第10回六枚道場感想

Aグループ


1.「身につけるもの」草野理恵子

 1頁目から強烈なビジュアルが頭に刻みつけられる。前半はハイヒール、ピンヒールで立つことの不安定さを、後半は相同と相違を書いているのか。
 なんでもつい意味を解釈、理解しようとするのがわたしの癖だが、これは浮かぶ場面を眺めて自然に浮かぶ感情を楽しむ作品かなと思った。
 ただ、ヒール、お面、ひばり(籠鳥の象徴か)、ロープ、タイツなどといったキーワードから、束縛される女性の閉塞感が感じられて良かった。


2.「王水」田中目八

 いなつるび! はじめて聞いた。全部かっこいい。
 だけど多分これらを理解するには、基礎的な教養がわたしには足りないと思う。理解はできないけど、なんかいいという感想しか言えないのがもどかしい。


3.「ことば」星野いのり

 タイトルからことば、読む、祈る、ささやく、書く、黙さぬなんかで繋がってるんだろうなということは分かる。読んでていいなあという思いは湧くのだが、やはりそれ以上何とも言えないのが悲しい。


Bグループ


4.「幻肢痛」いみず

 自作。


5.「ボロンちゃん」馬死

 露骨な下ネタかと思い読み始めた。下ネタは諸刃の剣で、読者を我に返らせたらそこで終わりといった緊迫感をわたしは感じる。
 結果、おもしろかった。ストーリーもさることながら、文章が上手いんだろう。ほとんど引っかかりなく最後まで一気読みさせる力は相当なものだと思った。ひとつだけ「改名制度が簡単にできる」は「改名が簡単にできる」とか「改名制度が簡単に利用できる」とかでは。
「これはフィルターなの」以下はちょっとドキッとさせるセリフだ。若干使い古されたテーマではあるものの、この軽妙な文章のこのタイミングで使われることで、読者の気持ちを引き締め飽きさせない効果を発揮しており、全体を単なるお下劣な話にさせない緊張感を生んでいるのがすばらしい。最後の宝石箱を閉じるという表現もここにからめると、人の本質を隠す箱(お下劣な名前)の中に本当に大切なものがあるということに解釈でき、この小説の主題なのかも知れない。
 少女の父と主人公の父の思いは正直よく分からなかった。正式には少女の名前には「・」があり、主人公の名前にも「大」の中に「・」がある。呼びにくい名前を別の呼び方ができる工夫をしたというのが愛情なのだろうか。けどそもそもそんな名前を付けなければよいのに。

 わたしは細部を気にしてしまうたちなので、他の人は気にしないか軽く流せることに引っかかってしまう。
 まず「珍宝」は「ちんぽう」と読むのがほとんどなのではなかろうか。facebookで600人いても、そのうち「う」がない人はどれだけいたのか、またDMで読み方を尋ねてから子作りの相手を選んだのだろうか。絨毯爆撃と喩えるほどの人数がいたのか。
 悪魔ちゃんがOKというのは間違いで、OKではないが本来拒否すべきものを誤って受理してしまったので手続き上の理由から認めるという判例を知っている身としては気になった。
 ただこれらも登場人物の無知を表しているものとすればそれはそれで深みは増す。それに「ぽろん」では拒否されると思い「・ぼろん」にするのだとすれば合点はいくのだが、それならやはり「悪魔ちゃんがOK」はなんの根拠にもならない。
「名前で呼んでくれない」とあるが姓名をそれぞれ単独で言うと圧倒的に姓の方が呼びにくいだろう。名で呼ぶ者に「名前で呼んでくれなかった」はないだろうが、姓で呼んで名だけで呼ばないのは考えにくい。姓もしくはフルネームで呼ばれなかったのではという違和感がある。それに多分先生は姓で呼んでいるだろうし、9歳の男子などむしろ喜んで呼ぶのではないだろうか。

 でもこれらは正直どうでもいいのではと思えることだ。それとは別にどうしても気にかかることはがある。果たして13歳の少女を性的に成熟した者として主人公に射精させて妊娠する者として描くのがどうなのかと。昔ならいざ知らず、この舞台は明らかに現代だ。どう考えてもありえない妊娠だし、フィクションだからといえばそれまでなんだけど。もちろんそんな作品がだめというつもりはなく、そうすべき必然を感じさせれば野心的で重厚な小説と思えるだろう。ではこの作品にそれほどの必然性があったか。
 十円玉やまだお腹が膨らんでいる(生まれていない)のにもう出生届、怨念を込めて名前を書く、といったわたしには読み切れていないところにその答えがあるのかも知れないが、2,3回読み返しただけではわたしにはその必然性を感じ取ることはできなかった。わたしの頭が固いのかも知れないけど、手放しで楽しめない雰囲気を感じた。

追記(2021.1.3)

 上記で、「13歳の少女を性的に成熟した者として主人公に射精させて妊娠する者として描く」ことへの疑問を呈したのだが、そのことについてずっと考えていた。それに加えて、早稲田文学増刊号『「笑い」はどこから来るのか?』を今読んでいて、笑いと許容といったものについて改めて考えることで、自分の前述の考えが揺らいでくるのを感じている。本作全体の印象としてはコメディータッチなもので、本エピソードも当然現実において承認されるべきというよりもインパクトのある展開としてのものだろう。
(現実世界に置いて承認されないのが正しいかどうかはここではおいておきたい)
 そういった作品の中での、日常生活ではタブーと思われるこのエピソードは、笑いをとるものとしては許容されるべきものだったのかも知れない。わたしにとっては諸手を挙げて笑えはしないが、ここに書いて主張すべきことは、期せずしてわたしの忌み嫌う言葉狩りと同じようなことをしてしまっていたのではないかと思い直すに至った。


6. 「ノン(ノン)フィクション」紙文

 だれも気にしないだろうと思いながら、冒頭の「泣く子も黙るホラー小説」でちょっと笑ってしまった。ホラーなのだから「黙る子も泣き出す」のほうが自然なのにわざわざこの慣用句を持って来たのだったらセンスが良い。
 軽薄な独白調の作品は紙文さんには珍しいかな。
 ちょっと変わったスランプの設定が面白い。
 ここからはわたしの空想で多分作者の意図とは異なるだろうけど、語り手の新人編集者が自分が死なないために、万寺先生の寝室に付き添って、つまり主人公は先生と特別な関係になっているという解釈は成り立たないだろうか。寝ている間に無意識にノートに小説を書き留めるのを見て、自分が死にそうになったら先生を起こす。そんな作戦を遂行する限り主人公は死なない。命がけの同居生活だ。だからバカ売れしなくても本が売れているのを見ると笑顔になる。そして二人の同伴生活は「随分と長いシリーズ」になるのだろう。


Cグループ


7. 「石像」一徳元就

 これまでと随分違う作風か。切ないラブストーリーと読んだ。
「この目に尖った石のかけらを突き立てました。けれども傷一つ、負うことができないのです」罪がないはずなのに罪を背負わされた女の悲しみ、辛さがひしひしと伝わる。
 覚者も何者か分からないが、「同じ呪われた身体」と述べていることから、あまりその境遇に喜びは感じていないのだろう。「ただ一本の糸がどこか虚空へと伸びている不思議さを、護符のようにして生きてきた」が覚者の苦悩へ共感を抱かせる。
 理不尽に苦痛を負わされた二人が、運命とも言えるわずかな縁をたどり巡り会い、おそらくは結ばれたのだろうと思わされるラストが美しかった。

 冒頭の「)」は「>」の誤植? 


8. 「秋月国興亡史序章」今村広樹

 この作者は揺るぎない。圧倒的な短さや理解するための手がかりの少なさはもはや定番で、投票の得票数もさほど多くはないにも関わらず我が道を行く姿勢は称賛に値するし、そういう作家の存在が六枚道場の可能性を広げてくれていると思っている。
 今回の作品にもこれまでと同じく秋月国なるものが出てくる。これまでの流れや、序章とあることからも、単一の作品というより一部のみを提示したものと理解すべきか。
 秋月国とは国の名前でもあり一族や個人の名前でもあるのだろうか、3,4,5あたりからそういった多元的な意味が明らかになってくる。これは誰も彼もが同じ名前の「南の島のハメハメハ大王」を連想させるおかしさがある。また、国、女帝、霊帝、時代などといった大仰なものと、デンプシ-ロール、母さん、イケメン、置き手紙など身近なものとの対比がまたおかしさを醸しているのだろう。


9. 「肉汁公の優雅な偽装生活の終わり」ビスケット・オクバ

 小説の中で小説に言及することが嫌いという小説観に言及する小説という多層メタ構造。前半は、小説とはどうあるべきかという保守的観念とそこからの開放を唱えるものの対立と読んだ。
 「あたし」は小説内小説が十年ほど前のものと聞いた途端に作者の『肉汁公』に興味を持つが、その理由として述べているのは「オチもない、モチーフも、何を伝えたいのかもわからない」からだという。それが理由なら時期を聞く前から興味を持つはずなのではないか、と不思議に思った。
 ただこの「オチもない……」の部分を読んでわたしは「やおい」という言葉を連想した。それでちょっと調べて驚いたのだが、現在「やおい」とはBLのことを指すというのを恥ずかしながらはじめて知った。わたしの知っているのは「ヤマなし、オチなし、意味なし」の漫画のジャンルのことで、この言葉が生まれた当初は確かにその意味で使われていたのが、いつしか性的な意味が付加されBLの漫画や小説を指すようになったらしい。というのを知ってふと思い当たったのだが、この作品の会話文は「あたしはまだ若かった」過去のことで、肉汁公の作品が書かれたのはさらに十年ほど前。となるとまだやおいが元々の意味で使われていた頃のことかも知れない。「あたし」はそのことを知ったから興味を持ったのだと考えれば、十年前と聞いてからというのも合点はいく。ただそこに何の意味があるのかはわからない。
 部長はなぜ失踪したのか。
「私」は「あたし」? それとも別人?
「息子」は肉汁公? それとも部長(性別は明らかでないが)?
 だとすれば「私」は部長の父親か。
 小説内小説は「肉汁公の優雅な偽装生活」で、この小説は「……の終わり」だ。さきのBLに絡めて考えると肉汁公の偽装とは性別の偽装だろうか。仮に「息子」が肉汁公だとすると心は女性の男性で、偽装生活を終えるというのは本来の性自認である女性として生きていくということだろうか。
 エイミは文芸部にいる理由を問われ言葉に詰まる。有り体に解釈すれば部長への恋愛感情がその理由か。しかしその部長が生物学的に男性でも心が女性だったとすれば、「何も知らなかった」のはそのことだったとも解釈できる。
 ストリックランドはモームの「月と六ペンス」の登場人物のことか。わたしは読んだことがないということもあり、このあたりになると、ちょっともう頭が混乱してわからなくなった。
 多分「やおい」にとらわれてしまって、作者のまったく意図せぬ方向に読み進んでしまったのかもしれない。全体の雰囲気としてはなんとなく楽しめる作品だったが、理解しようとするとわたしの知識不足かヒントの足りなさのためか、時間がいくら合っても足りないと思った。

 以下は他の人は気にならないかも知れないがわたしには気になったところ。
 「仕方ない。この時のわたしは……」で、部長とわたしのやりとりが過去の話だったことが明かされるが、ここには違和感があった。そこまでの話がどのような形で提示されているのかによるが、わたしの過去語りとしてなら「この時」よりも「その時」だろう。「この時」になるとすれば、テキストや録音のような形で今眼前にあるものの場合だろうか。もちろんそういう意図での語用かも知れないが、それを示唆する部分も改行もなく現れるのには混乱するし、あえて読者を混乱させることによる効果もわからなかった。


Dグループ


10.「オーバーフロー/A」至乙矢


 おもしろかった。
 ファスナーと聞くとズボンや鞄のファスナーを連想したが、語源はfasten(=結びつける)をするもという意味なので、この場合感情を視覚化することで人と人を結びつけるものという意味での命名だろう。自分の思考や感情が人に伝わってしまうというフィクションは目新しくないが、それを自分の意思で選べるという設定はちょっと珍しくて面白い。というのは他人に心を見られるというのは誰もが嫌がるだろうから。にもかかわらず「学校の半分以上が使い始め」るのかとちょっと意外。
 主人公の少女サチははじめての彼氏や野球部のアキオの本心を読み違えてしまう。サチに限らず、人の気持ちを読むことが困難で、はっきりと答えが分かる手段があれば飛びつきたいという欲求は、誰もが一度は感じたことがあるだろう。要するに人の心は知りたいけど、自分の心は都合のよいことだけしか知られたくない。
 ファスナーは自分の意思で自分の情動を色にして知らせるものだが、伝えるものを選ぶことはできない。それでも着ける人がいるのは、アキオのように自分の真意を信じてもらいたいという動機や、マリカのように自分の情動を売り物にするといった理由からだ。またファスナーは世界中で参照でき、見られている数がカウントされる。
 これらの設定から、ファスナーはおそらくSNSあるいはYouTubeなどのメタファーだろう。良くも悪くも本心を書き綴って、それに対して「いいね」をもらう。それが少数だったら純粋に嬉しかったのが、極端に増えることで勝手な期待を抱く者、自分を理解者だと思い込む者、誹謗中傷する者など望ましくない閲覧者も増えていく。それが嫌ならファスナーを外すこともできるが、膨れあがったフォロワーへの未練からやめることも出来ないというジレンマに陥る。そうなってしまったサチの、もともと純粋であたたかい色だったファスナーは、どんな色を呈しているのだろうか。その色の変化に気づいて心配したアキオはマリカに相談する。
 「誰かを喜ばせようとしたとき……」の「何らかの形」はファスナーではなくとも古来から人がおこなってきた、言葉や表情といったアナログなコミュニケーションの存在を再度提示しているのだろうが、サチは(自覚的には)見知らぬ人々への利他的な救済欲求のために外すことができない。しかし実のところは、嘲られていた自分が世界中から注目されるという陶酔を手放せないという、利己的な理由だったのだろう。
 最後、サチが(完遂かどうかは不明だが)殺害される。犯人はアキオなのか。サチが相手の目に映る自分の姿を見るという冒頭と呼応させるならそうなるのだろう。サチが殺されなければならない理由は、そういった自己欺瞞への罰なのだろうか。しかしそれではあまりに厳しすぎる。むしろ善も悪も併せ持って当然の人間へ、一方的な理想をその目に見ようとするアキオの残虐性、人間的な逸脱を許そうとしない絶対的な頑なさへの批判精神が込められているようにも思える。このあたり、昨今の自粛警察のような存在も連想してしまう。
 そして不気味なのはマリカの存在で、サチの親友のようでありながら創世記でアダムとイブを誘惑する蛇のように思える。しかも自身は感情が動かず淡々と中立を保ち、選択権は常にサチに与えながら巧妙にサチを破滅させていく。人間の弱さにつけ込むとても厭な奴だ。


11.「雲上都市の少女」ミガキ


 前作とのつながりがあると聞いたが、六枚という制限の中でのイベントなので、感想としては単独の作品として書きたい。
 ストーリーはシンプルで六枚の中で何が書けるかを分かった作品と思える。一方で読者の共感に基づいた物語の広がりも少なく、良くも悪くもきちんと治まったという印象。内容がファンタジー(?)なので共感を呼ぶといっても場面や設定では難しく、もしそこで責めるなら現実世界を反映するメタファーを含んだ設定にすることになるだろう。本作では暴力的な略奪者としての男性、被害者としての女性という現実世界との接点がある。そして「子どもを作る能力を半分奪われた」というのは面白い設定だ。

Eグループ


13.「ひとりぼっちのアンサーソング」本條七瀬

 さすがの表現力に脱帽する。「ミッキーの腕時計」「紺青色の……」など細々とした描写が、情景を露わにしてくれる。二枚目の冒頭で展開するゆめかの裏部分も字数を見据えた上手い構成。一方的に気に入った相手に理想を転嫁するのも、勝手な価値観で裏切られたと思うのも、いわばストーカーの論理でそこに真の交流はない。
 自分勝手な思いの被害者である理央が歌詞のない歌でそれに応えるのも、理央の気持ちが表現されて良い。良いのだが、少しそれまでに字数を使いすぎて、個々の部分が早急すぎた感じがある。
 それと「故意に」以降、ゆめかがそう簡単に反省して自分を責めるのかというのが空々しい感じがした。この字数でこの描写力で表すなら、内奥の葛藤を示唆しながらもまだ嫌な奴のまま終えた方が深みが増したように思う。このあたり、作者の良い人ぶりが隠しきれなかったのではと、勝手に思っているのだがどうだろう。
 どうしても「七澤」が作者の「七瀬」さんに被ってしまって、実体験をまじえているのではなどと想像してしまうのは、作者の掌で転がされているのだろうか。

「あらゆる雑音が理央の声の背景となって」が好き。



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