最初の製紙工場はハートフォードのジョンテート氏がオーナーを務めたんだ。しかし持続可能な工業生産は…」
「あらテートさんといえば!彼の一番下のお子さん、ヴァレリエ・マスケルと一緒に工場の見回りをしてたでしょ!」
「してない」
「してたわよ!バレエ教室に通ってた子!」
「してない。…この工程はとある文具屋を営む2人によって開発されたもので」
「いいえしてました。覚えてないの?書記学校に通ってたじゃない」
「ちょっと静かにしてくれ、イーディス。発起人は発明家でありエンジニアのブレインドンキン氏の手助けを…」
「ドンキン!!彼の義理の叔父さん、ピートリングパーバで鳥肉の卸しをしてたでしょ!」
「いやしてない」
「してたわよ~!たしか一番下のお子さんが薬局の隣に引っ越したのよ、ガントレッツの反対側の!」
「黙ってくれ!!まったくお前は、天気のいい日にここまで来たってデンマークなんか見えやしないってことにいい加減気づいたらどうなんだ!あっちを見てみろ!フランスが透明じゃなければ薄っすらとでも見えてるはずだろ!ああ海よ!!」
「でもタラを買わないと…」
「何がタラだ!」
「なんで毎年毎年こんなバカみたいなことしなきゃなんないのさ…」
僕がそう漏らすと、父から言葉遣いが汚いと指摘を受けた。
「…なんで僕たちは夏休みのうち毎年2週間を何もない田舎のスカボローかフィリー、ブリドリントンに来て車の中に座って過ごさなきゃいけないの?しかも雨の中、口喧嘩までして。いっそのことデンマークでも行けばいいじゃないか」
「言葉遣いが悪い!それにトイレなんだ」
「は??トイレ?」
「お父さんは海外のトイレが耐えられないのよ」
「でも父さん、海外には行ったことがないって!」
「ハリー叔父さんが戦争中に北アフリカに行っていたんだがな、トイレがもう、酷いんだ」
「僕は今、デンマークの話をしてるんだよ!!それに実際に見てみたら、イギリスのトイレのほうが汚く感じるくらい綺麗かもしれないじゃないか」
「なるほど、それもお前の大好きな本で読んだんだな?え?」
「タラのこと約束しちゃったのよ…」
「もうわかった!そんなにタラがいいならタラのところへ行こうじゃないか今すぐ!!なんでお前たち2人はこの自然の美しさが理解できんのかね?!」
そう吐き捨てると父は波しぶきの散る道に車を走らせた。
「グレアム、なんだそれは」
「本だよ」
反抗気味にそう返すと、父もぶっきらぼうに聞き返した。
「何の本だ」
「キャプテングレーヴズの本」
「キャプテンか。え?さっきの本よりは良さそうじゃないか」

~中略~

☆グレアムのお父様はお堅い警察官で戦時中をもろに生きてきた世代だと思うので、キャプテンとかそういう称号には弱いのでしょう。


☆ここからはグレアムが読んでる本の世界…夢の世界?の描写が続きます。訳すのは難しいので省いて、目が覚めるとこから始めます。グレアムがしきりに「読書はしてない」と言うのは、本人は本を開いたまま寝落ちして夢を見ていて、読書をしている気は無かったからだと思います。夢の部分も訳せたらいいのですが…(たぶん下にフロイトの夢判断が出てくるのはその繋がり)

ぱこんっ!
頭がガクッとして目が覚めた。
気が付くと車は魚屋さんの外に停車中で、外では母親がタラを買おうとしているところだった。
「また読書か」
父はうんざりして聞いてきた。
「してないよ」
「じゃあその手に持ってるものはなんだ!」
「ああ、フロイトの夢判断だねこれは。無意識の世界を見る方法を発見して、神経症は意識と無意識の状態を行き来する妥協と衝突が生み出す夢のようなものだということを…」
「ああそうか」
父はページをめくりながら言った。
「これはなんだ?『彼女はまだ小さかったころ、お兄さんとその友達が下着を脱いで側方回転を披露するように言ってきたことを覚えていた。自身の性器は彼らの好奇の目に晒され、後に彼女は…』」
「タラを買えたわ!あら何の話?また本?」
「なんでもない」
本はまたグローブボックスへと放り込まれた。
「地図を見ていただけだ」
「フロイトって誰よ?」
「彼はその…プロの案内人だ。なかなかおもしろい奴でな、彼の案内の理論は、その、緯度と経度が…」
「あー、わかったわ、もう大丈夫。それじゃあリッチ夫人にタラを届けにいきましょう!」
「よしきた!」

この後の数年間でも色んなことがあった。惨憺たる性的実験や、男の子との初恋、雌鶏泥棒ばーさん、生物の先生への射精に関する質問、地面男のアルバート、マークコリンズと数学の授業中に手を繋いだこと、フランスの図書館でカップルが性交したこと、ジョンウィルダーを黒く塗りつぶしたこと、紫の煙、小さな男の子の鼓膜…※。どれも文字通りの出来事だった。もし読者の中に精神科医がいて、人のごちゃごちゃなフィクションじみた記憶ばかりの自伝を分析することで、その人物の汚い部分を割り出すことが賢明だと思っている人がいるならば、この本を開いたのは失敗だと思った方がいい。

☆※訳せる部分だけ訳しました。ほんとはもっとあります。もっと過激です。グレアムの幼少期の描写は、夢と現実と白昼夢が織り交ざってる感じがしました。ぼんやりした子だったのかなーとか。妄想。

☆グレアムパパは隙あらば自分の威厳をアピールしたい、プライドの高いタイプの人のように思えますね。典型的な軍人タイプというか。警察官だけど。対してママは噂話好きでちょっと神経質な、典型的なイギリスのオカン。どちらもパイソンズのスケッチによく登場しますね。

次回はいよいよ大学受験!

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