架空の母性 補足

 以前投稿した素人現代短歌について、親しい人から感想を聞く機会があった。私の表現力不足がため、伝わっていないことが多かったので、みっともなくも自分で補足を書いてみる。

題『架空の母性』について
 当然私には子もなく、言葉通りの母性なるものは存在しないと思うのだが、それでも子供が居たらこうなのか、どんな感動を覚えるのだろうかと、ふと思いつくことがあるのが不思議だった。リアリティに欠けるので小説などにできる術はないが、その情景を短歌くらいにまとめようと試みた結果である。
 書きだしてみた後から考えるに、私の書くものの題材は植物やそれに由来するものが多く、これを支えているのは幼少期に植物の名前を覚える、観察することが好きだったことだと思う。今は多くを忘れてしまって惜しいが。つまりは私は架空の母性を持っているわけではなく、私の中の創作に通じる少女性を通して、私という架空の母の袖を引いていたのではないかと思える。

踏切の/そばの大東/建託を/買ってしまえよ/僕は変わった

 大東建託についての偏見が含まれるので気を悪くされる方がいないと良いが。生まれた家から市内の別のアパートに引っ越してからというもの、踏切が生活の近くにあった。踏切の近くというのは騒音や車通りにより土地が安いので、単身向けのアパートやかわいらしい外壁の低価格な物件が並ぶのをよく見る。町割りや町の特性にもよるだろうが。個人的にこの「かわいらしい外壁の低価格な物件」が大東建託の単身向けも核家族世帯向けのそれを指す。
 僕は、私はそういった新しく、見栄えよく、早く、安くできているものに懐疑的なのだが、何せよくできているもので、その区画に住めば職場も店も学校も同世代の子供を持つ家も近いのだ。きっと世帯を持つようになったら買ってしまうのではないか。面白みのない、最大公約数的な便利さは、家を買うという至極まともな家庭的な選択を迫られた私にとって、他人と違うものを求めることからくる些細な多くの摩擦から解放されることができるという保証がある。
 しかしまだ私の少女性が完全にはそれを認めないので、田舎の祖母の家の庭や沢に喜びを求めるので、「買ってしまえよ」と振り切る形にした。

中敷に/挟まる砂利と/潰された/梅のがくご覧/君はうぐいす

 テニスをしていた兄のシューズからは、試合や練習後に音を立てて流れ出るような量の砂が出てきた。コート外に公園がある場所などでは、枯葉のくずや小枝も。きっと春ならば、梅のがくや花びらの乾いたものが侵入するに違いない。
 私は小さな靴をそろえる。アスファルトの上ばかり歩く私の靴にはほとんどその必要はないが、小さな靴のつま先にはもう砂の少したまるのが見える。軒先に出てそれを外に出そうとすれば、君が梅の木の下を歩いたことが分かる。君は私にとって、春を告げるうぐいすなのだ。

記されざる/二寸伸びたる/君の背に/かかる髪の毛の/まだ柔いこと

 言わずもがな、正岡子規のパロディ(くれなひの/二尺伸びたる/薔薇の芽の/針やはらかに/春雨のふる)である。この名歌の、まっすぐと伸びてゆく薔薇ほど子供の成長は早くはなく、アンバランスに幼さを残しつつある、精神や身体に発達の差を持ちつつある状態が人の子供にはある。
 身体測定表には記されないのが、まだ大人の毛質になりきらないその髪や、声の高さなどだろう。まだ親が子のシャンプーをしているのか、最近までしていたのか、また編み込みを作っているのか、そこまでは決定された設定はないが、写真や記録に残らないそれを私は記憶しておこうとしている。

準備して/いってらっしゃい/気を付けて/団栗はあまり/ひろってこないで

 子を送り出すときの私は、彼がつつがなく一日を過ごせること、多くの体験を得てくること、しかし面倒ごとを家に持って帰ってこないことを祈っている。団栗の中の虫だとか。
 しかし子供から団栗をもらうなどという経験がいとおしくない訳がないし、君の観察眼をぜひ共有してほしいと願っている。何とか家を出る前に伝えられることと言ったら、「あまり拾ってこないでね」に尽きてしまうのではないか。これが彼には残酷に聞こえただろうか、と発言を振り返りながら、兄が拾ってきたビニール袋入りの団栗を前に、処理に困っていた母を思い出す。「あまり拾ってこないで」は世代を超えて言われ続けているのかもしれないが、何と言って送り出すのが正解だろうかと考える、母の立場になったものだ。

友訪ね/君欠きし盆/昼過ぎの/やっと履きたる/タイトスカート

 盆になると県外の親戚が祖母宅に遊びに来て、私も彼女たちの顔を見に泊まりに行った。プールや墓参りなどの健全な夏休みを過ごして帰ってくると、家はいつもよりも片付いていて、父と母はどこかの量販店でもらったであろうプラスチック製のうちはを持っていた。子供なしで映画を見に行ったそうだ。
 きっと母は、久々に自分の身支度をするに潤沢な時間を持ったことだろう。父の車で移動するからタイトスカートも履ける。スーパーの棚の間で見えなくなる子供たちを足早に呼び止めることもない。


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