児童向け、への憧憬

 小さいときに覚えた歌詞というものはこの歳になっても思い出すもので、小学校の合唱団に入っていた時好きだった節は今でもふと思い出す。高校以上向けの合唱曲になると葛藤を歌うものが多いが、小中学校向けはいい。作詞が谷川俊太郎のものや、ポップス曲を合唱に起こしたもの、明々朗々とした歌詞が多い。

 最近ふと思い出したのが少年少女のための合唱組曲『わたしが呼吸するとき』だ。「わたしが呼吸するとき 星はひかり 森の獣たちは寝返りを打つ 走り出すシマウマの群れ ~ オーロラは踊る あなたが笑う」少年少女向けの合唱曲らしく世界が美しくて、感覚と世界の間によどみがない。私たちよりずっとぴかぴかの生まれたての命に向けて書かれた歌詞がこれである。なんて慈愛だろう。「私が呼吸するとき」、と曲のタイトルからこの詩の連が始まるのが気持ちいい。歌いだし前に静かにブレスする、その感覚を聞き手に共有させるようだ。「星はひかり」視点が一気に夜空まで広がる。主人公も有生から無生になり対比を作る。その後曲のテンポが少し上がってダイナミックな自然を歌い、「あなたが笑う」にして視点が私たちの隣に戻ってくる。美しい起承転結である。

 「私が呼吸するとき」、私が存在するその瞬間に同時に存在する物事に思いを馳せ、慈しむこの営みの博愛さよ。ただ私の呼吸と同時に存在する営みの羅列、他者に対する中立的なまなざしという、至極ささやかなケア。

 私は私が居なくとも世界がこのまま滞りなく活動を続ける様を想像すると深く安心する、そういう質であるから、「ああ、いつもいつも私たちは繋がっている」から始まるその後の壮大な歌詞には共感しかねるのだが。しかし、繋がっていなくとも、分かり合えていなくとも、平和が行きわたっていなくとも構わないという点で個人的な好みと違いがあるだけだ。この、世界とのささやかな連続をまなざすこの歌詞に惹かれる気持ちは変わらない。

 そういえば「赤毛のアン」なんかもこの歌詞から連想される。彼女が身の回りの地形や木々に名前を付けていくという一節がこの物語には登場するが、これである。アンが呼吸するとき、彼女はその好奇心で、周りにさんざめく存在を感じ取っている。我々のように経済に組み込まれた者からしたら障害物またはレジャー施設としての価値を図る対象であるものを彼女は隣人として見る。同時に呼吸をするというだけの関係の相手を。

 なに、この歳になってアンに憧れている訳ではない。でもまだ多少は、自分の意識が自他の境界のギリギリまであくがれ出でて、視神経から脳を通さずに私のまわりの働きを見ているような、そんな感覚になることがある。霧が出た朝を歩くとき、私の顔の産毛に目に見えないほどの水滴が付き、ごく表面だけをしっとりとさせるところを想像する。呼吸をするとその水分を多少吸い込む、いま動いた横隔膜の上が少し冷えるのを感じる。きっとこのコンクリートの舗装を抜けると、下草に霜が降りていて、これもしっとりとしている。昼には陽が出て溶けるだろう。


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