第8話 嵐の前に

結局バーには行けず、気づけば金曜日になっていた。
悟のおかげか、一昨日から弁当が届いていない。
何日かぶりに顔を合わせた渡辺百合子は、翔と一切目を合わせず黙々と仕事をしている。
いつもなら何も言わなくても、コーヒーやお茶を「ついでにいれたよ〜」と持ってきたのに、今日はそれもなかく、欧米のラージサイズのようなタンブラーになみなみに入ったブラックコーヒーを片手に、画面に集中している。

「忙しいアピールか。まぁ、どうでもいい」

翔は席を立ち、オフィスに直結しているカフェテリアに向かった。
コーヒーと軽食をとっていると、悟がニヤニヤしながら近づいてくる。

「あれ、愛妻弁当は?」
「うるせーよ」
「いや~結局渡辺百合子もお前だったか~、って思ったけど、お前の勘違いだったみたいよ?あいつ結婚するらしい」
「まじ?」
翔に驚く暇を与えず、悟は話続ける。
「それよりさ、今日夜あいてない?飲み会なんだけど一人来れなくなっちゃって。お前来たら女性陣喜ぶっしょ、来てよ」
「いや、パス。今日会食だから」

ついこないだ悟の結婚式に行ったなーと思いながら、毎週のように飽きずにコンパを開く悟のモチベーションがどこから来るのか不思議だったりもする。
そんな俺の疑問を察したのか、
「あ、俺は本当に幹事だけよ?まぁどタイプいればメシくらい行くけど。まぁいいや、また誘う〜」
何が言いたいのかわからないまま、悟は飲みかけのコーヒーをそのままにして、行ってしまった。
「それより渡辺百合子が結婚…まぁどうでもいい」

会食が急遽キャンセルになったのは、18時を過ぎた頃だった。会食といっても長い付き合いのクライアントで、年齢も近く仲良い男友達と飲みに行く感覚だった。

ぽっかり空いた金曜の夜、何をしようか考えているうちに残業が終わった頃にはすでに21時を過ぎていた。
一人で軽く晩飯を済ませる。
こうゆうときに気軽に誘える友人っていうのは意外といない。
翔の足は自然とあのバーへ向いた。
別に期待しているわけがない。そんな偶然、起こるはずがない。
雑居ビルの地下に降りながらそんなことを心の中で呟いた。

重厚感のあるドアを開けると、翔のネガティブ思考を吹き消すかのように、彼女の笑い声が聞こえた。
先に気づいたのはマスターだった。
入り口でどこに座るか迷っている翔を見て、それとなく彼女と近い席に座るよう目配せされた。
彼女も一つあけた隣の席に翔が座ると、あっ!という顔を見せた。
「こないだは、どうも」
思ったより早く目が合ってしまったので、すかさず声をかけた。
向こうも微かに笑みを浮かべ少し恥ずかしそうに応える。

こうゆう偶然なんてものがあるから、世の中の女は「運命」とか騒ぐのか。

マスターの助け舟を借りながら、自然と弾む会話が翔を安心させていく。
それでも名前以外の基本的な情報は聞かない。
相手から話してくるなら別だが、根掘り葉掘り聞くのはバーでの出会いではマナー違反だ。
唯一共通の話題といえば、こないだの衝撃的な出会い。
これがあれば会話に困ることはなかった。
飾らず、媚びず、時々翔を小馬鹿にするような真知は自然体で、翔は無意識のまま、真知の隣に席を移していた。

楽しい時間はあっという間に過ぎ、気づけば深夜1時をまわっていた。

「そろそろ帰ろっかな」
と席を立つ彼女に合わせ、翔も会計をすませる。
確実に縮まった真知との距離感にすっかり満足していた。
多少無理もして、こないだの彼からの連絡はまだないとと嘆く真知のためにサンボマスターを流して応援する振りまでした。

仕事でも恋愛でも焦ることは禁物だ。まずは真知が失恋するのを待とう。
相手の男のことは知らないが、もう復縁することはないと、なんとなく翔にはわかった。

お互いまたここで会えるという確信があるから、特に連絡先も交換せずタクシーに乗るまで見送った。

近いうちにまた会えると期待を膨らませ、珍しく散歩がてら家まで歩くことにした。
昨日の大雨で汚れが流れたかのように、澄み切った空は余計に翔を舞い上がらせた。

マンションの前に立っているあいつの姿を見るまでは、少なくともこれから始まるかもしれない恋に胸が高鳴っていたのは事実だ。

「ひさしぶり」

聞き覚えのある声に、翔は固まった。
まっすぐに、刺すように翔を見る希の視線で一気に酔いが冷めるのがわかる。
そうだ、自然に終われるはずがないんだ。
それは何となくわかっていた。

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