罪悪とルール

わたしは神という者(物?)にはあまり詳しくない

最低知識がこの世を作った者という      イメージしかない

元々わたしは意識だけがあると思っていた   もっと言えばわたしが無くなればその死後は  無くなるそういう世界観にいた

物質はあるけどその物質がなくなれば     この世とは関係なくなるそういうもんだと   思っていた

神はいない 勘違い またはそれに縋るしかないから信じてる と、

そんで、快楽主義 エゴイスト に近いもんに なっていた

まあこの頃は小学生の時の、かなり捻くれていた頃の思想なため許してほしい

陰謀論(論というとちょっと違う気もするけども) というか政治的なものに手を出したせいでかなりの捻くれもんになってったもんで

中学生になってった頃に逆の考えに      手を出した事でかなり大雑把に飛ばして今に至る

さて本題に入るとして罪悪とは何だろうか   それはルールを破る事だろうか

ルールというのは人のために作られた物だ   モーセの十戒の様にとても多くいる人々を纏める為に作られた物だ

じゃあわたしたちは一体どういう時に     ルールを破る?

欲のため?はたまた他の誰かの為?

前者は兎も角、後者がなるべく        あってはいけないもんだ

何故ならルールは人の為に作られた物だから

ルール自体が間違っていたら意味がない

ああ、だからイエスさんはそうしたのか

道徳とは命の重さを正しく認識する為のものだろうと思う 多分

ルールを決めるのはいつも賢くそして人徳がある人ではないといけない例えば国王とか

そうじゃなきゃいつか崩壊する

それゃあ大事な物だ

でも重さは違う

重さの主観はそれぞれ違う

でもだからっていって軽々しく扱っては    駄目なのだろう

何故だろうか、怨まれるから?        

わたしたちは野菜だろうと何だろうと     命をいただいている             そうしないと生きていけないから

また、無意味に殺される命を知りつつも    何もできない事も

それはある意味、罪だ

ただ、わたしにはずっと考えている事があって

それらに対して何か返せないかとずっと思ってる罪悪感がそうさせる

でも、いつもそれを感じるほど        わたしは優しくない

贖罪などきっとできやしない

今わたしにできることはどれだけなんだろうね



あとがき                  ねむいからきっと明日には正気に戻ってる