第12話 看板

別に何の予感もしていなかった。
その日はただ普通の1日で、朝はいつも通り起きるのが億劫だったし、なんならくだらない情報番組の占いは1番運勢が良かった。

強いて言えば数日前の真知との夜を思い返しては、少し浮き足立ってたぐらいだった。
希を言いくるめて一夜を共にしたことも、何故かあのバーにいたユキを冷たくあしらったことも忘れていた。

ランチをビルの中にある小洒落た中華で1人済ました後、スターバックスで濃いめのコーヒーを一杯買う。
気乗りのしない午後のスタートを、強い苦味で少しでも刺激的にしたいとあがく。

まずはランチの間に溜まったメールをチェックしていると、午前中に会っていた新規クライアントから1通届いていた。
このクライアントは競合の会社がガッチリつかんでいて、接触するところからかなり苦労した。
3ヶ月ぐらいかけて念入りに上司と共にリサーチし、なんとか古株のクライアントのツテで取引につなげることができた。
これを成功させたら、社内のニュースにのるレベルだ。

「芹沢さん
午前中は、お時間いただきありがとうございました。
ミーティングの内容について使用した資料と議事録をいただけるとのことでしたが、添付していただいた内容が誤っているようです。
誠に勝手ながら、もしいただいた資料が間違いない情報であれば、今回の取引は再度検討しなければいけない事になるかと存じます。
新道さんのご紹介でとても信用できる方だと伺っていたので、裏切られたような気持ちにチーム一同なっております。
詳細を早急にご説明いただけますでしょうか。
よろしくお願いいたします。

小野寺 」

心臓がいきなりはやくなった。
俺、何を送っちゃったんだ?

送信メールを確認すると、クライアントに最も見せてはいけない内部資料を添付していた。
うちの会社の利益率と、他の会社の取引額。それぞれの会社のキーパーソンについての分析や、会社のランク付けまで載っている。
クライアントに誠実さを押し出して接触していた上司の話を、全く裏付けない資料だった。

終わった。
俺のこの会社での出世は絶望的だ。
何もしなくても成果を出せないやつがバンバンクビを切られていくのに、こんな新入社員ですらやらないクソみたいなミスをしたやつに良い席が用意されているわけない。

諦めと絶望となかばパニックになりながら、急いで上司のもとに向かい事情を話した。
上司は意外に冷静で、今すぐにやるべきことを具体的に明示してくれた。
とにかくまずは、先方への謝罪だ。

会社員人生1番の謝罪を見事に成功させ、自分史上最高の申し訳ない顔を作り出すことができた。
あれはリサーチ前の資料で、様々なリサーチとミーティングを重ねた結果いまは全く別の商品を提案しようとしている。そしてそれは送ってしまった資料よりもかなりコスパの良いもので、証拠の資料もある。

ウルトラCの言い訳も、もちろんすぐにでっちあげた証拠も、全て上司のアイディアだった。
他者についての情報には、不幸中の幸いでロックがかかっており見られていなかったのだ。

何とか事が収束しそうだと帰りのタクシーの中で安堵の笑顔をもらしていると、上司の江川が真剣な顔でこちらを見つめる。

「お前さ、いま正直ホッとしてるだろ?」
「はい、すみません。でも何とか先方も納得してくれて、ほんと良かったです。」
「あんな言い訳、俺はいくらでも思いつくし対応できる。でもな、お前の山場はこれからなんだよ。分かるか?」

あまりの真剣な顔に、黙るしかなかった。

「今回の件は、さすがに無かったことにはできない。上に報告させてもらう。ロックがかかっていたとはいえ、もしも先方が解除をこころみて開いてしまったらどうなる?もしも、そもそもロックがかかってなかったら?あそこに書かれてる全てのクライアントに謝罪してまわるんだぞ。しかもお前だけでは先方も納得しないよな?俺か、もっと上のクラスの人の同席が必要だな?俺らの単価分かってるか?お前なんかの3倍だぞ。謝罪したところで、今後そのクライアントと友好な関係を続けられるかも分からない。お前のあの資料で、いくらの金が吹っ飛ぶことになったかもしれないか分かるか?」
「はい、おっしゃる通りです。申し訳ありません。今後、二度とないようにします。」
「二度とないように?まあ、二度目のチャンスがあればいいな。」

ごくり。唾を飲む音が響く。

「俺はこの会社の看板を失って、ただの凡人に成り下がったやつを何人も知ってる。せいぜいその1人になんないように、今は祈っとくんだな。」

何も言えなかった。
無言のまま、タクシーは六本木にそびえたつキラキラ輝くオフィスに到着した。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?