第4話 最初の女

深呼吸。
こういうときこそ、まずは深呼吸。

誰かが家に入ったかもしれない緊急事態を冷静に対処するために、鏡をみて自分を落ち着けた。
心臓の激しい鼓動を無理やり押し込めるように自分の目を見つめるけれど、嫌な思い出が勝手に頭を巡る。


過去に1人だけ、鍵を渡した彼女がいた。
堺朱里。大学院生の終わり頃から社会人になるまで付き合っていた。
念入りに手入れされた長い黒髪とナチュラルすぎないメイク。大体の男が好きな感じ、と言えば想像つくだろう。
社会人になるまで世田谷の実家で暮らしていたので、初めての一人暮らしにだいぶ浮ついていた気がする。今なら絶対に鍵は彼女に渡さない。

朱里は当時三菱商事の事務職をしていて、上野の近くに一人暮らしをしていた。大学院から近くて、半分宿代わりにしていたところもある。
社会人になって一人暮らしをし始めたら、あらゆる遠回しな表現を使って鍵をねだってくるので、ちょっとだけ可愛くなって思わずスペアキーを渡したんだった。

それからは呼んでも呼んでなくても毎週金曜日は必ず夕飯とともに家で待っていられ、朱里の持ち物が快適な我が家を蝕んでいった。
いるって分かっていてあえて飲んで帰ったあとの朱里の顔は、無言のプレッシャーと漂いでる悲壮感、そしてそれをあえて悟らせるような言葉の端々にもう取り繕うのも嫌気がさした。

今日こそ別れを切り出して鍵を返してもらおうと会う約束をしたら、漫画みたいで自分でも笑っちゃったんだけど、リビングには包丁を持った朱里がいた。
この先は思い出したくもないけど、その場はなんとか無事に切り抜け、今こうして別の緊急事態に直面しているというわけだ。


自分の人生最大に死を覚悟したことを思い出し、フッと肩の力が抜けた。
女と包丁を切り抜けた自分に、もう怖いものは無い気がする。
顔を冷たい水で流し、乾燥が終わりたてのタオルで顔を拭く。
泥棒さんだか怨念さんだか知らないけど、ホカホカのタオルは正義だ。少なくとも、乾燥をかけておいてくれるなんて親切じゃないか。
俺を傷つける目的は無いはずだ。

なんだか軽い気持ちでリビングに向かい、部屋の明りをつける。
ほとんど使っていないソファーに、女が寝ていた。

ごくり。
さっきまでの軽やかな心は、一瞬にして鉄の塊のような重みを持つ。
このまま家を出て警察に電話するべきか?
いや、誰だか気になる。こんな状況でも好奇心が顔を出すことに、自分でも驚く。

そろそろとソファーに近づく。
自分の部屋から親しみが消え、快適だと思った温度が肌寒く感じる。
半ば勢いで顔を覗き込むと、その女は母だった。
そうだ、部屋を契約したときにもらったスペアキーの一つを、何かあったときのために実家に置いておいたんだった。

大きなため息をつくと同時に、無駄なエネルギーの消費に怒りを覚えた。
母はいつだってそうだ。
自分が一番大切で、人を振り回すことをなんとも思わない。
俺を愛しているとベタベタしてきたと思ったら、もっと大事な何かを見つけて突き放される。
育ててくれたことには感謝しているが、正直母親を好きかと聞かれたら、分からない。
良くも悪くも、母は母だ。

「母さん、起きて。来るなら来るって先にいってよ、驚くじゃん。」
母の肩をゆらす。

「あ、翔ちゃん。おかえり。遅かったね。お母さん、待ってようと思ったのに寝ちゃった。」
「どうしたの、急に?」
「聞いてよ、お父さんったらひどいのよ。」

会う度に聞かされる父親の愚痴が、今日も開口一番の話題か。
適当に流して今日はもう寝よう。

「そういえば、来るとき翔ちゃんの彼女にあったわよ。彼女いるんじゃない〜。なぁんにも教えてくれないんだから。」
「え?」
「可愛い子ね〜。毎日お弁当作ってくれるんだって?お母さん、受け取っておいたからね。あなたもそろそろ結婚してもいいんじゃない?年取ってからの子供は大変よ〜?」

テーブルを見ると、そこには毎日毎日なるべく見ないようにして捨てているお弁当があった。

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